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小説「モモコ」第1章〜1日目〜 【1話】

 吸い込まれそうな、真っ黒。

 目を覚まして一番に見た景色は真っ黒だった。

 ぱっくり開けているはずの両目の瞼を疑ってしまうほどに、光という光が見当たらない。慌てて誰かを呼ぼうと口を開けたが、声を出すどころか、呼吸すらうまくできない。

 口の中が水で溢れかえる。 

 ようやく、自分が置かれている状況が飲み込めた。溺れているのだ。

 海なのか河なのか、あるいは人工的な貯水池かプールか。真っ暗闇でまったく何もわからない。たった一つだけわかるのは、とにかく早く浮上しなければ、僕は間違いなく溺れ死ぬということだ。

 文字通り、死にもの狂いでジタバタと手足を動かした。方向感覚も失っているのか、上がどちらかもわからない。ただただ、できるだけ明るい方へ。明るい方へ。

 水面に近づいている気がするが、なかなか手が空を掴まない。思う以上に深くまで沈んでいたのか、あるいは泳ぐ方向を間違えたのだろうか。

 少しずつ意識が朦朧とし始めた。両手足を動かしているつもりだが感覚がない。いま僕は動いているのか止まっているのか、それすらもわからなくなってくる。

 ふと、右手が空をつかんだ。右手が水面から出たのだ。僕は途切れそうな意識を奮い立たせて、手足を動かした。

 そして、急に視界が開けた。冷たい空気がツーンと、鼻から口から流れ込んでくる。

 水面に出ても、世界は真っ暗闇なままだった。頭上には夜空があるはずだが、曇っているのだろうか、星一つ見えない。

 舌の感覚が戻ってきたのか、塩辛さを覚えた。海の香りが鼻を抜ける。

 真っ暗闇とはいっても、陸地の光だけは、遠く横に広がるように淡く瞬いて見える。

 ひとまず溺れ死ななかったことに安堵した。陸地からずいぶんと離れているが、なんとか泳いで辿り着けない距離ではない。

 陸地に向かって泳ぎ出した。潮の流れに捕まると厄介だ。左右の陸地に見える光を二つ、目印代わりに選んだ。この二つが同じ角度で見える位置に泳いでいけば、まっすぐ進めるはずだ。自分の位置を把握するために水面に顔を出しながら泳ぐので、自然と平泳ぎになる。

 目印にした右側の光、少し赤みがかっている方の光が、少しずつ大きくなっていくように感じた。不思議に思いながらもしばらく泳ぎ続けていたが、ふと理由がわかったので泳ぐのをやめた。

 船だ。

 船がこちらに近づいてきているのだ。

「お、おーい!」

 寒さで固まってしまった声帯を精一杯震わせたので甲高い声になってしまった。こんな暗い時間に出港するとすれば、おそらく早朝の漁に出る漁師の船だろう。

 声を出してみて初めて、寒さが自分を蝕んでいることに気がついた。歯の奥からガタガタと震えが伝わってくる。

 幸運なことに漁船はこちらの方にまっすぐに近づいてきた。五十メートルほどの距離のところでようやく遭難者の声に気がついたようで、漁船から誰かが手を振っているのがわかる。

「おい、あんた、大丈夫か?」

 頭にタオルを巻いた漁師と思わしき男が船上から声をかけてきた。投げられた浮き輪に僕がしがみつくと、男がロープを引っ張った。

 船の上に転がり込むと、安堵感と同時に、尋常ではない寒さが襲ってきた。男が差し出したジャケットを奪い取るように掴むと、羽織るように着て屈み込んだ。手足の指先が痺れて感覚がない。今着ているびしょ濡れのシャツを先に脱ぎたかったが、この指ではとてもじゃないが無理そうだった。

 船はやはり漁船だったようで、ジャケットにも魚の匂いが染み込んでいた。 漁船は、波に合わせて上下左右に大きく揺れた。

「なんでこんなところにおった?」

 男が尋ねた。答えようとしたが、すぐに言葉に窮した。

 なぜだ?

「とりあえず警察に連絡するから。あんた、名前は?」

 男は操縦室の無線で誰かに話しているようだった。何度かこちらをチラチラ見て、名前を言うように催促してくる。

 すぐに答えようとしたが、うまく言葉にできない。寒さのせいで口が動かないためだと思ったが、すぐにそうではないことがわかった。凍え死にそうな寒さとは異なる悪寒が、痺れた指先から身体中にびりびりと走る。

 僕は、いったい誰だ?


 名前も年齢も、どうして夜の海で溺れていたのかも、何もかも忘れてしまった僕を乗せた船は、十分ほどで港に到着した。

 途方に暮れる僕を見てあからさまに困った顔をした男は、着替えと暖かいものを持ってくると言ってその場を去ってしまった。ついでに警察にも連絡するとも言っていた。

 港には男の船一隻しかない。他の漁師は海に出てしまったようだ。置いて行かれたのかと少し心配にもなったが、大人しく待つことにした。

 警察がやってくる前に、まずは思い出して置かなければ。きっと一時的なショックで記憶が混乱しているに違いない。

 さて、僕は誰だ?

 震えた両手で濡れたシャツを脱ぎながら、必死に記憶を辿ろうと試みた。脱いだシャツを投げ捨て、再び魚臭いジャケットを羽織って、ファスナーを閉める。最低限の暖かさを手に入れて思考は安定してきたが、記憶はまるで戻ってくる様子はない。空っぽの皿から存在しないスープを延々と掬いとっているような気分だ。

 とにかく、体を動かしていれば何か思い出すかもしれない。

 船から降りてまわりを見回したが、まったく場所に覚えがない。海に投げ出されたのはこの港からではないのだろうか。

 近くに漁師小屋らしき木造の建物が見えたので、とりあえずそこで少しでも寒さを凌ごうと歩き出した。

 小屋は随分と古いものだったが、一応は使われているようで、扉はしっかりと閉まっていた。倉庫代わりにでも使っているのだろう。

 小屋の中は魚臭くてたまらなかったが、冷たい夜の潮風を防げる分、外にいるよりはずっとましだった。十二畳くらいの横長の狭い小屋ではあるが、きっちりした造りのようで、隙間風は入ってきていない。僕は落ちているダンボールを拾うと、ジャケットの上に更に重ねるようにして羽織った。

 ひどく喉が渇いていることに気がついた。帰ってくるのは男が先か警察が先かわからないが、まずは飲み物を頼むことにしよう。

 疲労と寒さにうとうとし始めたとき、小屋の隅から何か小さな影が出てきたのが視界の隅に映った。猫でもいたのだろうと思い再び眠ろうとしたが、その影に声をかけられて、僕は慌てて目を開けた。

「あなた、誰? あの連中とは違うわね。でも漁師でもない」 

 声の主は猫にしては大きく、人にしては小さかった。

「どうしてこんなところにいるの?」

 肩越しに顔を覗き込むようにして女の子が立っていた。僕は驚いて立ち上がろうとしたが、固まった足の筋肉が反応せずに、豪快に尻もちをついてしまった。

 まるで映画のなかから抜け出してきたように可憐な少女だった。十歳くらいだろうか。ピンクの革靴に、同じくピンクのフレアスカート。シンプルな白いカーディガンを着こなし、ショートカットの髪型に、赤いニット帽を被っている。昔見た映画に出てきた、殺し屋と過ごす少女を連想させた。

 この場に似つかわしくない少女の存在に驚きながらも、初めて思い出せた映画の記憶の方が僕にとっては重要だった。何度も、何度も観た気がするが、誰と観たのか、いつ観たのかはまったく思い出せそうにない。

「ねえ? ちょっとあなた、聞いているの?」

 少女が訝しそうにこちらを見ている。

「まあいいわ。それよりあなた、外でスーツの連中を見なかった?」

「スーツの連中?」

 僕が尋ね返すと、少女はすぐに僕への興味を失ったようだった。

「そう、じゃあいいわ」

「なあ、君は、どうしてこんなところにいるんだ?」

「いい? 事態が収まるまで、ここで静かにしていて。絶対に騒いだりしたら駄目よ」

 そう言って少女は踵を返すと、小屋の奥の方に向かっていった。どうやら小さな裏口があるようだった。

「どこへ行くんだ?」

 少女はこちらに一度目を向けたが、興味のなさそうに背を向けて出て行ってしまった。

 あの子は? どうしてこんなところにいるんだ?

 こんな真夜中に、こんな古い漁師小屋に入ってくるくらいだから、おそらくあの子も何かしら普通ではない事情があるのだろう。気にはなったが、残念ながら、他人に構っていられるほど今の僕に余裕はないはずだ。僕は自分に言い聞かせた。

 だんだんと、船を漕ぐような眠気が襲ってくる。


「きゃーっ!」

 幻聴かと一瞬と疑ったが、間違いなくさっきのあの子の声だ。僕はカチカチに固まった身体を無理矢理叩きおこすと、小さな裏口の扉を開けた。

 こんなことなら、やっぱり放っておくんじゃなかった。

 扉の近くに落ちていた鉄製の棒を拾った。本来の用途はわからないが、先端が丸く曲がっている。漁師が何かに引っ掛けて使うのだろうか。何にしても今は、身を守る武器になればなんでもいい。

 悲鳴の先に向かって走り出した。気が動転していて呼吸が荒い。凍えた身体を急に動かしたためか転びそうになったが、不思議と走りは快活だった。

 前方を見ると、遠くからさっきの少女がこちらに走ってくるのが見える。その後方に少女を追いかける黒いスーツ姿が二人、さらにその向こうには白いセダンが一台確認できた。

 あいつらがスーツの連中か?

 怪しい男たちに追われるマチルダ風の少女を助けるなんて、まるで映画のヒーローみたいな話じゃないか。僕は無意味に高揚感を覚えてしまった。先ほどまで海で死にかけていたせいで頭がおかしくなったのかもしれないと自嘲する。

 ああ、マチルダで思い出した。

 あの映画は、レオンだ。ナタリー・ポートマンが演じる少女とジャン・レノンが演じる優しい殺し屋の話。映画や俳優に関する記憶はちゃんと覚えているみたいだ。

 ただ惜しむらく、一つ残念なのは、僕が殺しのプロでもなんでもなく、ただの記憶喪失の遭難者だということだった。

 少女がこちらに駆け寄ってきた。男二人に追われているというのに、表情はまだ冷静を保っていた。

 僕は手に持った棒をしばらく眺めたあと、ため息と一緒に投げ捨てた。近くまで駆け寄ってきた少女が驚いた顔をして僕に視線を向けた。

 膝を曲げ伸ばして屈伸運動をする。軽くアキレス腱を伸ばし、状態を確認した。後方を振り返って距離を目算した。

 百メートルと少しといったところか。

 僕は少女のもとに駆け寄って言った。

「君はあの人たちに追われているの?」

「そうよ」

 落ち着いた口調だったが、表情に焦りが見てとれた。僕を信頼してよいかどうか決めかねているのだろう。

「じゃあもう一つ聞くけど」

 スーツの男たちがこちらへ走ってくるのが見える。遠目に顔が確認できる距離まで来ていた。右頬に傷跡のあるヤクザみたいな男と、眼鏡をかけた初老の男だ。

「船酔いはするタイプ?」

「え?」

 僕は返答を待たずに少女を肩に抱きかかえると、先ほどの漁船に向かって一直線に走り出した。

 まったく覚えがないが、記憶を無くす前の自分に、心底感謝することになった。

 随分と足腰を鍛えてあるじゃないか。

 船までの距離がぐんぐん縮まっていく。

 少女を一人抱えたくらいではまるで失速することもなく、僕はあっという間に百メートルを走りきった。

「さあ、早く乗って!」

 漁の途中だったため、予想通り漁師は船のエンジンを点けたままにしていた。港の堤防に簡単に結び留めてあるだけのロープも簡単にほどくことができた。 

 何か思い出すのではないかと期待も込めて操舵室に入ったが、残念ながら以前の僕は漁船の操縦はしたことがないようだった。どのレバーを動かせば何が動くのか、さっぱりわからない。

「ちょっとどいて! あなたは外をどうにかして」

 後ろから少女が怒鳴ってきたので驚いて僕は席を空けた。少女が迷いなく右奥のレバーを引いた。船が大きく揺れて、僕は衝撃で床に転げ落ちてしまった。

 エンジンがかかり、暗い沖合へと船が動き出した。

 起き上がって港の方を確認すると、波止場に佇んでいる二人の男がどんどん遠ざかっていくのが見えた。ヤクザ風の男が初老の男に話しかけているのがわかる。どうやら初老の方がボスのようだ。

「あなた、むちゃくちゃね!」

 少女が笑いながら操舵室から出てきた。

「わたしが船の操縦を知らなかったらどうするつもりだったの?」

 小さな口でけらけら笑っている少女の姿を見て、なんだかこの状況すべてが可笑しく思えてきた。

「いや、昔の自分に賭けてみたんだけどね」

「昔の自分? 何の話?」

 少女はニット帽を外すと、放り投げるようにして僕に渡した。

「ちょっとそれを持っていて。わたしが操縦するから」

 慌てて受け取った僕の返事を待たずに、少女は操舵室に入っていた。

「ちょっと、どこまで行く気だい?」

「どこにも行かないわ。そのあたりをぐるぐると回るだけ」

「どういうこと?」

「この近くの港はあの連中がすでに張っている可能性が高いわ。でもまさか、もとの港に戻ってくるとは思わないでしょ?」

 少女はこちらを振り返ると、いたずらっぽく笑ってみせた。

「でも、もとの港を調べ回っている場合も考えられない?」

「もちろんその可能性もあるわ。重要なのは確率よ。私の見込みだと、あの連中はもとの港にはいないわ。高確率でね」

「そんなものかな」

「あなたに言いたいことが二つあるわ」

 少女は語気を強めて言った。

「一つ目。昔の自分よりも、今の自分に賭けたほうずっとマシだわ。今の自分が最高だと思える選択肢を選ぶの。過去なんてどうだっていいことよ」

 彼女はもうこちらを向いていなかった。前方を見ながらレバーを握り、船を旋回させている。

「そしてもう一つは」

 僕は操舵室の入り口に座り込んで、雲に覆われたどんよりと暗い夜空を見上げながら、少女の話を聞いていた。

「さっきは助けてくれてありがとう」

〜つづく〜

▶︎2話

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