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2500文字の建築試考「絹を織るまち」

今回は少し長めとなるが、2018年に訪れた「絹を織るまち」山梨県富士吉田市のことについて話す。卒業設計のリサーチのために訪れたまちだ。
ここでは今もなお、絹を染め、紡ぎ、織り、服や傘などを作っている

「絹を織るまち」富士吉田のこと

富士吉田市といえば、
・富士山
・富士急ハイランド
・吉田のうどん(日本一固いうどんらしい)

などなど、特徴はいろいろあるが、その中でも歴史ある特産物として、
・絹織物「甲斐絹」
というものがある。

江戸時代には、江戸で一大ムーブメントを起こし、みんなが着物の生地として使っていたというかつての有名ブランド「甲斐絹」は、光沢に優れ、様々な綺麗な柄を作ることができることが特徴である。

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(写真:富士吉田市観光ガイドHPより)

卒業設計にこの「甲斐絹」を使うことを決めていたわたしは、その絹を織る工場を実際に見ようと「絹を織るまち」富士吉田を訪れた。

一つ目の工場「小野田染色」

最初の目的地である西桂町の富士急・三つ峠駅に降り立つと、曇り空で富士山は見えなかった。
代わりに目に入ったのは山と雲と水の混ざり合いだった。

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とにかく静かで、空気が澄み切り、ただ川の水のように時間が流れていた。そのまま最初に見学する絹の糸の染色工場である「小野田染色」さんへと向かった。
その道中に見たのは、轟々と流れる用水路だった。
とにかく綺麗な水が物凄い量、流れている。全てが富士山から流れ出た、富士の伏流水だ。
その用水路を辿ると、染色工場へと辿り着いた。

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小野田染色では染色における様々な工程を見せていただいた。
まずは糸を見せてもらう。もちろんシルク 100%だ。
今までの人生で、色を染める前の100%シルク といいうものを目にしたことがなかった私は、その美しさに見入ってしまった。

その糸を富士の伏流水で染めるのだと言う。
甲斐絹は普通の糸染めと違って、かせ染という手法を用いている。普通はチーズ染といって、糸をボビンに巻きつけてから染めるのだが、
かせ染は絹独特の風合いを残し、ムラなく美しく染めるために、ひとつひとつ手作業で巻かれたかせ(綛)に染色液を噴射して色をつけていく

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そうして染められた糸は工場に隣接する小野田さんの住宅の2階へと運ばれて1〜2日干されるという。
驚いたのは、絹の糸が干してある部屋の横が、小野田さん宅のリビングであったことだった。この人たちは絹と一緒に暮らしてるんだと心から思った。

ほのかに香る絹糸の匂いと少しの湿気と木材の匂いが混ざり合い、漂う。
その横で朝ごはんを食べる。
なんて幸せな山梨の原風景なんだと思った。

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小野田さんに一通り説明をしてもらい、お土産にと贅沢に絹糸をいただいて、工場を後にすると、そこで気がついた。
小野田家の家の下にも用水路が通っていた。
本当にこの家は絹とともに、そして水とともに暮らしていた。

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2つ目の工場「田辺織物」

2つ目の工場は富士工業技術センターで出会った山梨県立大学の先生と学生の皆さんとともに「田辺織物」さんに伺った。
ここでは織機による絹布の紡織と生地生産を行っていた。

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上から吊り下げられた糸が上下することで経糸(たて糸)と横糸を織り合わせていくジャガード織機が所狭しと並べられている。
昭和時代の全盛期は数十台あった織機がフル稼働しても生産が追いつかなかったそうだが、現在は5台くらいが稼働するのみだ。

それでも織機の出す「ガシャン、ガシャン」という音は工場内に響き渡り、説明をしていただいた田辺さんの声も聞こえないほどだった。
それでも途切れ途切れに聞こえてくる田辺さんの説明から、
シャガード織機は他の織機に比べて、光沢感があり、立体感のある高級感あふれる絹織物を作ることができるということ、
紋紙と呼ばれる穴の空いた意匠図が織物の柄を決めていて、それはコンピュータの2進法の考えの元となっていることを知った。

その音とともに次々と織り上げられる絹織物は、暗い工場の中でも光り輝いていて、触らずとも手触りが伝わってくるような雰囲気を漂わせていた。

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(織機で次々と織り上げられる絹織物)

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(コンピュータの概念の元となった紋紙)

一通り説明をしてもらい、織機のいろいろ、絹織物の質感などを頭で思い返しながら工場を出ようとすると、とても印象的なシーンに出会った。

1人の織匠さんが織機に向かい合っていた。
なぜか時代が巻き戻ったかのように感じた。

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3つ目の工場「槙田商店」

最後に訪れたのが、絹織物を使って傘を作っている「槙田商店」であった。
諸事情により、ここではほとんど写真を撮っていないので、できるだけ文章で記述する。

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先ほどの「田辺織物」と同じように、ここでも自社工場で織物を製造し、それを手作業で裁断、組み立てを行い、傘にしていくという作業が行われていた。
正確にいうと、ここではもう絹織物は使われていなかった。傘のような水に濡れるところにはポリエステル系の生地の方が良いとのことであった。
ただ、「甲斐絹」の名残は、柄の光沢の美しさと奥深さ、繊細さに確かに見られた。

傘は天に向けてかざすもの。
雨の日であっても、晴れの日であれば尚更、光を通す。
この時に「甲斐絹」の真骨頂が発揮される。

光の当て方によって変化する陰影、色彩の移ろい、光と柄の混じり

その全てが美しく、繊細で吸い込まれるような魅力を持っていた。

この美しさを放つ柄は全て、自社のデザイナーがデザインし紋紙におこしている。
そして、出来上がった織物を傘へと形作る作業も傘職人が全て手作業で行う。傘を作るためだけに存在する見たこともない裁断用定規を巧みに操り、布を三角形に裁断。その布を縫い合わせ、骨組みとつなぎ合わせる作業をミシンと手縫いを組み合わせながら行う。

ただの平らな布がハリを持った立体的な傘へと形を変えていく様は非常に美しいものだった。

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(槙田商店HPより)

工場を巡ったのちに見た「絹を織るまち」

かつては富士吉田・西桂地域はどの家も織物関係の仕事に従事していたそうだ。
夜が明けて日が昇ると、どの家からも「ガシャコン、ガシャコン」という音が響き、町中がその音で包まれたそうだ。

養蚕農家さん、製糸屋さん、染色屋さん、整経屋さん、ハタオリ屋さん、着物屋さんなどなど。
町中の人が家の前に桑畑をもち、家の2階では蚕を育て、一家に一台、織機を持っていた時期もあったそうだ。

現在はそうした生活はほぼなくなってしまったが、豊富な水を流す用水路、養蚕用に2階が大きく作られた住宅、美しい景色などを眺めると、かつてから全く変わらない風景の中にそうした絹を織るまちの光景が浮かんでくるかのようだった。

私の祖母の実家にも養蚕用の部屋があったらしい。

この風景を取り戻す事は難しいかもしれないが、この美しさの心をもってまた新しい風景を作っていくことができる
そう感じた山梨での体験だった。


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