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祖父の50回忌

父方の祖父は、船乗りだった。
父が17歳の時に水難事故で亡くなり、縁もゆかりもない兵庫のお寺で荼毘に付されたそうだ。
なので、私は遺影の祖父しか見たことがない。

そんな祖父の50回忌をやる、と母から連絡があった。
50回忌!?なんというパワーワード!
聞けば、50回忌で永代供養になるらしい。卒塔婆やお位牌も先祖代々のものと合わせてよいのだそうだ。

これを逃せば50回忌なんかきっと一生経験できないと思い、日本へ帰国することにした。

2019年4月30日。平成最後の日。

親戚一同我が家に集まった。約25名。
父は6人兄弟唯一の男で、数年ぶりに他県に住む叔母たちもフル集合した。いとこ家族や、弟の家族、母方の祖母もいる。
リビングと和室のふすまを取っ払い、ギチギチになってお仏壇の前に座る。

お経をあげに来てくださった和尚さんは、
「50回忌にこれだけの人が集まってくれるなんて、本当に幸せなことですよ」と仰った。

和尚さんが帰った後は、父が一番楽しみにしていたスライドショータイム。
父はこの日のために、叔母たちから古い写真を郵送してもらい、それを一枚一枚スキャナーでパソコンに取り込んでいた。

法事のときに流したいからどうにかしてくれと、その大量の写真データが入ったパソコンとUSBを数日前から私が預かっていた。
正直ちょっとめんどくさいなと思いつつ、パソコンを開いてみる。

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祖父の笑った顔を初めて見た。

父の初節句の写真、叔母たちが色気づいている写真、祖母の旅行の写真、両親の結婚式の写真、私が生まれた時の写真、いとこの入学式の写真。去年生まれたばかりの甥っ子の写真。まさしく「ファミリーヒストリー」

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そして私はひいおじいちゃんが海軍の一等兵だったことを初めて知る。
笠置という船に乗り、日露戦争に行ったらしい。
日露戦争なんて歴史の中の出来事で、自分とは全く関係がないことだと切り離して考えていたが、確かにつながっていることを実感した。

日露戦争よりもずっとずっと前から、脈々と時代を越えて命が受け継がれてきたんだなぁなんて当たり前のことに思いを馳せる。ご先祖様が私を見たら、なんて思うかな。そんなことを考えると、ピンと背筋が伸びる感覚になる。
託された命を無駄なく生きなければならないと改めて思った。

そして100年も前から船乗りの家系だったことにも驚いた。
我が家は父も弟も船乗りなのだ。
私が幼少期からずっと、将来は海外で暮らすと確信し、実際そうなっている理由が腑に落ちた。この血筋だもの。仕方がない。
私の中にこのDNAが入っていると思うと、爪のささくれすら愛おしい。

エモい気分に浸りながら、それらの写真をトリミングしたり順番に並べたりして、スライドショーを作ったのだった。

写真が変わるたびに笑い声や歓声があがる。子どもたちは、あれ誰?これ誰?と大忙し。昔話に花がさく。
スライドショーを見ながら、叔母たちが祖父の話を聞かせてくれた。

遺品の手帳から俳句が見つかったこと。
祖母の家族を大切にする人で、祖母の家族と同居する、いわゆる「マスオさん状態」だったこと。
遺影の写真のペラペラの祖父が、頭の中で肉付いていく。

スライドショーが終わる頃には叔母たちは全員泣いていた。父もキッチンの陰に隠れて泣いていた。

夜は、法事に来られなかった親戚も集まり、温泉旅館で晩ご飯を食べた。
総勢30名以上の賑やかな食事会。
そのまま泊まり、部屋のテレビで令和へのカウントダウン。
祖母、母、私、妹、義理の妹と甥っ子2人。
4世代で布団を敷き詰めて眠る。

時代の終わりと始まりの日がこんな素敵な1日でよかったな。令和もきっといい時代になる。旅館のぬくぬくとした布団の中でそう思った。

人が本当に死ぬ時は、思い出す人がいなくなった時という。
私はこの日のことをきっと一生忘れない。
一度も会ったことがない祖父は、私の中で生き続けるのだろう。

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