ヨガが好きだから、ヴェーダーンタを勉強してみた Round. 1

 いんとろ 

 ヨガが好きだ。

通い始めて半年程度だけど、実際に始める前からヨガというものに対して強い魅力を感じていたのは、
エクササイズとしての面と同じくらい、ヨガの背景にある考え方に惹きつけられていたからだと思う。

 そんな話を通っているヨガスタジオのインストラクターの方に話したところ、
薦めていただいた本が、『いーしゅわらーや なまは』。

副題には
「はじめてヴェーダーンタ(ウパニシャド)を勉強していようという人のための本」と書いてある。
その日にAmazonで購入、2日後届いた本を読み始めた。

 読み始めて気づいたこととして・・この本はどう考えても1回読んだだけで理解しきれるものじゃない! 
そして逆に言うと、この本は繰り返し読んで、反芻していく過程がとても面白い本になると思う。

 そう思ったので、このノートでは僕がヴェーダーンタを学んでいくプロセスの記録を書いていきます。


1周目の記録①読み方について

 読み始めたときはなんとなく
「やわらかい文体でやさしくヴェーダーンタについて教えてくれる本」かと思っていた。
タイトルひらがなだし。

だからゆるい気持ちで読み始めたのだけど、さすがはインド哲学。
そう甘いものじゃなかった。とにかく、用語が多い。

先の文で「ヴェーダーンタ」って何?っていうのを説明していなかったけど、
ひとつくらい未知語が入っている文なら、人は意味を推測しながら読める。

けど、本の半分くらいまで進むと、文章はこんな感じになってくる。

「クリシュナがアルジュナにヴェーダーンタを700の詩で教えたからこそ、バガヴァッド=ギーターがあるのです。」

から、

「同じマーヤーが、ジーヴァの側から見たとき、アヴィッデャーという名前になるのです。」

とか、

「プラーティバーシカやヴァーヴァハーリカは、お互いにからみあった相対的なリアリティーでどちらもミィッテャーと呼ばれます。」

など。

 日本語でおk、というツッコミがこれほど適切に機能するシチュエーションもそうないと思う。

 もちろん、それぞれの用語について、初出時にはちゃんと意味を教えてくれている。

けど、もしあなたがこの本を偶然に本屋で見つけたとしても、
途中からパラパラと立ち読みをするには間違いなく向いていない。

 そんな本なので、読み方について今考えると、用語にマーカーで色を付けながら読むのが良かったと思う。

けど、1周目の今回ではパラパラ~と読み始め、
用語が増えてきた中盤からは
「とにかく1回読み通そう!2周目で理解しよう!」と思って読んでいた。

次の読書体験に期待をかけるという、
まさに輪廻を(図らずも)体現する読み方となってしまった。

 なので、内容的に残ったことは本文中で何度も言われていたことだし、
用語のひとつひとつの意味とか全然わかってない。

何回も読む前提の読み方だ。
そんな読み方での感想になることはご了承ください。


1周目の記録②言葉のパワーみたいなもの

 先の部分ではちょっと冗談めかした書き方をしたけど、新しい言葉で新しい概念を学ぶ、という体験はとても面白い。

たとえば、「イーシュワラ」という言葉は無理やり一語で訳を当てると「神」とか「宇宙」という言葉になるらしい。

しかしながら、「イーシュワラ」という概念は、既存の概念である「神」や「宇宙」と完全に一致しているわけではない。

だから「イーシュワラ」という言葉を「神」とか「宇宙」に置き換えることはできないということになる。

 この、新しい言葉と新しい概念を同時に知る感覚は、大げさにいうと自分の世界に対する認識が広がる感覚なんだと思う。

自分の知らなかった領域に、自分の知らなかった世界の捉え方がある。
そんなことを知る読書体験は、わかりやすく論理立てた文章での読書体験と一味違う。

 論理的に組み立てられた文章が、論理の中で整合性を保っているものであるのに対し、この本を読むことはさながら論理そのものを新しく作り直すような、そんな経験だ。

 言語学の世界では、「人は言葉によって世界を認識している」とする、サピア=ウオーフ仮説なるものある。

これはあくまで仮説だし、言語が人の認識にどの程度影響を与えているかははっきりとはわからない。

だけど、個人的にも外国語を学ぶことによって自分の認識が変わる経験はしたことがあるし、
そういう意味ではヴェーダーンタを学ぶことは外国語を学ぶことに近いのかもしれない。

 インド哲学なんて勉強して何の意味があるの?と言われると答えるのはなかなか難しい気もするけど、
外国語なんて勉強して何の意味があるの?と言われると答えられる人は結構多いんじゃないだろうか。

そういう人にとっては、ヴェーダーンタを学ぶのは結構楽しい経験かも。
少なくとも僕にとってはそうだ。


1周目の記録③どうやらこういうことらしい、ということ

 中身について触れる。だけどこの部分はあっさりと書く。
なぜなら、内容についてまとめることはそれほど難しくないと思うからだ。

人には「何か足りない」という感覚がある。

その感覚を埋めたくて人はたくさんのものを求める。

しかし求めても求めても「足りない」感覚は満たされない。

この感覚は真実を「知る」ことによって満たされる。

その真実とは自分自身が宇宙で、イーシュワラの表現なのだということ。

それを「知る」ことによって完璧な自己受容がある・・。


 だいたいこんな感じだろうか。

こういう風に聞くと、ぱっと思い浮かぶのはミニマリストの人たち。
何かを求める生き方には限りがないから、あるもので満足しようよ、実は今あるもので十分だよ、みたいな考え方。

僕はこういうのはとても好きなので、この考え方自体はすっと入ってきたように思う。

問題はここからだ。


1周目の記録④これを学ぶ意味が分からない

 誤解を持ってほしくないので先に言っておくと、これは決してネガティブな意味ではない。
ただ、すごく考えさせられるということだ。

 例えば、世にある自己啓発本だとかビジネス本であれば、
本を読んで勉強する意味は明らかだ。

スキルをあげれば希少価値があがる。
希少価値が上がれば収入が増える。
収入が増えれば幸福度があがる。

だいたいこんなロジックだろう。

 こういった、資本主義ロジックにはまらない、例えばさっき挙げたようなミニマリズムの本であれば読む意味は変わると思う。

収入をあげても、満足することはない。
だから今の現状で満足しよう。
そうすれば幸福度が上がる。

こんな感じかな。

 結局のところ、読書(というかすべての行動は)幸福度を上げるためにすることで、
この偉大な目的のためにスキルアップであるとか、ミニマリスト的な生活(断捨離とか?)をするんだと思う。

 それに対して、この本は読んでいて、どうすればいいのかがいまいち見えてこない。

 この本は
「人にとって、モークシャ(解脱、という言葉をあてるらしい)が最高の目標で、
自分がすでに十分であることを知ることでそれが達成できるよー!」という。

 それに対して僕は「まじか!わかった!・・で?」となってしまう。

 僕はこの本を読んだので、
「どうやら自分はすでに十分で満足な、この宇宙の表現らしいぞ」ということを「知った」わけだけど、

この「知る」ということはモークシャに達する類の「知る」じゃないみたいだ。

 そして何よりわからないのは、僕の生活がどう変わるんだろうということ。
だって、僕は変わらず資本主義社会で生きているし、毎日仕事もするし、お金を稼いでご飯を食べて税金を払っている。

 仮にこの本の結論が
「みなさ~ん!モークシャに達するためにすべての俗世をすてて修行しましょう!先生のもとについて勉強するのです!」というものであれば、

「わかった、そうする!」か、
あるいは「そんなことしねーよ!」で終われていたと思う。

でもこの本はあまり提案しない
(一応、本全体の結論としてはもっと勉強してみましょう!みたいな感じで閉じられていた)。
具体的な行動を示すわけでもない。

なんとな~く「こういうゴールがあるんですよ~」を教えてくれただけだ。

 だから、この本は自分の中で反芻させて、どう活かすかを考える必要があるんだなと思った。

結果として、「新しい価値観を学んで楽しい読書経験だったよ!」という程度になるのか、

「ヴェーダーンタを学んだから日々心穏やかに過ごせるようになった!」というくらいになるのか、

はたまた「ヴェーダーンタを極めたからモークシャに達したよ!」になるのか、それはわからないけど。

 あんまりはっきりした結論にはならなかったけど、
とにかく読んでいて楽しい体験だったし、興味のある世界だし、あといいNoteのネタになりそうなので、もう何回か読んで色々考えてみたい。

とりあえず、今のところはそれくらいに思っている。

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