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先日プロセカに『街』という楽曲が収録されたんですが、その作曲者がコメントの中で語ったエピソードがすごい良くて(出だしの一文)






僕も旅をしました。一人旅ってしばらくしてなかったんだけど、自由気ままに街をぶらつけるのでやっぱり良かったです。知らない街を適当に練り歩くのって結構好きなんだよな。山陰の穴子はマジで美味い。突発ガバ旅程だったのでゆっくり回れなかったところもあったのが悔しいです。夜中3時に鹿にぶつかって2時間遅延するサンライズ出雲くんが悪い!今回の旅、途中で人恋しくなっちゃうことが多かったんだけど、やっぱり見たものに対する感想とかをすぐに吐き出せなくて悶々としちゃうせいだな、と振り返って思いました。誰か俺に共感してくれ。
知らない街を歩いてる時って自分の故郷についてついつい考えてしまう。考えてしまうというか、比べてしまうのほうが正しいかもしれない。自分の記憶の中にある景色と見知らぬ風景を照らし合わせ、差異を見つけるか既視感を覚えて好感を抱く、というのが未知の景色に魅力を感じる際の流れの一つだと思うんだけど、比較対象として初めに思い浮かぶのがやっぱり自分の生まれ育った街なんだよな。僕は本当に残念ながら自分の故郷に対して良い感情をあまり抱いてないんですが、風景だけは嫌いじゃない。そこに海があったから。
ふと聞こえるさざ波の音、鼻をくすぐる潮の香り、肌を撫でる重い海風、五感全てに訴えかけてくる大海は原風景として強く僕の脳に刻まれている。だからなのか、行く先々で海に誘われてしまう。海は良い、ものを語らないので……(流れ出すオルターガーデン)。
こうアンチ地元マンをやっている僕ですが、地元愛爆発人間への憧れを抱いているというとんでもない自己矛盾に苦しんでいます。本当にどういうこと?真っ直ぐな故郷への愛を見せられるとすごい羨ましくなっちゃうんだよな。どうして俺はこうなれなかったんだろう、と違う世界線の自分を幻視してしまう。
と、ここで序盤の『街』の話に戻るんですが、これまたノスタルジーを感じさせる良い曲なんだよな。この曲は終始「この街」について歌っているんだけど、風景のような表面的なものではなく、そこに託されている仲間との思い出が歌われる。風景はあくまで思い出を想起させるフックとして機能するわけです。

ガラガラの電車に乗る度 思い出すことがあった窓の外から見えてるのは それぞれの物語

街/jon-YAKITORY

地元の風景を見ても呼び起こされる思い出がない俺はなぜこの歌に感動してしまうのか。ノスタルジーという言葉が示すように、故郷の良さとは往々にして離れてから気づくものである。僕も例に漏れずその体験をした一人です。最近は地元の風景に魅力を感じて来なかったからそれに若くして気づいている奴らに羨んでいるのかもな、と思うようになってきました。本当は巻き戻せない時間こそが、どうしようもなく僕を惹きつけるものなのかもしれません。これからも永瀬の第2の故郷探しの旅は続く……。

旅先では舐められないように僕オタクじゃないですよ~面してたのに、これ見つけて一瞬でオタクになっちゃった。神無月に出雲まで来てるこはねは神なの?

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