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自分史上ここ10年最大の変化が起こるかも・後編

 前編を書いた後、心境に変化が起こってしまって、後編を書く気になかなかなれなかった(笑)。

今、重い腰を上げてこれを書いてみてはいるものの、実はあまりノリノリでもない。

なら、書かなきゃいいのだが、なんとなく、「早く出してスッキリして、その後一旦おやすみしたい」と私のどこかが訴えてくるので、それに従ってとりあえず腰を上げてみたという次第である。

私が今後、自分の目指す人生を歩むにあたって、自分をさらけ出すことが必要だろうし、それができるようになることは自分の望みでもある。

昔からそこを自覚して意識的に取り組んでいたわけではなかったが、振り返ると結果的に、自分を許す、とか、自分を好きになる、とか、人の目を気にしない、というようなワークをたくさんしてきていた。

だから、昔に比べたら今はだいぶできるようになっていたのだが、最近になって、自分が本当に本当にワクワクすること、つまり100%の熱量を感じる物事については、「ちょっと露出を控えておこう」とつい思ってしまう癖があることに気がついた。

つまり、100%の熱量がある物事については、つい隠す、あるいは、熱量を70%以下に下げて出す、ということをしていたのだ。

そのパターンはとても巧妙で、「ライターとして、編集者として、より多くの人に理解できるようにして世に出さねばならない」という立派な理由があった。それを理由に、「100%の熱量をそのまんま出したら、きっと多くの人は『???』となってしまって伝えたかったことが届かないだろう。だから、熱量を下げよう」ということをしていたのだ。

これは、自分のことを書く場合も、取材対象がいる場合も、同じ。もっと言えば、企画を立てる時からその思考であった。

もちろん、そのように受け手の理解度を意識できることはライター、編集者の現実的なスキルとも言え、実際、私はその取捨選択ができるから重宝されたというか、仕事を切らすことなくやれてこれた面もあるんだとは思う。

でも、自分が変化するにつれ、だんだん疑問が出てきていた。

なぜ、私は、熱量を下げないと伝わらないと思い込んでいるのだろう?

自分がそんなにワクワクすることなら、その熱量を下げずに伝えるにはどうすればいいか?と考える選択肢もあるはずなのに、なぜそっちにはいかないんだろう?

その疑問は宙ぶらりんのまま、しばらく放置していたのだが、先日、筋肉反射テストを使って内観を深めるという機会に恵まれた。

ただの自己内観と違うのは、筋肉の反応を見ることで、より深い潜在意識にまでリーチできるということだ。

(筋肉反射テストについては、説明が面倒臭いので、知らない方は申し訳ないけどインターネットで検索してくださいませ)

それで、私は先に述べたようなこと、すなわち、なぜ自分は最もワクワクすることをそのまんま人に伝えようとしないのか、について深掘りしていった。

熱量を下げようとするのは、熱量そのまま出すことに恐れがあるから、と言うことはすぐに出てきた。

では、熱量そのまま出したら何が怖いのか?

自分の大好きなことが人に理解されないことが怖い?  ノー。

自分を曝け出して人から拒絶されることが怖い? ノー。

これを丸出しにしたら社会不適合者になるのではという恐れ? ノー。

筋肉反射テストが反応しない、つまり「ノー」の推測をいくつか繰り返した後に、ついに真打ちがふっと出てきた。

「熱量そのまんまの私を出すと、自分でなくなってしまう気がして怖い?」

イエス。

「自分でなくなる気がするっていうのは、どういうこと?」とさらに突き詰めていくと、「私は、私がまともでなくなることが怖い」に反応があった。

そもそも、なぜ自分を出すとまともでなくなると思っているのか疑問であるが、内観は続く。

「自分がまともでなくなると、何が怖いの? どんな怖いことがあるの?」

そこで、ついに出てきたのが、これ。

私が自分の熱量そのまんまを出すと、「まともでない」と不愉快になる人がいる。それが怖い。

「不愉快になる人…それは誰?」

…お母さん。

私は、母との関係に若い頃から葛藤があって、不登校も、アームカットも、婚期が遅かったことも、最終的に深掘りすると、母との関係にたどり着いたという経験を経ている。

そうして気づくたびに、母との関係は改善していって、癒されていって、今はもう表面に上がってくるほどの問題はほとんどないといって過言でない。

しかも、私も母も歳を重ねたので、今、私が何をどうしたところで、「娘がまともじゃなくなった」などと母が不愉快になることはおそらくない。

だから、私が抱えていたのは、ずっとずっとずっとずっと昔に、なんらかのきっかけで自分が思い込んでしまったこと、というだけである。

でも、それが、今の今まで、私の人生に影響していたのだ。

実を言うと、来週から2週におよぶインテグレイティッド・ヒーリング(IH)の講習会があって、私はそれに参加することになっている。

そんなタイミングで、この気づきがあったかぁ、と、なんだか流れを感じないわけにいかない。

(IHについても、ご存じでない方、ネットで検索なさってください。いつか自分の言葉でちゃんと説明できるようになりたいとは思っていますが)

で、これらのことが全部関係していると思うのだが、大きな変化が始まっている感覚があって、これまで好きでやってきたことのいくつかについて、今現在はちょっとときめかなくなった、ということが起こっている。

このnoteのほぼ毎日投稿についてもそう。

なので、少なくともIHの講習会が終わるまではnoteのほぼ毎日更新は一旦おやすみすることにした。

余談だが、私がIHを学びたいと思ったのは、このように問題の根本にあること(この場合「母を不愉快にさせるのが怖い」)を見つけ出すだけでなく、「では、どこを目指したいか?」も見つけ出して、そこに向けて変わるために必要な調整をする、というコンセプトに、これまで出会ったヒーリングメソッドにはない魅力を感じたためだ。

その全てを選択するのはプラクティショナーではなくて自分(の潜在意識)だってところもユニークで、調整方法の選択肢もかなり多岐にわたっていてさまざまな分野のメソッドが織り込まれている。

余談が長くなったが、次に投稿するのは、そのIHを学ぶ講習会を終えた後にする。再開した時にIHについて書くのか、全然関係ないことをしれっと書くのか、それはその時の自分の感性に従おうと思う。もしかしたら、毎日更新はやめた、となる可能性もあるが、それもあり、と自分を許す。

もう、ほんと、心の自由をさまたげているのは、自分だけ、ですな。

もし、自分の心を縛ってしまった、その原因は自分でなく他の誰かや環境のせいだったとしても、その縛りを解いてあげられるのは自分だけ、なのだ。