随分と熱心に見つめておいでだこと。
 そんなにもあの楼閣が気になりますか。
 わたくし? わたくしはあれに興味はございません。わたくしの興味は浪の下にしかありませんので。
 え? あそこへ行きたい?
 おやめなさいな。あそこへ行って帰って来たものはおりませぬ。
 もしやご存知ないのですか。なるほど、陸のものたちは知らないのですね。ええ、陸の砂の上でこんななりになっても、わたくしは浪の下のものですから、あれのことも存じております。
 あれは蜃の夢なのです。
 いいえ、冗談などではございません。あれは蜃が見ている夢、正確に言えば蜃が焦がれ見ることのできない夢。
 ……わからないという顔をなさっておいでですね。では特別に、蜃の夢の話をいたしましょう。

 ◇

 浪の下、海底に眠る蜃は夢を見ませんでした。蜃は夢というものに憧れておりました。
 彼はどんなに眠っていても夢など見ないのに、周りのものたちは少しの眠りでも、腹を満たして余りある浮遊藻や、きらきらしい竜宮や、浪の上を走る舟とやらや、そのさらに上で光るという星まで見ることがあるというのです。
 蜃にはどんなに眠っても何も見えません。
 ただ暗がりがあるばかり。
 海底のその砂の中に暮らす蜃は目というものを持たず、起きているときも、眠っていても、その周りにはどこまでも暗闇が広がるだけなのです。
 かわいそうな蜃は日ごと夜ごと夢に焦がれておりました。どうすれば蜃は夢を見ることができるのか。それは誰にもわからぬことで、つまり誰にも解決できぬことでした。
 ある日、何かが海底に降ってきました。大きくて柔らかくて生臭い塊でした。
「陸の匂いがする」
 誰かが言いました。それはきっと、陸で暮らす何かの死骸だったのでしょう。変わり果てた姿だったのでしょうが、そんなことは海底に暮らす彼らにはどうでもよいこと。あるものはその肉を食み、あるものはそれに群がるものを食み、あるものはそこから萌したものを食み、あるものは周囲に増えた浮遊藻を食み、そうして、みなが陸の夢を見ました。
 蜃だけは、やはり夢を見ませんでした。
 何を食べても同じことでした。
 やがて、憐れんだ誰かが自分が見たものを聞かせてやりました。みなは蜃に請われて夢に見たものを語りました。
「二本脚が歩き回っておる」
「大きな月が照っている」
「楼閣が聳えておる」
 陸の夢はいつも周りのものたちが語る夢以上に蜃を魅了し、いっそう憧れを掻き立てました。いつしか蜃の中は見たこともない楼閣や月や二本脚でいっぱいになっていきました。
 焦がれて、焦がれて、心の中で描き続けたそれはやがて溢れ、蜃の寝息に乗って浪の上まで運ばれるようになりました。陸からも見えるその楼閣にときどき旅人が迷い込むそうですが、あそこから陸へ帰ってきたものはいないのです。旅人がどうなったか? さあそれは、帰って来ぬ以上わからぬこと。浪に沈んだとも蜃に呑み込まれたとも言われておりますが、噂でございます。わかっているのは、帰ってきたものがいないということだけ。

 ◇

 それでは、蜃は夢を見られるようになったのかって?
 いいえ、蜃は相変わらず夢を見ておりません。あれは浪の上まで運ばれた彼の憧れ。蜃は浪の下で今も夢に焦がれているのです。

 おや、いずこへ?
 あらあら、やはりあそこへ行かれるのですか。二本脚の方は陸を離れてもなお楼閣をお求めになるのですね。それでは、もうお止めしますまい。どうかお気をつけて。あの中のことは、わたくしも存じませぬゆえ。
 わたくし? わたくしはここにおります。浪の上には興味はございませんので。ええ、なにゆえにかこの陸で腐り朽ちることになっても、わたくしは浪の下の住人。わたくしの焦がれるものもまた、浪の下にいるのです。ええ、今も浪の下を悠々と泳いでいることでしょう。

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