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メタバースは「他者から見られている」という承認を実感できる 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.704

特集 メタバースは「他者から見られている」という承認を実感できる〜〜メタバースは人間社会の何を変えるのか(4)

メタバースと自動運転という二つのテクノロジーの登場は、「移動」というものの意味を根底からひっくり返す。いよいよ最終回です。

前回の最後でも触れましたが、グーグルなどがとりくんでいるスマートシティが最近よく話題になっていますね。トヨタが富士山麓に建設している「ウーブンシティ」もそのひとつ。。さまざまなセンサーやカメラなどをリアル空間に張りめぐらせてデータを収集し、それによってインフラや施設の運営などを最適化するというものです。

このスマートシティは、都市インフラの最適化としては非常に効果があるとは思います。しかしスマートシティだからといって、都市がさらに発展するかというと、それは違うのではないか?とわたしは考えています。なぜなら、都市が都市である理由は、スマートなインフラにあるのではないから。便利になるのは良いことですが、スマートな便利さだけに惹かれて人やビジネスは都市に集まるのではありません。

では都市の本質とは何なのか? 都市はなぜ発展するのか?

ここで、アメリカの都市計画の専門家であるシャノン・マターンという人が書いた未邦訳の本を紹介しましょう。2021年に出た『都市はコンピューターではない』です。有料記事ですが、Wired日本語版にその要約が載っています。


都市の意味は、コンピューターのように秩序だって構成されていることではないとマターンは言っています。そうではなく、情報と人にあふれ、それらの情報と情報、情報と人、人と人が出会い交流し、摩擦や衝突を起こす混沌とした場所であることが、都市の意味だというのです。

ここで彼女が言っている「情報」は、マスコミやデータベースなどに整然と収められた情報だけではありません。それらと同じぐらいに大切なのが、レストランやカフェ、屋台、街頭でかわされる会話、スポーツ、ダンス、大道芸、演説などさまざまなかたちで街のあちこちに散らばっている、かたちになっていない情報だといいます。

これらの「情報」は博物館や図書館に収めたり、すぐに検索できるようデータベース化することなどできません。しかし都市の中にあって、まるで生き物のようにそこらじゅうをうごめいていて、それに人々が浸っているからこそ新たな文化やアイデアやイノベーションが生まれてくるのです。

つまり都市はコンピューターではなく、雑然としたなかでさまざまな人やさまざまな情報が出会う場所であるというのが、マターンの主張です。私もそうだと思います。

そしてマターンの考えは、ひとつのテクノロジー的な可能性を浮上させてきています。それは、都市が東京都や大阪府といった物理的な住所そのものを意味するのではなく、人と情報の「出会いの場」であるとするのなら、だったらインターネットの中にも都市はつくることができるのではないだろうか、ということ。

折しも2020年からの新型コロナ禍で、日本でも会議の多くがZoomなどを使ったオンライン会議になりました。リモートワークも大企業のホワイトカラーを中心に普及し、かなり定着してきています。

これを奇禍として、Zoomのようなオンラインによる交流や雑談は果たして「都市」になれるのだろうか?というテーマが浮上してきていると私は考えています。

しかし2022年現在のテクノロジーだけでは、それは「ちょっと難しい」という結論と言わざるを得ません。ZoomにしろGoogle Meetにしろ、平面の映像であり、なおかつ胸から上しか映っていません。顔の表情やボディランゲージが伝わりにくいという難点があります。また音声が相手に伝わるまでに微妙な遅延があり、相づちがスムーズに打てないという問題もありますね。同時に声を発すると、相手の言っていることが聞き取りにくくなることや、3人以上でのオンライン会議だと、発言しているただひとりの人に全員の注目が集まってしまい、発言者をむやみに緊張させてしまうということもあります。「隅のほうで二人だけでコソコソ雑談」もできません。

このようなさまざまな課題があり、リアルで対面するのとくらべればコミュニケーションの質はかなり落ちてしまうのです。

そこでこの分野では今後、メタバースが期待されるということになるでしょう。メタバースで会議や雑談をすることのメリットとはなんでしょうか。

3Dの映像によるコミュニケーションは、平面映像のコミュニケーションよりも表現力が豊かで、リアルで会っているのに近いということがあります。また3Dの仮想空間の中を自由に身体的に移動できるので、多人数での会議でも、2人だけで隅のほうで会話することができます。

しかしメタバースによるコミュニケーションは、もっと重要な価値も持っている。説明しづらいが、それは「自分が他者から承認されている」というような感覚です。

これはVRのコンテンツに触れてみるとわかります。単純なコンテンツで、ただまわりの景色を眺めることができるだけのものであれば、それは映画と変わりません。しかしさまざまなコンテンツを試してみると、思わず「自分の存在」を感じさせられることがあります。

それはVRの世界に存在する人物や動物などが、私を凝視してくる時です。

2Dの映画でも、登場人物がカメラを見据えてしゃべるというシーンは普通に見かける。しかし平面のスクリーン上で人物がこちらを見ているのと、没入感の強いVR空間で誰かがこちらを見ているのでは、あきらかにその人物と「私」の関係性が異なるように感じます。端的に言えば、それは「この人はカメラを見ているのではなく、私を見ている」という感覚であり、「わたしがわたしとして他者から認識されている」というような現実感につながるのです。2Dの映画では「私を見ている」のではなく、あくまでも「カメラを見ている」という他人ごと感しかないのです。

これはZoomのような対面型のオンライン会議での向き合いとも異なっています。

Zoomは2D平面なので、互いが互いを見ています。つまり互いが「自分が見られている」ことを最初から認識したうえで対面しているということです。強制的に視線が重ねられているのです。

これに対してVRでは、必ずしも視線は重なる必要はありません。

簡単な算数にたとえてみましょう。ひとつの立体空間のなかでは、2つの線が交わる場合もあれば平行になる場合もあり、さらに交わることがなく平行でもない「ねじれの関係」もあります。

同じようにリアル空間でも、同じ空間にいる二人の視線には「交わる」「平行である」「ねじれ」の三つの関係があると言えます。だれかと同じ場所に居あわせたとき、自分では相手の視線を「平行」か「ねじれ」だと思っていたのに、ふと顔を上げると視線が交わっていることに気づいてハッとするということがありますよね。「あ、見られている」と感じるのです。

この「あ、見られている」という感覚こそが、他者からの承認にはとても大切なのではないかと思います。見られているからこそ、自分は存在するのだという確かな実感をもつことができるのです。

孤独にあこがれる人は多いですよね。アメリカの文豪ヘンリー・ソローの『ウォールデン 森の生活』のように、湖畔の森に小屋を建ててひとり住んでみたいと思うことは誰にでもある。しかしそれは、人々が密集している都市にいるからこその反動です。実際、人口がまばらな地方の田園地帯に住んでいる人で「森の生活」にあこがれる人はほとんどいません。

森の別荘地などで孤独な生活を実践をはじめてしまう人もいますが、ずっと孤独であることに耐えられる人は少ないのです。結局は街に出てスナックや居酒屋で他人との触れあいを求めたり、孤独に耐えられなくなってイヌを飼い始める人もいます。「森の生活」にピッタリなのがネコではなくイヌなのは、イヌのほうが自然の中での生活になじみやすいということもあるけれども、イヌは尻尾を振りながら飼い主をじっと注視してくれるという理由も大きいかもしれません。人は孤独な生活に耐えられず、イヌでもいいから「見てくれている」感覚を求めるのです。

孤独なひとり旅に憧れる人たちもいます。しかしひとり旅をしているはずの人が、「自分がひとり旅をしている様子」をインスタグラムやフェイスブックに投稿し、友人たちから「いいね」をもらったりしています。やっぱり「見られている」感覚を求めてしまうのです。

このように誰かに「見られている」という感覚は、社会的な動物である人間にはとても大切なのです。「見られている」ことによって、人は初めて「自分が誰かから認められている」「社会の一員として見られている」という感覚へとつなげることができるのです。

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