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緩やかに生きている


最近の私は駄目であると自己評価をしていた。
けれど、駄目であるように見えて決してそうではないのだと、暖色帯びた光を眺めながら思う。



私はこの数週間荒んでいた。
特に何があった訳ではないけれど情緒が不安定となり、途方もない寂しさに襲われた。午前零時までに寝ていた習慣が呆気なく崩壊し、スマートフォンの青白い灯りに照らされながら深夜を泳ぐ。
そのせいで心掛けていた早起きも出来ず、朝は布団に抱かれたまま意識を朦朧とさせていた。
浅い眠りの合間にもう居ない人たちの夢をよくみていた。

中学生の頃に仲の良かった旧友たちや、一番好きだった人、もう会わないと決めた親族。夢の中の出来事は懐かしさに帯びていたり、恐怖に怯えることもあった。ただ、どの夢も目を覚ました後の心をどっと重たい鉛のようにさせた。

溢れ出す思考を書き綴っていた日記の文字数が減り、疲れた時にこそしていた読書もしなくなった。本は読みかけのまま机に放置され、蝋燭の火を灯すのに使ったマッチ棒が空瓶の中に溜まっている。
部屋だけはなるべく綺麗に保とうとしていたので、荒れ果てることはなかったものの、何か重たい気のようなものが停滞していた。
丁寧に生活をすることは、自分を愛することや大事にすることに繋がる。自己愛の欠如から丁寧さは崩れ、しばらくの間、怠惰な日々が流れていた。

自己愛が欠けた心は愛に飢えている。久しぶりに愛されたいという欲求が強く心を支配し出す。
本来、愛は光に導いてくれる尊い心だが、愛されたさは光をより遠ざける。
私の中で膨らむ愛されたいという欲求は、それに比例するように性欲を強くする。異常な寂しさが私の理性を奪い、数駅先の男と体を重ねた。
人の体温が直接体に伝ってくる感覚や、髪の毛から香水ではないその人自身の香りがすることも心地よかったが、そこに愛はなく、私の中に残るのは酷い虚無感だけだ。




心が日々に追いつかなくとも、世界にとってそんなことは関係ない。日々は当然のように巡ってゆく。
アルバイトに行く時、重たい気分が心に流れ込んでくる。この仕事自体を嫌悪しているのではなく、ここで働く私に私は嫌悪と大きな違和感を覚えている。それに気づきながら、日々をこなすことにも嫌気が差しているのだ。
真っ黒なものが心を強く締め付けるが、バックヤードの扉を開ければ何てことのない現実がそこには広がっている。一瞬にして、その現実に呑み込まれ思考は停止し、私は私を見失う。

バイトの休憩中に本を読んだ。
新しく本を買うばかりで読まずに大分溜まってしまったが、今年に入ってからは積読されているものを少しずつ消化している。
綾瀬まる著書の「やがて海へと届く」を読み終えた私は、森博嗣の「道なき未知」というエッセイを次に読むことを決める。

森博嗣の小説を中学生の頃に読んでいたが、当時の私には難解な印象が強く残っている。ただ、友人が森博嗣を愛読しており、それに影響を受け私も彼の小説を集めた。こんなに難しいものを好む友人を遠く感じ、彼女の感性に憧憬の念を抱き、集めた森博嗣の小説。その殆どを私は読まずに手放した。
森博嗣は私にとって苦味のある思い出だった。その為、このエッセイを読む前から期待はしていなかった。だが、その予想と裏腹に私は読み始めてすぐ、この本にのめり込むこととなった。この本は今の私に刺さるような文章が並んでいる。


「成功すると、道ができるけれど、それはほかの者が通っても同じような成功へは辿り着けない。本や雑誌に書いてあるノウハウというのは、参考になるものの、それで必ず上手くいくというものではない。どこに問題があるのかといえば、それは『道を探そうという姿勢』にある。積極性は立派だが、自分の道というのは、探すのではなく、自分で築くものだからだ。」
森博嗣 (2017). 道なき未知
KKベストセラーズ


私は道を探していたのだ。これでいいのだと安心して生きていける道を。
こんな大人になりたいと思う、私にとって人生のモデルとなる人たちがどうやって生きてきたのかを知りたがって、彼らと同じようにすれば、彼らのようなポジションに行けるのではないかと私は考えていた。
よく考えてみれば、すぐにわかる簡単なことだ。彼らは彼らであって、私ではない。私は私でしかない。

何かを始めることには気力がいるが、始めなくては何も変わらない。考えることも大事だが、考えすぎては何も始められないまま日々に呑まれてゆく。
私はバイトから帰り、湯船に浸かりながら求人サイトを眺めて、ここは良さそうだという直感のもと数件応募をした。



昨年、百円均一で購入した小さな緑は、今では二倍程の大きさとなっている。少しずつだが成長してゆくその姿は、私に優しく力を分け与えてくれていた。
そんな緑の様子が変わったのは数週間前だ。
深い緑を身に纏っていた葉が、除々に薄く変色し、気が付けば黄色く気力を失った葉が増えていた。
初めは水が足りないのだと思い、水をよく与えた。しかし、緑はみるみる枯れてゆき、葉の数が減っていく。

知識不足の私には原因が分からずインターネットで調べてみると、根詰まりという単語が目に入ってきた。その言葉を知り、鉢の底を見てみると根が溢れていた。これは根詰まりの典型的な例だという。
私は一刻も早く緑を救うべくAmazonで新しい鉢を購入し、届いた次の日に植替えをした。

絡み合う根を解き、余分に伸びてしまった部分は切り整えた。そうして新しい鉢へと移してやる。そうしてからも一週間程が過ぎた。
緑は命の危機から脱して、今も部屋の片隅で生きている。黄色かった葉は、また深い緑色となった。枯れ落ちてしまった葉の部分は、空いており寂しげだ。しかし、また先の方には新芽が顔を出し始めている。
緩やかでも成長し続けている。
失なったものを取り戻す為でも、元の姿に戻る為でもなく、ただ生きている。先へと歩み続けている。


私はこの数週間の間、働く以外にあまり予定は入れず、友人とも会わず、何かする訳でもない怠惰な日々を送っていた。それは決して無駄な時間でなく、ゆっくりと私自身を再生する大事な時間だったのだ。
部屋の片隅で今も懸命に生きている緑と同じで、元の私に戻る為ではなく、更なる成長を遂げる為の再生だ。ゆっくりと傷や痛みを癒やし、二本の足を優しく撫でる。どこへでも行ける気もするが、急に遠くまでは行けない。一歩一歩、足を地に着けて進むしかない。
そうやって、緩やかに生きている。


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