短編小説『Hurtful』 第8話 「愛しい彼女」
第1話前話
「行先」という欄に、駅の喫茶店と書く。「目的」の欄に、レポート作成の為と書く。「帰る時間」とあるので自動的に五時と書く。「今の時間」も書く。続いて「連絡先」、「緊急連絡先」を記入、「薬を持ちました」にチェックを入れて最後に署名、用紙を逆向きにして看護師に押し出す。
外出届を書いたのだ。
「ベルトと携帯とライターがほしいんですけど」
看護師が私のそれらを探しにナースステーションの奥に行く。その間、私はまた別の用紙にベルト、携帯、ライター、と書く。
看護師からライターその他を受け取る。最後に看護師が、私の服の上から体を触る。
鳴宮さん、どうしてるだろうか。とおもった。
杏ちゃんに手を振って病棟の扉を出る。
私は、あの時の煙草事件を思い返しては、一体何が正しかったんだろうと度々考えていた。
しかし、あれだよな。マサ兄も偉いよなあ。煙草禁止令が出てるけど、一本も吸ってない。
マサ兄は、鳴宮さんが皆に煙草をねだっているのを見たり聞いたりすると「汚ねぇ」となじっていた。
でも鳴宮さんだって、悪い人だった訳じゃない。私は煙草をやめようと試みたことすらない。
ともかく鳴宮さんもマサ兄も、我慢しようと頑張ってる。それが偉いよなあ。
そんなおもいを巡らせているうちに、エレベーターがチンと鳴って、一階に着いた。
ロビーを横切っていくと、そこにマサ兄が居た。
そういえばマサ兄はここ数日、午後になるとよく外出していたのだ。
「マサ兄ー、どこ行くの?」
「へへへぇ~」
彼はいつもより幾分薄気味悪い笑い方をし、その場をやり過ごそうとしたらしかったがすぐに諦めて、
「ちょっと、多摩川行くんだよ」
と、言った。
「多摩川?遠くない?何しに?」
私は素直に聞いてみた。
マサ兄は急にマジな顔になり、あたりをギラギラとした眼差しでキョロキョロと見渡し、知った顔が誰も居ないと分かると、
「あれだよ?シーーーーー」
と、小声で、人差し指を唇に当てたり離したりする仕草を猛スピードで繰り返しながら私に言った。
「多摩川のね、ふふふ…。土手の木の下に、穴掘って煙草隠してあんだよ。ふふふ」
「えっ」
絶句しそうになったが、私もほほほほ。と、妙な笑い方をしながら、
「え、じゃぁ最近、毎日そこまで吸いに行ってるの?」
と、聞くと、
「そそそそそそそそそ」
また猛スピードで人差し指を唇に当てたり離したりした。
「オッケー、言わないよー」
お互いに手を振って、私達は別々の方向へと歩いて行った。
土手。っておい。穴掘った。っておい。マサ兄、やっぱすげぇ。やっぱ、色んな意味で、ヤバい。その発想、誰にも真似できない。
ハピネス・ウィル・サンクチュエール精神科病院では、外出・外泊時に軽い荷物チェックがある。
そして、外出・外泊から戻って来た時には、危険物を持ち込んでいないかという、やや厳重な荷物チェックがある。
つまり、マサ兄がどこかへ出掛けて行って、どこかで煙草を買い、吸い、その残りを持ち帰ってしまえば何もかもバレてしまうのである。
外出時間中に吸える本数なんて知れている。
でもだからといって毎日、いちいち四百いくらも出して捨ててたらやってらんねぇ。と、マサ兄はおもったのだな。
私は、多摩川のどこかの土手に埋葬されている煙草とライターを想像した。
そして、マジな顔で手で穴を掘っているマサ兄の姿を想像した。
◇
四時を過ぎた頃、駅の喫茶チェーン店を出た。
レポートの参考文献でガチガチになった頭と、それを読みながら好きなだけ吸い過ぎた煙草のせいで気持ち悪くなった体と、
「これが、外の、現実の、世界かぁ。現実の、人々かぁ」みたいな、急に襲ってきた現実感に心細くなりながら五階の病棟、デイルームに戻った。
非常に疲れていた。
気落ちした様子の杏ちゃんが喫煙所に入ってきた。そういえば今日は丘先生の診察の日だったのだ。
「知的障害だって」
そう言った彼女の表情には、もはや何の色もなかった。
「いや、そんなわけないでしょ」
杏ちゃんは無言で、静かに首を振った。肌を刺すような鋭利な沈黙が流れた。
「だってさ、この間まで時計読めてたじゃん。ジュースも買えてたじゃん。違うよ。たぶん、突発的な何かだよ。杏ちゃんのこと知的障害なんておもったことないし」
杏ちゃんは何も言わず下を向いていた。
「ここで落ち込む必要ないよ。突然なるものじゃないよ、知的障害は」
私はぞんざいな口調で杏ちゃんを励ました。そしてその実、衝撃を受けている自分を隠そうとしていた。
その日以降、杏ちゃんはよく落ちるようになった。ご飯もほとんど食べなくなってしまった。体重を気にしはじめたのだ。彼女は色々なことに、自信を無くしていった。
実は一時は、また普通に時計も読めるようになっていて、自販機で何事もなく飲み物を買えるように戻っていた。だけれども「知的障害」と丘先生に言われてからは、また時計と数字関係全般が駄目になってしまった。
私に出来ることは何もなかった。しかし、「知的障害」に懐疑的な私はノートとペンを部屋から持ってくると杏ちゃんを廊下に座らせて、質問を始めた。
「中学とか高校の頃、買い物はどうやってた?」
「んー。ふつーに買えてた」
「どんな腕時計してた?」
「デジタルとかじゃなくて、こういう針のやつだよ」
「受験は?」
私は杏ちゃんが話してくれたことをノートに書いていった。更に、小、中、高、おばさんと暮らし始めて以降、と分けてまとめることで見えてきたこともあった。「次の診察で丘先生に話すことリスト」を一緒に作ったりしていた。
「おばさんからはね、退院したらもうこっちで面倒みる気はないよって言われた」
なんだこのババア。じゃぁどうしろって言うんだよ。てめーでやってみろよ。
そして丘先生からは、退院しても一人暮らしは無理だから、「グループホームで暮らしましょう」と言われたらしかった。
家には帰ることが難しく、グループホームという未知の概念の心細さが、杏ちゃんを余計に混乱させた。
宣告の数日後に、能力テストとやらをやらされたが、これは散々の点数だったらしい。
「知的障害」を覆すことは出来なかった。
しかしながら私は杏ちゃんから色々聞いて知っているんだけれども。
杏ちゃんの中学・高校時代の成績はいつも1とか2で、これは単に勉強ができない、学力的知識があまりないってだけの話なわけで、丘先生の出した能力テストって、たぶん学力だけのテストだったんじゃないの?
それって、「知的障害」かどうかの証明になるわけ?
「杏ちゃん、あの時のテストってさあ、どんな問題だったの?」
杏ちゃんに苛立ってもしょうがないだろ。
「なんか、徳川家康が幕府をつくった年は、次のどれでしょうとか」
こめかみに青筋が立つ。
そこらを歩いている看護師を呼び止めて、丘先生の診察、次、私に出させろよと言いたかったが、勿論言えなかった。
おそろしいほどの痛みに満ちた現実と未来を抱えながらも、杏ちゃんの明るさが全て失われてしまった訳ではなかった。
杏ちゃんは落ちている時間が多くなったが、この日の朝食後、私達は笑い転げていて、久しぶりに見る彼女のはち切れそうな笑顔は、私を安心させた。
私達はデイルームの椅子を向かい合わせて座り、あほらしい話に花を咲かせている最中だった。覚えていないということは大した内容でもなかったに違いない。
杏ちゃんの右側には、手を洗ったりコップを洗ったりする流しがあり、その水回りの面倒な業務を、ヘルパーのハラさんがいそいそとこなしていた。
ハラさんは三十を少し過ぎたくらいの毒舌女性職員だ。歯に衣着せぬ物言いで私達に指示するので、逆に接しやすく、私達には馴染みやすい存在であった。
毎朝七時半の朝食時間になっても起きて来ないマサ兄を、襟元とっつかまえて無理矢理連れてくる。マサ兄は小学生が究極にグズった時にやる顔をしながら、うぅ~とかぐぅんぐう~とか、聞き取りにくい文句を言いつつも強制的に着席させられる。これはハラさんにしか出来ない芸当である。
杏ちゃんがふと、朝からあらゆることにムカついているであろうそのハラさんに声をかけた。
「ハラさん。結婚しないの?」
杏ちゃんが無邪気な笑顔で聞いた。
「うるさいなー。ほっといてよね」
ハラさんは流しの横に置いてあったコップを全て洗い終えると、それをひたすら拭く作業に徹し、それもこなし終えて今や給湯器の清掃に取り掛かっているところだった。冷水・冷茶・温茶・湯を、セレクトすると出てくるやつだ。
「ハラさん。眉毛ないよ」
「あのねぇ。こっちは朝六時にここ入らなきゃいけないんだからさぁ、化粧する時間なんてないの」
杏ちゃんはケラケラ笑っている。
「ハラさん。それ、大変そうだね」
「大変だよ。ここにお茶捨てんなって言ってんのにあんた達がいつも捨てるからさぁ。詰まるんだよ。ほんとやめてよね、大変なんだからこれ」
「あ。ハラさん、あのね」
杏ちゃんはなにやらポケットをごにょごにょやり始めた。
小さな鍵と、数字が書かれたプラスチックのプレートのようなものと、その二つを束ねてあったゴム紐を取り出した。
これは、杏ちゃんがいつも左手首にぶら下げていたやつだ。
四人部屋の人達は、自分の貴重品入れの引き出しの鍵は、こうして自分で持っていなければならない。
「これね、直してほしいの」
「なにー。紐ほどけたのー?自分で結べないわけー?」
ハラさんは文句を言いながらも、職員、という任務モードに入り、子どものような杏ちゃんを面倒くさくおもいながらも結局は、
「仕方ないなぁ。どうして壊しちゃったのよー」
と引き受けて、老眼の人がやるような目で紐を結び直し始めた。
けれどハラさんは近眼でも老眼でもない。もともとこういう険しい顔なのだ。
「これね、おトイレに落としちゃったの」
「トイレー?」
原さんは般若みたいな顔になった。杏ちゃんは尚も笑ってる。
「トイレって、した後?」
「した後」
「おぃー、ふざけんなよー。汚っねぇ。そんな紐結ばせてるんじゃねーよ。何考えてんのよ。汚っねぇなぁほんと」
私達は笑い転げた。
杏ちゃんに悪意はない、というところに一層の面白みがあった。私は腹をよじりながら、退院したらもうこの子と会うことはないだろうなとおもった。精神科病院では、患者同士の連絡先の交換は禁止されている。辛い者同士がくっついても足を引っ張りあうだけで、健全に生きていけないからだ。
いま、杏ちゃんは笑っている。私達は、一体なんなんだろう。私はいつまでも爆笑し続けていた。
杏ちゃんはその頃、グループホームという概念について、向き合わなければと、焦っているようでもあった。けれどそれを前向きと呼ぶには痛々しかった。度々ナースステーションに行き、彼女が信頼している看護師、稲葉さんを探していた。居ないと分かると、
「すみませーん。稲葉さんに、相談したいことがあるんですけど。いつなら時間取ってもらえるか聞いてもらえませんか?」
と、他の看護師に頼んだりして、いつも今後のことを気にしていた。
グループホームとは何ぞや。まずどうしたらいいんや。手続きは誰がやるんや。という具体的な事を聞きたい様子であった。
杏ちゃんは少しも待てなかった。言動のひとつひとつも焦っていた。何かに追い立てられているかのようだった。
後日。その日は水曜日で、私は徹夜して完成させたレポートを携えつつ、その日にある二コマの大学の授業に出席するために病院を後にした。
杏ちゃんはやはりふてくされた表情であったが、一応は笑顔で、
「行ってらっしゃ~い」
と言った。しかしもうそこには、ふてくされ本来の子どもっぽさはなく、その笑顔も、
「これはね、一応は笑っているけれども、本当は自分でも笑えていないのは知っていて、でも無理に取り繕う。みたいな努力はもうしないよ。知っているとおもうけどね」
というような笑顔であった。
落ちているわけでもなく、悲しんでいるわけでもなく、現実だけを見据えているような杏ちゃんが、ただただおそろしかった。
◇
病院から学校までの通学は、心細いものであった。
まず、バスが恐い。電車が恐い。学校の門をくぐるのが恐い。アトリエ群の窓の奥に見えるキャンバスが恐い。
笑いあっている若い子達。掲示板に張り出されている活字。気の抜けた会話、馬鹿みたいな服装、絵の具で汚れた手、美大生男子がよくやる謎のちょんまげ、韓国メイクを施した可愛くない女。
何もかもがおそろしい。
たった二コマといえども、うつ状態で学校に数時間居ると、この上ない緊張と疲弊と、悲しみのようなものが体に染み込んできて、私はまだこの現実に身を置けないんだな、ということを痛烈に実感してしまう。
一番つらかったのは、一限が終わり、三限が始まるまでの九十分間をどこで過ごしたらいいか分からないことだった。
普段ならこの時間はアトリエで絵を描いているはずが、この日はアトリエがある校舎にすら近づく気になれず、情けなかった。
帰り道、と言っても病院に戻る電車の中、病棟の空気感が恋しくなった。
とりあえず、もう終わった。もう帰るだけだし。今日は充分に良くやった。今日は乗り切った。戻ったらさっさと部屋着に着替えて、ダラダラして過ごそう。
自分を安堵させながら電車を乗り換え、バスに乗り、病院に着く頃にはむしろ元気になり、なんとか無事に五階の西病棟に辿り着いた。戻って来た。
しかし、いつもと違う。空気が違う。何かまずい事が起こったということが分かった。
由美子さんがすたすた私のほうへ歩いてきた。
「杏ちゃんが、隔離室に入れられたの」
「いつですか」
長い話になりそうだった。けれど、とりあえず喫煙所入ろう。というような雰囲気にはならなかった。私は立ったまま由美子さんの話を聞いた。
由美子さんの話す内容はこうだった。
その出来事を、ほんの僅かな人以外、ほぼ全員が見ていた。
杏ちゃんは私が朝病院を出てから、ずっと不穏だったらしい。彼女は丘先生と話がしたかった。そりゃそうだろう、話したいこともいっぱいあっただろうし、聞きたいこともいっぱいあったはずだ。
「丘先生と話がしたいんですけど」
と、看護師に言った。
「丘先生は今、外来の診察中だから、まだ病棟に上がって来られないのよ」
看護師は事実を告げた。
そしてしばらくして、
「まだなんですか?」
と、聞きに行く。
「まだだね。何時になるか、私達にもはっきりとは分からない」
と、返される。杏ちゃんの不穏は増していった。苛立ち、落ちていった。
せめて、看護師と話がしたかったのだろう。
「じゃあ、稲葉さん居ますか?グループホームのこと聞きたいんです」
「稲葉さんは今、他の階の業務に行ってるから。まだこっちには来られないんだよ。たぶん三時ごろには戻って来るとおもうんだけど。そしたら面談してもらえるように言うよ」
「そうですか。分かりました」
そうして杏ちゃんは待った。辛い時間だったはずだ。憶測だけど、たぶん杏ちゃんの頭の中は、不安と、苛立ちと、知的障害と、おばさんと、グループホームと、自分は何からどう手をつければいいんだという気持ちで、パニックだったに違いない。
杏ちゃんは三時過ぎまで待った。しかし、稲葉さんは戻って来なかった。
そして、他の看護師の誰ひとりとして、杏ちゃんの話を取り合ってはくれなかった。誰も、助けてくれなかった。
杏ちゃんは部屋から松葉杖を持ってきた。そして、叫びながら、ナースステーションの窓ガラスを松葉杖でぶっ叩いた。何度も何度も、暴れるようにして、松葉杖を振り回した。
これにはどの看護師も、ナースステーションから出て来れなかった。危険だからである。
そう教えられているのか、看護師達は扉の鍵を閉めて後方へと下がり、身を守った。杏ちゃんの叫びと暴行は止まらなかった。
そこへマサ兄が止めに入った。
暴れる杏ちゃんをともかく押さえようと、杏ちゃんに抱きつくようにして止めにかかった。
その隙に、看護師が出てきて松葉杖を取り上げ、何人かがかりで押さえつけ、強制的に隣の隔離室に入れた。
マサ兄は、腕や足に何か所も怪我をして泣いた。
「守ってやれなかった」
そう言って、泣いた。
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