カンボジアで感じた”お金”の在り方

なぜ投げ銭のページを作るのか。

それは

「応援してくれる人との関係性を可視化したかったから」

"金"は卑しい捉える人が多い。

確かに僕自身も”金”はなんか近いようで近寄り難い存在だった。
というのも”金”の話をすると、みんないい気分にならないからだ。僕自身人の感情には敏感な方で、無意識のうちに「あ、お金の話はダメなんだな」と認識していくことになった。それがいつ頃からは覚えていないが。生まれた頃から父が巨人ファンでずっと巨人の中継しか流れていなかったから知らない間に自分も巨人ファンになっているような感覚だ。
そんな一方で、テレビをつければ「芸能人の貯金額公開!」みたいな”金”にまつわる話題で出演してる人やそれを見てる視聴者は笑顔になっていた。自分の中に無意識に刷り込まれているそれとは全く逆の現象が起きていた。みんな嫌がっていたそれをなぜか他人のことになると、貪るように食らいつく何か、になっていた。

最近になって、そんな”金”の捉え方が変わっている、といろんな人が言っている。「”金”は信用の対価だ!」
僕にはよくわからなかった。いや、言っている意味はわかるけど、あまり実感としてはわからないまま、ただ定義だけを聞いて「はぁなるほど、確かにそうかもしれない」その程度だった。

そんな”金”に対しての捉え方がこの旅で少し、実感を伴って変わってきた。
きっかけは出発前のpolca。周りの友人には「お前乞食だな〜」とバカにされた。「やはりそうか」そう思った。Facebookに上げる前にはめちゃくちゃ悩んだ。多分二週間くらい悩んでいた。なぜって、頭では”金”=信用であり”金”≠卑しいもの、ではないとわかってはいるが、長年かけて堆積した”金”=卑しい、というイメージが払拭しきれなかったからだ。そのように罵られること、軽蔑の眼差しを向けられるのが怖かった。しかし、それでもpolcaを始めたのは、その”金”=信用、と言われてる今、僕自身どこかでそれを体現してみたかったのかもしれない。結果としては思った以上に応援してくれる人もいて、それがきっかけで声をかけてくれる人もいた。
このpolcaがきっかけで、”金”に対する捉え方が変わった。

シェムリアップでの出来事。バンコクから陸路でカンボジアに入国。シェムリアップに到着し、宿に荷物を置きさっそく街に繰り出した。ついたのが夕方。チェックインやら何やらをしていたら気がつけば夜。観光もできないので、とりあえずナイトマーケットに繰り出した。そこで目に入ったのは、地雷で足を失ってしまった人たちが奏でる音楽。綺麗な音色と演者の方たちの笑顔に思わず足を止めて、しばらくそこに留まった。僕の好きな民族音楽。リズムも音も雰囲気も全て僕が好きなそれそのもだった。この手のストリートライブは大体前に入れ物を置いておいてそこに投げ銭をするシステムになっているのだが、僕はこういうケースでこれまでお金を入れたことがなかった。特に意味はない。ただケチなだけである。この時もいつもと同じように、いい音楽だった、もう少し聞いていたかったけどそろそろ宿に戻って寝なければ、と思ってその場を立ち去った。

いつもと同じようで今回は何か違った。立ち去った後に何か心の中がすごいモヤモヤした。あの感じがすごい好きで、もっと聞いていたかった。気がつけば次の日も同じ場所に行き同じ音楽を聴いていた。生まれて初めてそれにお金を入れた。そうすれば、何か繋がれるかなと微かな期待を込めて。
演者のおじさん達は笑顔で会釈してくれ、またすぐ演奏に集中し始めた。そこに何も繋がりはない、別にお金を出したからといって繋がりができて目に見えるようになるわけでもないけど、これをすることによって、僕の表現できなかった気持ちが、伝えられなかった気持ちが、少しでも形になった気がした。

目に見えないものを形できる”お金”。そしてそれをカタチとして残しておける。これが”お金”の在り方なのかなぁ。そう思った。
この旅で”お金”のイメージがガラッと変わった。

このnoteで投げ銭専用ページを作ります。
その名も”縁側”
noteで色々なマガジンを書きつつ、端っこの方でひっそりと生まれた、小さな繋がりを大事にしたい、そんな思いを込めました。
僕の旅に共感して頂いた人や、僕のことが少しでも気になってくれた全ての人々との繋がれる、”ご縁”。何か少しでも感じることがありましたらぜひ”カタチ”として、縁側にそっと一歩踏み込んで頂けたら、嬉しいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?