思いのかけら2 〜弱さとつよさについて〜

槇原敬之の『どんなときも。』が好きだ。

ぼくは音楽に関して精通しているわけでもないし、槇原敬之の歌を全て網羅しているようなファンでもない。

ただ、ときおり、偶然に耳にするきっかけがあって、心に突き刺さり、なんどもなんども繰り返して聴いてしまう歌に出会うことがある。

そういう音楽からは、とてもつよいエネルギーをもらうことができる。

デジモンの進化曲『brave hear』、ミスチルの『終わりなき旅』や『名もなき詩 』、最近では映画を観に行ったことをきっかけにあいみょんの『空の青さを知る人よ』なんかをリピートして聞いては、生きるチカラをもらっていた。

槇原敬之の『どんなときも。』も、そんな曲の一つだ。

僕の背中は自分が思うより正直かい? 

という、大人になるほど、社会にうまく馴染むほど、ドキッとさせられるような問いかけの歌い出し。

移り変わっていく時代、取り巻く環境の変化、抱えた夢に押しつぶされそうになる不安、あせる気持ちで大切なものを見失いそうになる自分。

それでも、自分らしくいられるために「好きなものは好き!」といえる自分を、気持ちを、どんなときもつよく持ちつづける。


常に弱い自分を内側に抱えていることを理解しているからこそ、つよい自分でいられたとき、誇らしく思うことを大切にしたい。

そんな思いやメッセージが、やさしく包み込むようでありながらも力強さを感じさせるメロディーとともに、ぼくの内側に浸透してくる。

そのたびに、心から何かが込みあげてきて、負けそうになる自分と立ち向かう勇気やエネルギーをもらう。

今回の報道を受けて、ぼくは改めて『どんなときも。』以外の槇原敬之の作った音楽に触れてみたくなった。

まだ全部を聴けたわけではないけれど、槇原敬之の世界観を形成しているベースは『人の弱さ』なんだな、とぼくは思った。

ぼくも弱い人間だから、つい、自分のことと重ねて、思わず涙が込みあげてくる曲もあった。

槇原敬之は、いかに人が弱い生き物であるかを熟知している。

その壊れやすさや脆さや危うげさを、見つめている。

だからこそ、人がつよくあれた瞬間や誇らしい思い、誰かを思いやれた気持ち、その大切さ、価値、それらを逃さずにとらえることができて、数々のすばらしい名曲を生み出すことに繋がったんだと、勝手ながら思ったりした。

今回の報道を受けて、ぼくは槇原敬之が『弱い人』であると同時に『とてもつよい人』だとも認識した。

それは槇原敬之が自分の中にある弱さやズルさから逃げずに受け止め、さらけ出し、正しく表現できるつよい人だったから。

そう感じたから、数々の名曲に込められた思いは嘘じゃないとぼくは信じられる。

そう感じられる聴き手がいる限り、その瞬間その瞬間の曲に込められた思いは、決して輝きを失いはしない。

道を踏み外したって、そこで終わりじゃない。

自分の弱さや過ちを認め、自分を変えていけるように努力した人は、『弱い人に手を差し伸べられるやさしくて強い人』になることができる、とぼくは思う。

そういう自分になれるように、少しでも近づけるように、自分のことを誇らしく思える自分であれるように、必死にもがいて、あがいて、地べたを這いずり回って、周りからみっともなく見えても、バカだと思われても、自分がこうだと思える道を行きたい。

どんなときも、迷い探し続ける日々が、答えになる。

そう信じることを、ぼくは、槇原敬之の生み出した曲に後押ししてもらっているから。

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