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『がっこうぐらし!』観てきました



 麻雀以来アイドル実写映画の人に片足突っ込んでる気がしますが。
 いい映画だったのでご報告まで。

「きらら系日常もの」というジャンルのメタネタとして生まれた節がある、ある意味殴り合う魔法少女のご同輩とも言える(そういやまどか☆マギカも芳文社だったし、まさに自家薬籠中の大御所なのかもしれない)原作漫画を実写化する、と聞いて、割と妙な顔をした人も多かったと聞いています。
 まあ不安なのはわからないでもない話で、実際アイドル主演のホラー観て首を傾げた経験は僕も一度ならずある。
 しかもプロモーションの仕方が「これまでのメディアミックス」とは違うというのがまた効いていたわけですね。前振りで別のジャンルのように見せかけておいて、蓋を開けるとショッキングな別ジャンルが飛び出してくる。最近も同じ系統の仕掛を使ってたあたり、原作の海法先生の好きな手なんだと思いますが、まあそれは置いといて。一見で日常もののガワからゾンビが不意打ちしてくる、というのがたとえば漫画連載のときとかアニメのときの手法で、映画はポスターとか予告の時点から丸出しなわけですねゾンビが。

 なんか違うものになってるんじゃないか、という不安がある。
 しかし、観た後だと、それは杞憂だったんだと思います。

 映画版の『がっこうぐらし!』は、青春映画 です。

 原作漫画の序盤(そして、それに準拠するところが強いアニメ版)では、ゾンビで滅んだ死の世界と、主役(一応)の由紀が見る「日常系的な」幻覚を二重写しにすることで、ジャンル偽装を成立させていた。
 じゃあ映画版ではどうなっているか、というと、ほとんど最初から幻覚は幻覚として提示されていて、しかし その幻覚が尊いものである とする。

 原作でもむろんやられてることではあるのだけれど、映画版ではその構造がほとんど主軸に置かれている。ゾンビハザードで街は滅び、このままでは遠からず全員死ぬ。食料も水も有限。助けを呼ぼうにも、あるいは日本全部が滅んでしまっているかもしれないという状況。

 絶望して、生きあがこうとして荒々しくなって、日常なんていうのは幻だと切って捨てたくなって、実際それが合理的な手段には違いないのだけど、でも、それだけでは生きていけない。ゆるふわ日常系、平和な世界が確かにあったという思い出、自分たちの青春を支えに生き延びるんだ。という。
 日常とは何か。明日も生きていけるという希望である。で、実に凄まじい話なんですが、 その象徴が幻覚 なんですね。
 それこそ青春モノであるじゃないですか。明日への希望を語って、何かの真似事をして、いつかこれを本物にしようと誓うようなシチュエーション。
 それが幻覚を見ることで代えられている という。

 質の悪い冗談みたいな話ですが、映画『がっこうぐらし!』における幻覚希望の象徴です。そして、それはかなりきれいに歌い上げられている。
 ただ、当然縛られていると、文字通りの命取りになるものでもある。

 で、構成上の明確な主役に胡桃(スコップ)が抜擢されているんですが、彼女の物語でも「青春の幻影」は力と枷になっている。実際観てもらうのが早いとは思いますし、あとスコップ殺陣の躊躇ないフルスウィングとか素敵すぎるくらいなんですけど、一つ印象深いのは原作者さんも触れてるこれ。

 かれらが現れるより前の日常、彼女の青春は陸上部にあったんですよ。

 だからなんというか。
 原作が「最初は日常系と思わせてゾンビサバイバルに変わる」作品であるなら、映画は「早々にこれはゾンビサバイバルだと思わせておいて、しかし最終的には青春ものとして走り出してゆく」作品だったということです。

 そういう意味だと、原作よりはるかに露骨なゾンビゾンビをただよわせるあのキービジュアルも正解だったのかなあ。と。

 アイドル主演青春映画みたい人にもかなりオススメできる、と思います。
 あとスコップ。顔がいい(アイドルだからそれは当然)女の子がスコップで力の限りゾンビを殴り倒すスピーディな殺陣を観たい人には断然お勧め。

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