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自分のすることを愛せ。子供の時、映写室を愛したように。 〜映画『ニュー・シネマ・パラダイス』

人生で観てきた映画の中で、自分的に「オールタイムベスト」なものを少しずつ紹介していきたいと思います。


この映画はよく「映画好きに捧げるオマージュ」みたいな取り上げられ方をするけど、ボクは、それは確かにこの映画の一面ではあるけど、主題ではないと思う。

いや、それどころか、極端に言うならこの映画は「映画的なものを否定している」とすら思っている。

もちろん映画を愛する人たち(ボクも含めて)にとってはとっても気持ちのいい映画だし、映画賛歌の面もあることはわかっている。

でも、この映画の主題は、

「自分のすることを愛せ。子供の時、映写室を愛したように」

という映写技師アルフレード(フィリップ・ノワレ)の言葉にあると思うんですね。

もちろん「映画への愛」というのは重要な要素だけど、極端に言ったらそれは、文学でもマンガでも絵画でも良かった、と思うのだ。


彼のセリフにはこんな言葉もある。

「人生は、お前が見た映画とは違う。人生はもっと困難なものだ。行け・・・ローマに戻れ」

そう、映画と実際の人生は違う。
映写室の小窓から覗き見た映画は、本当の人生ではない。
トトは映画を見すぎた。
現実を生きろ。そして自分のすることを愛せ。映画ではなく現実の人生を愛せ。

・・・この映画はそう語りかけているように思えてなりません。



人生が映画のようであるならば。

人生が映画のようであるならば、トトとエレナの「映画のような恋」(これはわざとそう撮っていると思う)は、駆け落ちという素晴らしい「FIN」を迎えたはず。

が、彼らの恋はそんな「FIN」では終わらない。
それどころか、アルフレードはその「映画のようなFIN」を邪魔しさえする。

映画と人生は違う。
映画を見すぎたトトは島を出て現実を生きないといけない、と彼は思っていたと思う。


そう、スクリーンという「窓」から(主人公にとっては、映写室の小さい窓から)人生を覗いていると、人生は美しく素晴らしい。

だが実際の人生は・・・もちろん美しい面もあるがそれだけではない。

そう考えてくるとき、ボクは「ニュー・シネマ・パラダイス」の優しくてノスタルジックな面とは全く違う、厳しい部分に気がつくのです。


最後の有名な場面、キスシーンばかりつなげたラストシーンだって、成功してはいるが現実に疲れきっている中年映画監督トトに「子供の時に映写室を愛したように、自分のしていることを愛せ」ということを思い出させるアルフレードの「魔法」なのですね。

あそこでトトは決して「映画への愛」を確認しなおしたわけではない。

彼はあれを観ながら、自分の人生を、生活を、そして自分がしていることを、もう一度愛する方法を知ったのだ。

そう、「ニュー・シネマ・パラダイス」は、単なる映画賛歌のノスタルジーでは決してない。

映画がまだ人々の夢であった頃を振り返りながら、「今の時代の現実」と対比させて、今を生きる活力を与えてくれる前向きな愛の映画なのだと思う。



それにしても「昔のノスタルジー」として出てくる人々のイキイキとした表情はどうだろう。

あの、すべてが知り合いである感覚。
コミュニティが機能しているあの感じ。
映画館の中の素晴らしい小宇宙。老いも若いも貧者も富者も弱者もすべてそこにいてつながっている。
これこそ「街」。これこそ「広場」。

それに比べて冒頭から隣の車の男に「何見てんだよ」と言われてしまうローマという街の味気なさといったら・・・でもそれが「現実の人生」であり、トトはそこで生きていかなければいけない。


さて。
この映画には、実は隠れた主題がもうひとつある。

それは「シチリア」。

この映画はトルナーレ監督のとても個人的な映画なのではないかとも思う。

たえず侵略の危機にさらされ、北イタリアの支配下に置かれてきたシチリア島。そのシチリア人たちの過酷な歴史が、隠しテーマになっていると思う。

例えば、トトの恋人エレナ。
エレナが青い目をしているとトトから聞いたアルフレードが「(恋をするのに)青い目は一番手ごわい」とトトに語ったのは別に恋をちゃかして言ったのではない。

「青い目の女=北イタリア」という図式を当てはめるとよくわかる。
シチリア人には青い目の女はいないのだ。彼女は異人種、それも支配者側の人間なのだ。

こうして見ると、映画の中で思わせ振りに出てくる「王女に恋した兵士の逸話」もある種「身分違いの恋を隠喩したもの」と解釈できる。

身分が違うシチリア男と北イタリア女の恋など、もとから親も許すはずもないし、アルフレード自体も賛成しないのである。

アルフレードがトトを外界へ出したがったのは、いつまでもシチリアみたいな狭い敗者の世界にいてはいけない、というような想いもあったはずだ。

ここらへんはシチリア人にならなければわからないニュアンスなのかもしれない。でも、たぶん同郷のシチリア人たちは、もっと違う風にこの映画を観たはずなのである。


冒頭、カメラはシチリアの静かな海を長回しする。
小さな窓から見える美しいシチリアの海・・・。そこに乗るタイトル。

伏線が張り巡らされて隙のないこの映画の冒頭部にしては、なんだか「よく意味が分からないタイトルバックだな」と最初ボクは思った。

美しいだけでなく、きっと何か意味があるのではないか・・・?

「シチリア」という隠しテーマに気が付いたとき、やっとわかった。これはこの映画の、ある象徴なのだ。

窓から見える海。
その海はシチリア人にとっては美しいだけのものではない。
侵略者がシチリアを攻めるために渡ってきた恐怖の通り道であり、シチリアから出て運命を切り開くための通り道でもある。
つまり「現実の象徴」なのだ。

海の向こうに北イタリアがあり、侵略者がおり、「現実」がある。

「窓」から見ていると美しく見える「海」だけど、実際の「海」ははるかに厳しく過酷だ。

窓=映画、海=人生、と置き換えるとこの映画の主題が見えてくる気がする。

・・・そして、このシチリアという小さな島は唯一「映画という窓」を通して世界とつながっていた。
「シネマ・パラダイス」という映画館を通して住民は世界を観ていたのである。

トルナーレ監督は、それを実に温かく描いていく。
そしてその「唯一の窓」に多大なる影響を受けた主人公の姿を、成長を、じっくり描いている。

そういう意味で、主人公が中年になった後の姿と想いを丹念に描いている「完全版」の方がより監督が考える主題に近いのだろうと思う。

「カット版」は「映画への愛」という主題とは違う部分がクローズアップされすぎている気がする。

ああ。
でもこの映画はいいなぁ。

細部にこそ神は宿るというけれど、この映画、まさにディーテイルが素晴らしい。書きたいことがいっぱい溢れてくる映画だ。

もちろんボクの映画に対する想いも書きたくなるし、大好きなフィリップ・ノワレ(個人的には「追想」が懐かしい!)についても、ジャック・ペランについても、子役についても書きたいし、映画の中のこまごましたいろんなシーンについても書きたい。

時が経ち老人となった登場人物の老人特殊メイク(?)の素晴らしさ。
広場の狂人がミケランジェロ・アントニオーニの映画を「おもしろい!」というところ。
計算もろくにできなかったボッチャがエレナと結婚し政治家として出世しているという風刺。
廃虚と化した映画館で中年のトトが自分が初体験をして床を見下ろすところ。
映画館で知り合い結婚して歳老いていく夫婦の姿。
雨の中でのトトとエレナのキスシーン。
広場が広場でなくなったあたりの描き方のうまさ・・・

うまいなぁ、トルナーレ監督。
当時、弱冠33歳とは驚きだ。


この映画で残念に思うのはひとつだけ。

大人になったトトが映画監督として成功しすぎているところ。
これはシチリア人の願いも入っているのかもしれないけど、でも、もしトトがあそこまでは成功していない映画人だったりしたら、もう少しこの映画にコクが足せたかな、と思うのですが、みなさん、いかがでしょう?

まぁこのままでもボクのベスト10には入る名画だとは思うのだけれど。



どこかで読んだが、映写技師アルフレードが扱っている映写機がずいぶん現実と違うらしい。
正確に時代考証をすると、あんな映写機を使っているわけがない、ということになるらしい。

※※
そういえば、監督のトルナトーレが一場面だけ出演しているのに気がつきました?
ラストシーンで映写する映写技師の役。

※※※
この映画をより名作にしているのは、エンニオ・モリコーネの美しい音楽。
その中でも特に美しい「ニューシネマパラダイスのテーマ」は大好きで、一時ピアノを練習してた。
モリコーネは1964年の「荒野の用心棒」くらいしか代表作がないと思っていたけど、ここに来て一世一代の大名曲群を作りましたねぇ。

※※※※
映画の舞台になったシチリア島の「ジャンカルド」は架空の村。
実際の撮影は、内地のパラッツォ・アドリアーノで行われた。
現在でもこの村を訪れると映画に登場する広場や町並みを見学できるらしい。見に行きたいな。



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