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時代の「空気」を記録する軽薄さ、それでもなお――SCOOLシネマテークに寄せて②

8月19日(金)〜8月21日(日)に、佐々木敦さんの運営するスペースSCOOLで、新作と過去作を織り交ぜた特集上映を行うことになりました。このnoteでは、何回かに分けて上映作品の紹介と、作品をより楽しめるかもしれない裏話&制作背景を書いてみようと思います。第2回は『アトモスフィア』について。

東日本大震災直後の「空気」を記録する

アトモスフィア』は今回上映する中でもっとも古い作品です。2011年3月に震災が起きて、自分自身も社会も混乱しきっていた頃に、それでも何かしら作らなければと感じ、闇雲に脚本を書いて、同年の夏に撮影を行ないました。

取り返しのつかないことが起きてしまった感覚。被災地の映像に恐怖しながら、被災地の人々を想いながら、しかし結局は、見えない放射能に怯えたり、強がったり、狼狽えたり、自分の身を優先して考えてしまっている罪悪感。自分も含め、東京近辺に住む者の残酷さと、けれどもそうせざるを得ない余裕のなさ、そういったもの全体が作り出している異様な「空気」がありました。それは放射能によって汚染された「空気」と混ざり合いながら、2011年のわたしたちを決定的に汚染してしまった。

『アトモスフィア』では、何よりもまずこの「空気」こそを記録したいと思いました。真空パックして、後世に残したいと思いました。なぜなら、この感覚はきっと数年も経てば(あるいはもっと早くに)失われてしまうだろう、忘れてしまうだろうという確信があったからです。

「空気」に飛びつく性急さ、軽薄さの価値

東日本大震災からだいたい5年ほど経ってから、災害や原発事故を振り返る重要な映画やドキュメンタリー、その他さまざまな試みが数多く出てきたと記憶しています。やはりあれだけ大きな出来事を前にすれば、どれだけ優れた作家でも、何かしら作品に昇華するには時間が掛かるのでしょう。

そのような粘り強く真摯な試みに敬意を持ちつつも、私は同時に、震災直後に何かを作ろうとした作家たちにも、同じくらいの敬意を持ちたいと思っています。

場合によっては性急で、軽薄で、はしたないものと見做されるでしょう。作り手自身、後から振り返って己の思慮の浅さに呆然とし、なんて未熟なものを作ってしまったんだと後悔することもあるでしょう。しかしそれでも、そのような性急な記録を誰かが残すことには価値があると考えます。

じっくり考える時間を設けて、思考を整理して、他人に見せられるところまで取り繕ってから世に出すのではなく、災害直後のグチャグチャした感情を、あの混乱を、あのみっともなさを、未整理のまま記録して世に出すこと。わたしたちが忘れてしまいたい愚かさ、目を背けたい愚かさを無かったことにせず、それは確かにあったのだと示すこと。それは、後から作り直すことや再現することが絶対に不可能な作品です。作品の混乱、作家自身の混乱を媒介(メディウム)として、時代の「空気」を厳密に後世に伝えるのです。

そして、カメラを用いる映画やドキュメンタリーは、そのような作品制作にうってつけの表現手段であると言えるでしょう。どれだけ思考がまとまっていなくても、録画ボタンを押せば、機械の目が何かしらを記録してくれる。その視覚的無意識が、作り手の見せたくないものも気づいていないものも丸ごと含めて残してくれる。

そもそも映画は「見せ物」から出発しました。その時々の流行や風俗を貪欲に取り込み、己のかたちを変化させるのは得意分野です。普遍的な芸術であることを装った映画より、一見軽薄で低俗で、はしたない映画のほうが信頼がおけることがあるのはそのためです。時代の「空気」を記録すること、あるいは時代の「空気」そのものであるような映画を撮ることが、『アトモスフィア』制作当時の私の願いでした。

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2022年8月に、あの頃の「空気」を開封する

上述した意図が実現できているかは観客の判断に委ねるしかありませんが、個人的には『アトモスフィア』は、数多く撮ってきた長編の中でも特に思い入れが深く、愛しい作品です。もう二度と撮ることができない、かけがえのない映画を撮ることができたと感じています。

無茶な要求に応えて急遽出演してくださった豊永純子さん、鈴木平人さん、小林千花さん、鈴木晃二さん、永田希さんの演技を見るたび、田中文久さんによる主題歌とBGMを聴くたび、当時の記憶がありありと蘇ってきます。

2022年8月、久々の再上映であの頃の「空気」を開封した時、観客の皆様がどのような感想を抱くことになるのか。そして私自身、どのような感情が湧いてくるのか。今からとても楽しみです。

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