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「ノルウェイの森」のキズキはなぜ自殺を選んだのか。

 今回はタイトルにある通り、村上春樹の「ノルウェイの森」のキズキくんについて語りたいと思っています。
 キズキくんは、「ノルウェイの森」の主人公、ワタナベトオルの友人であり、ヒロインの直子の幼馴染で恋人で、高校3年生の5月に自殺してしまいました。

 彼はなぜ、自殺をしたのか。
 それを「ノルウェイの森」を愛読しているだけの僕が、可能な限り紐解いてみようと試みたのが今回の記事です。
 素人の拙い論ではありますが、一読いただければ幸いです。

 本編に入る前にまず、紹介したい作家が二人います。
 庄司薫と古井由吉です。

庄司薫と古井由吉。

 あまり言及されていませんが、この二人は同じ一九三七年生まれで、共に日比谷高校を卒業しています。更に、庄司薫は「赤頭巾ちゃん気をつけて」で芥川賞を受賞し、その一年後に古井由吉は「杳子・妻隠」で芥川賞を取っています。

この同い年の作家の話を前半でさせていただき、後半で「ノルウェイの森」のキズキくんにスポットを当てていけたらと思います。

 まず、古井由吉の「杳子」について触れたいと思うのですが、少しだけ「ノルウェイの森」にも言及させていただきます。
「杳子」と「ノルウェイの森」には共通点が幾つかあって、一つにはヒロインの女の子(杳子と直子)には、歳の離れた姉がいて、妹の未来を姉の姿が予言している、というものです。

「杳子」で言えば、心の病気を姉が患っていたことがあり、妹の杳子も同様の病に罹ります。
「ノルウェイの森」の直子の姉は高校三年生の頃に暗い部屋で首を吊って自殺し、直子もまた暗い森の中で自殺します。
 この二人の対比については、別の記事で詳しく書いたので良ければ一読いただければ幸いです。

 それ以外の共通点として庇護者の否定と歩行小説というものがあります。
「杳子」と「ノルウェイの森」の歩行の役割の一致について、まずは書かせてください。

男女の歩行の後にあるもの。

 古井由吉の「杳子」は小説の半分以上が男女の歩行です。
 女の子が少し後ろを歩いたかと思えば、男の子よりも前に出て歩きだしたりする歩行の関係を結びます。そして、その後に肉体関係を結びます。
 それと比べると「ノルウェイの森」の男の子は常に女の子の後ろを歩きます。

「ここはどこ?」と直子がふと気づいたように訊ねた。
「駒込」と僕は言った。「知らなかったの? 我々はぐるっと回ったんだよ」
「どうしてこんなところに来たの?」
「君が来たんだよ。僕はあとについてきただけ」

 そして、直子の二十歳の誕生日に「僕」は直子と寝ます。
 歩行することがセックスに繋がっていると断言できる訳ではありませんが、あくまで物語の構造上、男女の歩行の後にセックスはあります。

 他に歩行による関係でセックスへと繋がった小説はないかと考えたところ、吉行淳之介の「星と月は天の穴」が浮かびます。
 一部、引用させてください。

「どうだ、ぼくの散歩用の女にならないか」
「散歩用って、どういう……」
「街を一緒に散歩してくれればいい。きみが綺麗だから、みんなに見せびらかして羨ましがらせてやる。部屋の中でのつき合いは、いらないというわけだ」
 そういう言い方をしても、結局は愛の告白をしているのと同じ状況ではないか、とAはおもう。

 僕は吉行淳之介を尊敬していますし、ちょっと憧れている部分もあるんですが、この部分はトロフィーワイフ化(女性を人に自慢するための道具にする)っぽくて嫌いです。
 もちろん、時代もあると思うんですが(「星と月は天の穴」が群像に掲載されたのは一九六六年)、現代において、これに近い発言をする方がいたら普通に軽蔑します。

 話を戻して、歩行、共に散歩をするという行為は物語的な意味合いで、セックスに繋がっています。
 おそらく、その根源は川端康成の「伊豆の踊子」なのですが、この小説にセックスシーンはなく、歩行によって男の子が女の子から好意を向けられて、そのまま別れることが、なんだか気持ち良い小説となっています。
 男女が歩行することは、言わば好意の交換であり、その先に望めばセックスがある(というか自然の流れであれば、ある)と考えて頂ければ幸いです。

 そして、好意の交換は済ませているにも関わらずセックスをしないことの心地良さ(自然の流れに対する抵抗)を書いた作家が庄司薫です。
 どういうことか説明する前に、庄司薫という作家について説明させてください。

庄司薫という作家について。

 庄司薫は福田章二(しょうじ)という本名で第3回中央公論新人賞(一九五八年)を「喪失」で受賞しています。その後、総退却と言って、表舞台から消えます。
 数年後に庄司(しょうじ)薫という名義で「赤頭巾ちゃん気をつけて」を発表し、芥川賞を受賞します。
 名前で分かるように「福田章二(しょうじ)」→「庄司(しょうじ)薫」と本名を引き継いだ形となっています。

 ただ、ここで不思議になるのは「庄司」は前の名前から引き継がれているとして、「薫」にはどんな意味があるのか、です。
 と言うのも、「赤頭巾ちゃん気をつけて」「さよなら快傑黒頭巾」「白鳥の歌なんか聞こえない」「ぼくの大好きな青髭」の赤、黒、白、青(新潮文庫で2012年に出版された際は、赤、白、黒、青の順番になっています)の四部作の主人公の名前が著者と一緒である「庄司薫」です。

 著者と物語世界の名前が同一である以上、何か意味があると考えるのは当然です。
 評論家の川田宇一郎いわく、薫は「伊豆の踊子」の踊子の名前なんだそうです。
 つまり、庄司薫は「伊豆の踊子」の「歩行によって女の子から好意を向けられて、そのまま別れること」の心地良さを目指した作家と言うことができます。

 その心地良さを庄司薫の小説から探すとするなら、以下のような部分になります。

 つまりぼくは、平たく言えば「女をモノにする」絶好のチャンスを逃して、しかもなんてことだ、なんとなく嬉しいような気がするなどということになっては、これはちょっと、たとえば「フリー・セックス」の現代においては許しがたいほどのいやったらしい優等生ぶりではあるまいか。

 この前にある女医のシーン(「女をモノにする」絶好のチャンス)は本当に官能的で、どちゃくそエロいんです。
 庄司薫はあとがきで、安部公房が「(女医のシーンではなく、終盤の幼馴染の女の子と手を繋いで歩くシーンで)オレタッチャッタ」と感想を貰ったエピソードを語っています。

「壁 - S・カルマ氏の犯罪」や「砂の女」を書いた第二次戦後作家で、今でも本屋に行けば絶対に置いている作家の感想がそれで良いのか?
 と思わないでもないんですが、幼馴染の女の子と手を繋ぐだけで、性的興奮してしまう瞬間って確かにあるように思います。

セックスをしないことこそセックスだ。ざまあみろ。

 少し話はずれるのですが、お笑いタレントの「バカリズム」がラジオで「性に奔放な女の子と部屋で二人きりになって、どう考えてもセックスする空気の中で、絶対にしない。それこそがセックスだ、ざまあみろって思っちゃうことがあるんですよね」と発言をしていました。

 どういうこと?
 って言いたいんですが、すみません。
 その気持ち、すっごく分かるんですよね。
 むしろ「据え膳食わぬは男の恥」の方が分からないんです。

 精神医院の斉藤環いわく、男性は九十秒に一回セックスのことを考えるんだそうです。
 個人の感覚として、そんなに頻繁に考えている気はしないのですが、もしもそれくらい頻繁に考えているなら、「セックスをしないことこそセックスだ。ざまあみろ」に行き着く男性は多い気はするんですけどね。

 僕の周囲ではあまり、この手の意見は聞きません。
 言わないだけかも知れませんが。

 長くなっているので、一端まとめのようなものを書かせてください。

自然に逆らった人工的な小説。

 まず、古井由吉の「杳子」は半分が彼と杳子の歩行で占められています。
 村上春樹の「ノルウェイの森」もワタナベトオルと直子の関係性は歩行によって支えられています。
 二つはその後に自然の流れとして男女のセックスへと至ります。

 庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」にも印象的な歩行のシーンがあります。
 それが、安部公房が「オレタッチャッタ」と言う幼馴染の女の子と手を繋いで歩くシーンです。

 物語的な自然な流れとして、男女の歩行は好意の交換であり、その先に望めばセックスがあります。
 しかし、庄司薫は川端康成の「伊豆の踊子」を意識した「「女をモノにする」絶好のチャンスを逃して、しかもなんてことだ、なんとなく嬉しいような気がする」小説である為、セックスを書きません。

 むしろ、バカリズムが言うところの、「どう考えてもセックスをする空気の中で、絶対にしない。それこそがセックスだ、ざまあみろ」を庄司薫は貫いています。

 それを村上春樹は小説の中で別の言葉で表しています。
 最後に引用させてください。

 鼠の小説には優れた点が二つある。まず、セックス・シーンが無いことと、それから人が一人も死なないことだ。放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。

 庄司薫の小説は鼠の小説のように、セックスと死が巧妙に回避されています。

 それは自然に逆らった人工的な小説とも言えます。
 主人公が著者と同じ名前である「庄司薫」である部分などは端的に、そういう在り方を表しています。

 そんな人工的な小説シリーズの完結編(?)が「ぼくの大好きな青髭」という小説で、これが殆ど奇蹟みたいな完成度と強度を誇っています。
 この小説の帯には「若者として死ぬのか、大人になって生きるのか。」と書かれています。

お姫様と用心棒の契約。

 改めて、庄司薫は徹底的にセックスを書かないことを目指した作家でした。
 その関係性として採用されたのが幼馴染であり、お姫様と用心棒という契約関係です。

 これを書くと、個人的に懺悔しないといけないことがあります。
 僕がカクヨムで書いている、ある作品内で「お姫様と用心棒」の関係を結ぶシーンがあります。
 庄司薫に丸ごと影響を受けた時期が僕にはあったんです。
 習作ということで、お許し下さい。
 申し訳ありません。

 という個人的な懺悔は置いて、庄司薫が書いたお姫様(由美)と用心棒(庄司薫)の契約のシーンを引用させて下さい。

 小学六年生の春のことだが、或る夜十時すぎてから(小学六年生にとっちゃ真夜中もいいところだ)彼女はうちへやってきて、ぼくを呼び出して、わざわざ門のかげまでひっぱっていったことがあった。その日彼女は初めてメンスがあって、それでぼくに教えにきたわけなんだ。そして彼女は、寒さとびっくりしたのとでブルブルふるえているパジャマ姿のぼくに、あたしはもう一人前の娘なのだから、男のひとにいつ強姦されるか分からない、あなたはそういう時に、必ずあたしを守ってくれる? なんてきいた。

 ぼく(庄司薫)は、これにうんと頷いて、「明日から柔道を習おうと思った(そしてほんとうに始めたんだ)。」と用心棒の役割を引き受けます。
「ノルウェイの森」にも同様のシーンがありますので、引用させて下さい。

 はじめてキスしたのは小学六年生のとき、素敵だったわ。私がはじめて生理になったとき彼のところに行ってわんわん泣いたのよ。私たちはとにかくそういう関係だったの。だからあの人が死んじゃったあとでは、いったいどういう風に人と接すればいいのか私にはわからなくなっちゃったの。人を愛するというのがいったいどういうことなのかというのも」

「赤頭巾ちゃん~」と照らし合わせて、「ノルウェイの森」を読むと直子とキズキの関係がお姫様と用心棒の役割で結ばれていることが分かります。

 キズキは十七歳の時に自殺します。
 どうして彼は自殺してしまったのか。

なぜ「ノルウェイの森」のキズキは自殺したのか。

 これは「ノルウェイの森」を貫く一つの主題であり、今回その部分について詳しく書ければと思うのですが、その前に庄司薫と古井由吉の話に戻らせてください。
 庄司薫はお姫様と用心棒という関係性を結ぶことで、セックスをしない物語世界を作りました。

 そんな物語世界の否定として「杳子」はありました。
 以前、『古井由吉「杳子」を読むと思い出すアイデンティティを失った僕について。』に書きましたが、それは庇護者の否定です。
 杳子は心の病気にかかっています。
 そんな彼女が後半で「病気の中で坐りこんでしまいたくないのよ。」と発言します。

 もしも、杳子が庇護者(用心棒)を認めてしまったとするなら、その瞬間に「病気の中で坐りこんでしま」うことになりかねません。
 用心棒は対象者を甘やかし、自立心を奪う側面があり、非常に危うい関係でもあります。

 こちらに関しても「ノルウェイの森」の直子が明快な言葉で語っているので、紹介させてください。

「だって誰かが誰かをずっと永遠に守りつづけるなんて、そんなこと不可能だからよ。ねえ、もしもよ、もし私があなたと結婚したとするわよね。あなたは会社につとめるわね。するとあなたが会社に行っているあいだいったい誰が私を守ってくれるの? あなたが出張に行っているあいだいったい誰が私を守ってくれるの? 私は死ぬまであなたにくっついてまわってるの? ねえ、そんなの対等じゃない。そんなの人間関係とも呼べないでしょ?」

 直子がこの台詞を伝えたのは「ノルウェイの森」の主人公、ワタナベトオルでした。
「ノルウェイの森」を読んだ読者は承知していることですが、直子はワタナベトオルを愛していませんでした。
 本文にしっかりとそう書かれている以上、それは逃れられません。

 直子が「もし私があなたと結婚したとするわよね」と過程の話をするとすれば、それは自殺してしまったキズキであったはずです。
 しかし、キズキが相手だった場合、さきほどのような台詞にはならなかったのではないか? と僕は想像します。

 なぜキズキが自殺してしまったのか、その原因を僕はお姫様と用心棒という関係性に求めたいと考えました。
 直子の言う「対等」な「人間関係」を結ぶ為には、お姫様と用心棒(庇護者)であってはいけません。

 誰かが誰かをずっと永遠に守り続けることは不可能なのだから当然です。
 あるいは、もしも永遠に守り続けることができるとしても「私は死ぬまであなたにくっついてまわってるの? ねえ、そんなの対等じゃない。」と直子は言います。
 その通りです。

 しかし、直子は「赤頭巾ちゃん~」の女の子、由美のように、はじめて生理(メンス)になったときにキズキのもとに行って、泣いてしまい「誰かが誰かをずっと永遠に守りつづける(お姫様と用心棒)」の契約が成立させてしまいます。

 少なくともキズキの中で、それを引き受ける部分があったからこそ、どこまで行っても「対等」な「人間関係」が直子と築けないという理解があったのだろう、と僕は考えます。
 直子はキズキに対し「(彼は)ただ弱いだけなの」と言います。
 更に、「でもどう言われても私、彼のことが好きだったし、彼以外の人になんて殆ど興味すら持てなかったのよ」と続けます。

 先ほどの「だって誰かが誰かをずっと永遠に~」の直子の台詞を思い返すと、今回の台詞は盲目的すぎる上に、それを「ただ弱いだけ」の男の子に押し付けてしまうのは、如何なものかと思います。
 とは言え、僕はキズキの自殺はそういった直子の盲目的な態度にあったと思っている訳ではありません。

 まず、キズキは直子と対等な関係を結べず、また用心棒にもなりきれない自分(ただ弱いだけ)に対する苛立ちがあったと予想します。
 これを「杳子」と「赤頭巾ちゃん~」の文脈に落とし込むと、キズキは直子と対等な関係を結ぶのであればセックスをする必要があり(庇護者の否定)、用心棒になるのであればセックスを求めてはいけなくなる(庇護者の肯定)、という曖昧な場所に彼は立っていました。

 その曖昧さが
N360の排気パイプにゴムホースをつないで
死ぬまでにどれくらいの時間がかかったのか、僕(ワタナベトオル)にはわからない
遺書もなければ思いあたる動機もな」い自殺へと繋がったのではないか、と僕は考えます。

 彼は「ただ弱いだけ」であり、その曖昧さや何処にも行けなさに耐えられなかった。
 直子がキズキとの関係を以下のように表現しています。

 私たちは無人島で育った裸の子供たちのようなものだったのよ。おなかがすけばバナナを食べ、淋しくなれば二人で抱き合って眠ったの。でもそんなこといつまでつづかないわ。私たちはどんどん大きくなっていくし、社会の中に出ていかなくちゃならいし。

 まるで、それは楽園です。
 キズキは「いつまでもつづかない」「どんどん大きくなっていく」ことにさえ、耐えらなくなってしまったのではないか。

 もしも、直子と対等な関係ないし、お姫様と用心棒の関係性が結べていれば、キズキは自殺を選ばなかったのではないか。
 と同時に、キズキの前にワタナベトオルが現れなかったら、彼は自殺を選ばなかったのではないか、とも考えます。
 自殺前のキズキの唯一の意思表示は、主人公ワタナベトオルにビリヤードで勝つことでした。

 なぜ、キズキは自殺前にワタナベトオルにゲームで勝つことにこだわったのか。
 それは直子の台詞から窺い知ることができます。
 先ほど引用した内容も含まれるのですが、書かせてください。

 私たちは支払うべきときに代価を支払わなかったから、そのつけが今まわってきているのよ。だからキズキ君はああなっちゃったし、今私はこうしてここにいるのよ。私たちは無人島で育った裸の子供たちのようなものだったのよ。おなかがすけばバナナを食べ、淋しくなれば二人で抱き合って眠ったの。でもそんなこといつまでつづかないわ。私たちはどんどん大きくなっていくし、社会の中に出ていかなくちゃならいし。だからあなたは私たちにとっては重要な存在だったのよ。私たちはあなたを仲介して外の世界にうまく同化しようと私たちなりに努力していたのよ。結局はうまくいかなかったけれど」

 キズキも直子と同じ考えを持っていたとするなら、外の世界へと自分たちを繋いでくれる存在はワタナベトオルでした。
 逆に言えば、ワタナベトオルさえ居なければキズキも直子も外の世界から背を向けて、楽園のような無人島でゆっくりと不幸になっていくことができました。

 しかし、ワタナベトオルという外の世界と自分たちを仲介する存在を知ってしまった以上、キズキは以前のように直子と無人島で戯れることはできなくなってしまったはずです。

 キズキの中で、どのような葛藤があったのかは分かりません。
 いつか直子がワタナベトオルと無人島を出て行き、一人残されると思ったのか、あるいは逆に直子を無人島に一人取り残してしまうと思ったのか……、全ては闇の中です。

 ただ、分かるのはキズキにとって外の世界へと仲介してしまうワタナベトオルという存在に対し、愛憎入り交じる思いを抱いていただろうことです。
 そんなワタナベトオルにビリヤード(ゲーム)で勝つという、ちっぽけなことがキズキにとって重要な意味があったはずです。

 前回、僕は庄司薫の「ぼくの大好きな青髭」という小説に言及しました。この小説の帯には以下のようにあります。

 若者として死ぬのか、大人になって生きるのか。

 キズキがなぜ自殺をしたのか、それはどこまで考え尽くしても憶測の域はでません。
 だから、あえて無責任な書き方をします。

 遺書もなく、ただワタナベトオルにビリヤード(ゲーム)で勝つことにこだわったキズキは若者として死ぬことを選んだのではないか。
 若者という定義は曖昧ですが、直子の言葉を借りるならキズキは「ただ弱いだけ」の男の子です。

 当たり前ですが、若者が「弱い」ことの全てを許される訳ではありません。
 ただ、大人になったら、間違いなく「ただ弱いだけ」でいられるはずもありません。
 キズキは「ただ弱いだけ」の存在として、若者らしい意地、ゲームに勝つというささやかな意地、を張って死んで行ったのではないか、と僕は考えます。

 最後にキズキの幼馴染である直子も自殺しますが、彼女は「ただ弱いだけ」の存在としても、若者としても死にませんでした。

 では、なぜ直子は自殺を選んでしまったのか。
 それはまた別の機会に書きたいと思います。

 今回、非常に長い文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。


サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。