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かんのさゆり「New Standard Landscape」於 石巻のキワマリ荘

2022年3月、石巻のキワマリ荘でかんのさゆりの写真展を見た。以下、備忘録として残しておく。いつか機会があれば、前回の西澤諭志展と併せてもう少し丁寧に論じてみたい。

故郷とはどんな場所のことだろう

地名、地形、出来事、記憶、そこで暮らす人々、見慣れた風景

どうやら風景は不変ではないようで
 驚くほど急激にそのかたちを大きく変えることがある


変わらない風景 変わりゆく風景

どちらが良いとか悪いとかそういうことではなく

あたらしい風景はもうはじまっている


かんのさゆり

ステイトメントより

まだ目立った汚れもない、清潔で真新しい外壁材が印象的な住宅地。アスファルトとコンクリートで塗り固められた地面。茫漠とした荒地を覆うブルーシート——。かんのさゆりが「New Standard Landscape」と呼ぶ風景は、彼女が東北芸術工科大学在学時に教員をつとめていた小林のりおの写真集『LANDSCAPES』(1986)や「Japanese Blue」シリーズ(1992〜)、あるいはホンマタカシの『東京郊外 TOKYO SUBURBIA』(1998)や『ニュートーキョースタンダード』(2001)に記録された風景を否応なく想起させる。松田政男や中平卓馬らによって議論された風景論争、藤原新也のルポルタージュ、宮台真司や三浦展による社会学的な郊外論、村上隆のスーパーフラット概念等とも結びつきつつ、数多くの写真家が蓄積してきた日本の郊外風景写真の系譜に連なる試みであることを、高らかに宣言するような展示である。

だとすれば、前回noteで取り上げた西澤諭志の展覧会と同様に、こう問わなければならない。かんのの風景写真は、先行する作家や作品と何が異なるのか。この展示は日本の郊外風景写真の「New Standard」を示し得ているのか。それとも、50年以上変わらない風景写真の「Standard」をなぞっているにすぎないのだろうか。

小林のりおの『LANDSCAPES』とかんのの「New Standard Landscape」を比較した時、議論の余地なく明らかな違いとして挙げられるのは、撮影が行われた時代と場所であろう。小林が見つめるのは、多摩ニュータウンや港北ニュータウンなど、1980年代初頭の東京郊外の風景である。山林が切り開かれて造成地となり、そこに真新しい一軒家や団地が立ち並んでいく過程が、主に4×5の大判カメラを用いて継続的に記録されている。それに対してかんのが見つめるのは、東日本大震災以後の、宮城県内沿岸部や内陸の風景だ。郊外化が進行する1980年代の風景と、震災以後の2010年代の風景。東京郊外の風景と、地方の郊外の風景。さしあたり、このように比較・整理できる。

だがこれらの違いは、実際に目に見える風景の違いとしては、目立って現れてこない。小林とかんのの写真を並べた時に強く感じるのは、差異よりもむしろ共通点である。東京と宮城それぞれの特色が読み取れるわけでもない。事前の知識がなければ、「小林が宮城を撮り、かんのが東京を撮ったのだ」と言われても、素朴に信じてしまうかもしれない。そしてこのことが、まさに従来の風景論や郊外論が主張してきたことだった。全国一律、似たような住宅や団地が立ち並び、均質化した風景。清潔だが無機質、快適だが退屈。地域の固有性や場所性、伝統の喪失を象徴する風景。解像度の粗い見方をすれば、両者の写真はこのようにまとめて論じられてしまうだろう。郊外化による均質な風景こそが、この50年ほど、日本の風景の「Standard」であり続けてきたのだ、と。

もちろん、かんの自身、ある地域に「固有な風景」というよりは「均質な風景」を撮りたいという意図はあるだろう。宮城の沿岸部で撮影を行いながらも、いわゆる「被災地の風景」を撮ることには慎重で、禁欲的な姿勢を保ち続けてきた。沿岸部と内陸部はおろか、宮城と東京、あるいはそれ以外の街とも入れ替え可能であるような風景を撮影しようとしてきた。だがそれは、小林のりおやホンマタカシの試行を地方でなぞることによって、従来の風景論や郊外論の正しさを証明するためではない。むしろ、先行作品に限りなく近づくことによって、却って、自身の見ている風景と彼らが見ていた風景の——微細だが決定的な——差異を浮かび上がらせようと試みているのではないか。

あらためて小林の『LANDSCAPES』に目を凝らしてみると、住宅と同等か、それ以上の存在感を放っているものの存在に気づく。ベランダを覆うように何枚も重ねて干された布団や、色とりどりの洗濯物。これらは、その家に「人」が住んでいること、さらに言えば「家族」が住んでいることを強烈に感じさせる。本来、布団や洗濯物は隠すべきもの・目立たせないものであるはずだが、誰に見られようと大したことではないと言わんばかりに、堂々として佇んでいる。そこにあるのは、日本の豊かさと「我が家族」の豊かさを誇る心象だ。若林幹夫が指摘するように、マイホームとは、ただ「住む」だけでなく「見せる」もの——すなわち、その豊かな外観を周囲に誇示するためのもの——でもあるのだ。

一方で、かんのの「New Standard Landscape」に欠けているのは、その住宅に家族が住んでいるのだという生活感と、家の外観を他者に「見せる」ものとして扱う意思である。プライバシー保護への意識の高まりからか、それとも少子化による影響か、家族の生活を想像・妄想し得るものは徹底的に外観から排され、花壇やオーナメントなどもほとんど見当たらない。ベランダには布団が一枚、所在なさげに干されているのみである。この無機質さ、装飾の乏しさに注目せねばならない。かんのが撮影する住宅は、いずれも徹底して機能的であり、経済的であり、合理的であることが優先されている。窯業系サイディングで石材や木材等を装ったシミュラークルな外壁材も、他者に「見せる」ための装飾というよりは、そこに住む者が「これは家である」と最低限の納得をするための内向きな記号のように思える。

人間が住むための最低限の機能を確保した上で、経済性や合理性の観点から削れるものを削り、置き換えられるものを置き換えた、シミュラークルな住宅の風景。

こうした印象は、かんのがカメラを構える位置と構図の選択によって、一層強固なものとなる。小林が一軒の住宅と周囲の環境も含めて構図に収めていたのに対して、かんのは住宅にぐっと歩み寄ることで、周囲の環境を画面外に追いやる。あたかもデザインの色彩構成(平面構成)のように、外壁材ののっぺりしたテクスチャが画面を分割して構図を作っている。かんのがしばしば自作の参照項として挙げるトーマス・デマンドは、現実の建築物や風景をペーパークラフトで再現しているが、かんのの写真は、あたかも現実の建築物や風景でペーパークラフトを再現しているかのようだ。どれだけ精巧に石材や木材を模しても、隠しきることのできない、素材の厚みや重み、質感や温かみといったディティールの欠如が——デマンドの作品を見る時と同様に——鑑賞者に違和感や居心地の悪さをもたらす。西洋風の意匠を模倣することによって生まれた日本の郊外住宅を、さらに別の素材に置き換えて模倣したものが、かんのが見つめようとしている風景なのだ。

そしてもう一つ、小林の『LANDSCAPES』とかんのの「New Standard Landscape」の間にある重要な差異として、撮影機材の選択についても触れておきたい。小林のりおが主に4×5の大型カメラを用いたのに対して、かんのが今回出品した写真の撮影に用いたのは「Canon EOS kiss X7i」であるという。それほど高価ではない、一般家庭向けに販売されたカメラだ。また撮影の際には三脚は立てず、スナップ的に撮影し、ズームレンズを用いることもあるという。基本的に三脚を必要とし、物々しい印象のある大判カメラでの撮影とは対照的なスタイルと言って良いだろう。

だがそれにも関わらず、『LANDSCAPES』と「New Standard Landscape」は、一見似ている。共に撮影対象が住宅であるからというだけではなく、撮影スタイルも——もちろんプロの写真家が見れば違いは明らかだろうが、少なくとも素人目には——似ているように見える。このことが、かんのの写真を論じる上で、決定的な重要性を持っている。

実はかんのは作家活動の初期から、コンパクトデジタルカメラなど安価な機材を用いて作品制作を続けてきた。西澤諭志が対談「現代/日本/風景/写真/放談」で指摘するように、当時のかんのは、安価なデジタルカメラを用いたスナップ的な撮影手法を意図的に選択しており、機材のスペックを反映して画質は低く、アレブレのある荒々しい画面が特徴的であったという。そう聞くと、「New Standard Landscape」に至るまでに大きな作風の変化があったのかと考えてしまいそうになるが、先述したように、かんのは現在も一般家庭向けの安価なカメラで撮影を行っている。要するに、変化したのはかんのの撮影スタイルではなく、デジタルカメラの性能なのだ。彼女はその時代の標準的な——「Standard」な——カメラを用いて撮るという意味においても「New Standard Landscape」を追求しているのである。

ここまで来れば、(1)かんのが撮影対象とする住宅は、経済性・合理性を突き詰めて素材や工法を変えながらも、住むための最低限の機能は維持したシミュラークルな住宅であるという結論と、(2)かんのが使用する撮影機材は、常に安価なデジタルカメラでありながらも、技術的な発展によって、素人目には大判カメラと変わらない画面が得られるようになったという結論が、見事に相似形を為していることに気づくだろう。『LANDSCAPES』に記録されている日本の「豊かさ」を反映した風景は、約40年の時を経て、もはや誰の目にも明らかになった日本の「貧しさ」を技術発展や創意工夫によって覆い隠そうとする風景へと変化した。かんのの掲げる「New Standard Landscape」とは、一見、日本の風景の「Standard」は長らく変化していないようでありながら、実はその中身はいつの間にか——精巧に模倣されてはいるが——全く別の何かに入れ替わっていることを証拠立てる風景なのである。


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