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理学療法士としての振り返り〜人間とは何かを探る日々〜

僕はこれまで理学療法士として10年間、整形外科クリニックにて地域医療に携わってきた。地域医療の現場に身を置く中で、一理学療法士としてこれまで研鑽を続けてきたように思うっている。いや、研鑽を続けたというよりも問題意識の変遷に伴い勉強してきた。

僕は理学療法士としては、少し考えていることが専門職っぽくないかもしれない。理学療法士の王道というのは、例えば一つの理論や技術を追求して研究を重ねたり、例えば大学院へ行きながら理学療法研究に打ち込んだ入り、例えば認定理学療法士や専門理学療法士などを取得しながら理学療法の発展に寄与していくのが王道ではないでしょうか。

理学療法士というのは素晴らしい職業であり、理学療法は非常に有効なツールであるとも思います。「関節」とか「脳」とか「動作」とか、一つのものを切り取っても非常に奥深いものであり、それゆえ学ぶべきものが非常に広いのがこの領域の仕事でもあると思うのです。

そうであるからこそ、何か一つが分かった気になれば、それ以上にわからないことに出くわすのが「人間」を相手にしている僕らの仕事なのです。


理学療法士は目の前の「個人」の「人生」に多かれ少なかれ影響を与える仕事。だから疾患を相手にするのではなく、人間を相手にする。医学に基づかなければならないが、医学と人間は異なる。そこのギャップがあるからこそ、非常に難しい仕事であると感じる。
そんな仕事を通して、僕がこの10年間でぶち当たった様々な壁やそれに対して考えてきたことの変遷・・そして今の自分が思い描くこれからの人生についてを記していきたい。

あの頃の自分が思い描いていた道の上に自分は今立っているかもしれない。
だけど向いている方向はあの頃とは違う。立っている場所も目を凝らして見れば、全然違っているかもしれない。

目的地としてかつて設定した場所は変わり、今は別の目的地に向かおうとしているのだ。それは目の前の出来事、現象に対し問題意識を持ち続けた結果であり、必然である。軸がブレているのではない。視座が高まったのだと今なら言える。

しかしまだまだ自分は未熟な青二才である。いや、もう33歳になるんですけどね。未熟なんですよ。

自分の視座が変わり、向かうべき方角が変わったことは自覚している。しかしこの未熟者はまだ具体的な目的地をセットできずにいるのが現実。目的地を変更したのなら、そこに向かうべく新たなルートを検索しなければならないのに!

そんな悩みから、本日のnoteは自分の思考を整理していくために考えていることを言語化していきたい。そのためにまずは自分のこれまでの考え方の変遷を整理していき、現時点でどんな立ち位置なのか?を具体的にしていこうと思うのである。

33歳を目前に控えたオッさんの、人生の岐路となるかもしれない記事。
お時間のある方は是非お付き合いいただければ・・・


理学療法士は動きを変えるプロ?

理学療法士を目指したきっかけはなんだったのか?そもそもはスポーツ分野に関わりたかったからである。僕は小学校3年生の頃からずっとバスケをしていた。選手として大した実績はないけれど、バスケが大好きだったし、自身は怪我に悩まされ続けた経験もあった。それに中学生の頃から身体のことには興味を持っていた。中学の卒業研究のテーマを「食品添加物」にするか「筋トレとストレッチ」にするかで悩んだくらいのいわゆる健康オタクであった。
そんなこともあり、将来は身体に関係する仕事。特にバスケのトレーナーになりたいと考えていた。

しかしいろいろと調べていくうちにプロのトレーナーさん達は、それはもう過酷な環境であると思い知らされた。年間で休みはほぼなく、契約も不安定。実力がなく信頼を勝ち取れなければ解約される。その過酷さに飛び込んで行くほどの自信も情熱もなかったのだろう。僕はトレーナーよりも安定しているであろう理学療法士の道を目指すことにした。理学療法士としても選手に関わることは可能だと考えて理学療法の道を選んだのだ。当時はあまり調べもせずに「スポーツ選手と関われるならそれにしよう」というようなフンワリした動機であったことは否定しない。

4年間の養成校での学業を終え無事に資格を取り、横浜のクリニックに就職した。(正確には以前の記事にあるように某県のクリニックに入職後、夜逃げの経験をした後にです。)日々の臨床業務をしながら休日には母校の高校バスケ部にトレーナーとして携わらせていただいていた。
スポーツ現場はやはり過酷であった。それが高校生の部活であっても、時には命と関わるような緊張感のある現場である。理学療法士とトレーナーは根本的に全く違うスキルを必要とされるのだということを恥ずかしながら現場を通して知っていくこととなる。

しかし提供できることも少なくはなかった。理学療法士の強みとして「動作分析」があると僕は信じていた。

僕が実習でお世話になった病院は入谷式足底板を扱っている病院であり、当時から「動きを変えることで痛みを治し、パフォーマンスを高める」ことが理学療法士の強みであると教わったし、そういうものだと信じていた。

確かに僅かなテーピングや介入で動作が変化し痛みも良くなる場合があることを実感していた。「理学療法士」とは「動きを変える」ことが強みなのだという自身の臨床の軸ができた。

しかし臨床1年目を終えようとしている頃。
ここで最初のパラダイムシフトが起こる。

それまで僕がなりたいと思っていた理学療法士像は「患者さんや選手の痛みをその場ですぐに解消させること」ができて「パフォーマンスを高められる」という理学療法士。
スポーツ現場で求められるのはそれであったけれど、日々の臨床では違うということに少しずつ気づいた。多くの人の痛みは複雑な要因が影響していて、即時的変化というのは根本的な解決には繋がらないことを痛感した。不定愁訴を訴える人、高齢者、そしてスポーツ少年であっても、個々の症状の原因は多様であり、単純に教科書通りに介入していても、動作が変わったとしても、問題解決しないことに気づかされた。そもそも動作が変わったことで痛みが起こらなくなるのは「変化」であって「治療」ではないのではないか?臭いものに蓋をするような、そんなアプローチなのではないかと疑問を抱いた。

そこで自分の関心は「即効性のある技術」から「より根本的な治療」へと移った。

慢性的な痛みというのは様々な要因が複雑に重なり合っているため机上の勉強をしても分からないことが多く、思うようには改善が見られないことも少なくない。自分の臨床で感じた疑問を追求していく中の自然な流れで代替医療を学び始めることにした。

代替医療から見えた世界

代替医療を学ぶと、不思議な現象をたくさん経験することとなった。

例えば遠隔治療。

えっ、遠隔治療!?

いや、確かに怪しいのは分かります。科学的に解明されていないし、怪しい治療院が金稼ぎのために多くの病に苦しむ人を騙して金稼ぎをしている。そんな悪人がいることも事実でしょう。
だけど、それとこれとは違う。僕が言いたいのはちゃんとした達人領域の治療家の話であり、そして思い知らされたのが「人間って触れなくても変化を起こすものなのだ」ということ。(※治る/治らないという議論ではなく、ここではあくまでも変化するということをお伝えしたい)これは自分の体験であるから、信じる/信じないとかいう話ではない。触れなくても変わったのである。

さて、この事実を知った僕は「ストレッチで筋肉が柔らかくなる機序は〜」とか「脳に信号が伝わると痛みが和らぐメカニズムは〜」といった、いわゆる科学的にわかっていることでは未だに解明できない、人間の肉体に変化を起こす大きな原則があるんじゃないかと考えたわけです。

そこで様々な本を読み漁った。医学書ではない。スピリチュアル系の本や意識の本、洗脳の本や中国の古典など様々な分野の本を。
そんな本を読む中で、この世の中に共通するある原則みたいなものを僕は感じ取ったのである。

その原則について話すとめちゃくちゃ長くなるし。結局は抽象的な次元の話になるので省略するけど、一言で言うならば「情報が変われば、人間は変わる」ということ。そして「意識が人間の情報を変える」ということ。このイメージを表現された世界に「映画マトリックス」の世界がわかりやすい。

さて、この超抽象的な原則に当てはめると、いろいろなことが説明できる。
遠隔治療だって、鍼灸だって、エビデンスのある治療だって、「治療」という行為全てが説明できるようになる。

それだけでない。日常生活の中で実感していた「このカフェに行くとなぜか集中力が出る」とか「この河川敷に座っていると、心が穏やかになる」などの自身の体験も、抽象的になぜかというのが言葉にできるようになった。まぁそんな抽象的な話には意味はないのだけど。

そしてこれらのことからまた一つ、仮説が思い浮かんだ。

「この変化は対人関係でなくとも、空間が人に作用して情報を変える」ということも十分に可能なのではないか?という仮説を。

関係の中でヒトは生きる

意識が人間に作用して情報を書き換えるのならば、それはきっと「場」の情報を書き換えることも可能であろう。

それがいわゆるパワースポットで会ったり、心霊スポットなのではないかと思うのです。量子力学的に考えれば、そこにいた人々の想いというのは空間に宿っても何ら不思議なことではないでしょう。

そして、であるならば「意識が場の情報を書き換える」と同時に「場の情報が人間の情報を書き換える」ように作用することもあるのではないか?と思ったわけです。


なんだか書いていることがだいぶ訳分からない感じになってきましたね。

皆さんも「あそこに行くと元気になる」というようなパワースポット的な場所ってありますよね?

僕の場合は先ほども書いたように、二子玉の河川敷、横浜みなとみらいの臨港パーク、お洒落なカフェ、代官山の蔦屋書店・・

これらの場所に行くと、そこで何もしていなくても心が高揚して楽しく幸せな気分になれる。脳内には様々な幸せホルモンが分泌されているんじゃないかと思うわけです。

人間とは関係の中で生きている存在であり、人の意識というのは受動的に起こるものであるという仮説(受動意識仮説)もあります。

これは対人関係のみならず、空間との関係というものも確実にあるだろうと個人的な経験則から考えます。

であるならば、結局これって治療行為と同じであり、ヒトに作用するような空間を作ってしまえば、それは治療と同じような効能を発揮する場所になるのではないかと思うわけです。

「心身が健康になるパワースポット」
そんな場所を作ることも、想いを空間に込めて情報を創造することができれば、きっと可能なのではないか?

そんな妄想を持ちながら、5年前くらいから僕は空間デザインにも興味を持っているのであります。


じゃあ今後はどうするか?
それはまた次の記事で書いていこう。

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