見出し画像

軍事裁判で死刑の田村勝則(18)

昭和20~22年は裁判記録や公的な文書もほとんど残っておらず、渡辺茂のように後から地方紙の記事で発見されたりする事もあるが、田村勝則もその一人。
米軍の軍事裁判で裁かれ、わずか二日で死刑が確定したこの少年は少年死刑囚リストには入らないが、触れておかなければならないと思うので書き記す。

米陸軍の一等兵を刺殺

昭和20年12月19日、札幌の米軍資材倉庫に田村勝則(18)は他二人の少年(共に17?)と盗み目的で侵入。
菓子を盗んだ所を兵士に見つかり、仲間の一人が捕まったために逃げるために倉庫にあった銃剣で米兵を刺殺した事件。
昭和21年1月22日に軍事裁判が開かれ、田村は無罪を主張したが翌23日に絞首刑が言い渡された。
共犯の二人は強制労働30年の判決だった。
田村は同年の5月17日に巣鴨で死刑執行された。
田村の本籍は福岡県で両親健在、兄妹6人という事以外は生い立ちなどは不明。
【昭和21年1月24日北海道新聞】

発見された死刑命令書

平成11年12月6日に平成昭和研究所(徳島県)で保管中の資料の中からGHQの執行命令書が発見され、その中に田村の命令書が含まれていた。
これは研究所の所長が昭和55年頃に米国の知人を通じ米国立公文書館から他のBC級戦犯の資料を入手した中に含まれていた。【平成11年12月7日千葉日報】
また作家の上坂冬子氏の著書の中でBC級戦犯を取材する中で、火葬調査表の人数が合わない事や教誨師からBC級戦犯以外に少年が処刑された事を知らされた件が記されている。【巣鴨プリズン13号鉄扉】に詳しく書かれている。

未発見の少年死刑囚はもっといる?

冒頭に触れたように戦後まもなくは資料もほとんど残ってなくまだまだ知られていない少年死刑囚はいると思われる。年齢がはっきりしない斎藤和一のような例もある。
山野井鴻志の上告趣意書(集刑120)の中で検察官の控訴趣意書に関して触れられている。

「他の裁判所において同種強盗殺人事件につき二十歳未満の者に対して死刑が科せられた事例」として

1.昭和22年2月の18歳6ヶ月
2.同年8月の19歳
3.同年9月の18歳10ヶ月
4.同23年3月の19歳1ヶ月
5.同年4月の18歳4ヶ月

これらについて
山野井が犯行時18歳4ヶ月を理由の一つとして一審が無期懲役判決になった事に対しての検察の趣意なので年齢は犯行時のものと推測できる。2.の昭和22年8月は高裁なら死刑判決(旧刑訴法は覆審制)の少年が2名(邑神一行斉藤和一)いるが、それ以外は年齢や日付が一致する少年は手持ちの資料ではいない。
死刑関連のサイト運営者にも問い合わせてみたが「わからない」とのことだった。
いつか渡辺や田村のように裁判記録に残っていない少年死刑囚が地方紙の片隅の記事から発見される日がくるのかも知れない。

協力:折原臨也リサーチエージェンシー

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?