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写本から紙の本への変化で、文化や社会はどう変わったのか?を学ぶ 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.721

特集 写本から紙の本への変化で、文化や社会はどう変わったのか?を学ぶ
〜〜〜世界観を「四次元化」していくという考え方(6)

今年出したわたしの新著『読む力 最新スキル大全』を補足し、どのようにして世界観を構築していくのかを深掘りしていくシリーズの第6回です。

あるできごとについて単一の情報だけを見て満足するのではなく、異論もふくめてをさまざまな視点から見ることで、ひとつのできごとは多方面から照射され、三次元化される。豊かにふくらむ立体的なイメージで見えてくるようになります。加えて、過去の経緯や移り変わりなど時系列の視点を加えることで、「なぜいまこの瞬間が存在するのか」というさらに豊かな超立体的なイメージを持つことができる。これが四次元化です。

前回はマルクス・アウレリウス・アントニヌスの『自省録』とヴィクトール・フランクルの名著『夜と霧』を題材に、ストア哲学を学ぶという題材でこの「四次元化」を実践しました。

今回は四次元化をさらに先へと進め、過去の経緯だけでなく、未来までをも予測できる超立体イメージをどのようにすれば持てるようになるのかを探っていきましょう。

未来予測というのはたいへん難しい作業です。「こんなこといいな、できたらいいな」とドラえもんの歌を口ずさみながら、SF的な想像力を働かせて語ることなら誰にでもできます。しかしその予測にとくだんの根拠はありません。それらは単なる願望でしかないからです。

「クルマが空を飛ぶようになったらいいな」「指をパチンと鳴らしたら目の前の空中に画面が出てくるようなパソコンがほしい」

そういう程度の未来予測には、あまり意味がありません。「なぜそれが実現するのか」というロジックがそもそも働いていないからです。またそれによって社会や産業、ビジネスがどう変化するのかまで踏み込まなければ、価値がないのです。

前回まで、情報を構造的に見ることによって、四次元化して立体的なイメージを構築できるということを解説してきました。この手法の射程距離を伸ばしていけば、同じようなアプローチによって未来をある程度垣間見ることが可能になります。

未来を予測するためのアプローチを具体的に構図化すると、以下のようになります。

第一に、テクノロジーや経済など「土台」の変化によって、社会や政治、文化などの「上物」が変化するという認識を持つこと。
第二に、上部構造と下部構造、それぞれのイメージを衝突させ重ね合わせること。

GPT(ジェネラル・パーポス・テクノロジー)という言葉があります。日本語では汎用技術と訳しますが、わかりやすく言えば「社会を進化させるような影響の大きな技術」という意味です。人類の歴史は、GPTに彩られ、GPTによって変化してきました。

古代における最大のGPTは、農業の発明でした。車輪や文字の発明、青銅や鉄の発見と利用もGPTにあたります。中世から近代にかけては、印刷の発明が最も大きいでしょう。また産業革命は、さまざまなGPTを盛大にうみました。蒸気機関、工場という集約的な製造システム、内燃機関、電気、飛行機。

GPTは最初から「これがGPTになる」と決まっていたわけではありません。最初はその意味が理解されていなかったケースも多いのです。たとえば電気は当初、ガスによる街灯の代替ぐらいにしか使い道はないと思われていました。しかしその後モーターやトランジスタの発明によって用途が大きく広がり、電子レンジやコンピューターやスマートフォンにまで進化したのです。19世紀の人は、街灯がまさか人工知能に変身するとは想像もしていなかったでしょう。

これらGPTは政治や社会のシステムを大きく変え、文化にも強い影響を与える「土台」なのです。

21世紀最大のGPTが何になるのかは現時点ではまだ定まっていませんが、コンピューターは間違いなく候補の筆頭でしょう。電気と同じように、コンピューターはAI(人工知能)やVR、自動運転車などさまざまな驚くべき技術を派生させています。20世紀半ばにコンピューターが発明されたころは、まさかここまでコンピューターが発達するとはあまりイメージされていなかったでしょうね。

これらのコンピューターテクノロジーがどう変化し、普及していくのかによって、社会や政治や文化のありようも大きく影響を受けることになります。それはかつて農業の発明が文明を後押しし、産業革命が都市化を促進したのと同じことです。

さて、ここからは「土台」のうちテクノロジーに着目したお題をいくつか検討してみることにしましょう。まず題材にするのは、電子書籍の未来です。

本格的なタブレット製品であるiPadが2010年に発売され、アマゾンのキンドルストアが2012年に日本でもローンチし、電子書籍市場は以降マンガを中心にかなり拡大してきています。当初は「液晶画面で本を読む人なんていない」「紙の本の文化が失われる」と文句を言う人が多かったのですが、大量の本をコンパクトに持ち運べ、その場ですぐに本が購入できるなどの利便性や、文字を大きくできたり暗いところでも読めるといった人体への優しさが受け入れられてきたということなのでしょう。

ではここで、こういうお題を出してみましょう。「電子書籍が普及することは、人間社会に何をもたらすのだろうか?」

このお題を考えるときに、画面が液晶だったり電子ペーパーだったりするとか、紙の本が電子デバイスに変わるというようなありきたりな思考しかできないと、そこで行き詰まってしまいます。また「電子書籍」「キンドル」といったキーワードでグーグル検索しても、製品紹介や市場予測などの記事が出てくるばかりで、人間社会の関係などという視点にまで深堀りしてくれる記事にはほとんど出会いません。

そこで四次元化して、歴史を見てみましょう。とはいえ、タブレットや電子書籍の開発の歴史を見るのではありません。もっと射程を大きく伸ばし、書籍そのものの歴史まで探ってみるのです。

書籍は昔から紙で印刷されてきたわけではありません。15世紀にヨーロッパで活版印刷が発明されて、それから数百年かけてだんだんと印刷がヨーロッパ全体に広がりました。つまり紙の本の歴史は数百年ぐらいしかないのです。太古の昔は石版や葦の繊維でつくったパピルス、中国では割った竹をならべて編んだ竹簡(ちくかん)が使われていました。中世のヨーロッパでは、羊の皮をなめしておもいきり薄くした羊皮紙(なんと紙の紙幣ぐらいに薄く延ばしていたというから驚きます)に、文字を手書きで書き写す写本が一般的でした。

この写本の時代には、「本を読む」というだけでも困難をきわめていたのです。本の筆写と制作はおもに修道院でおこなわれ、書き写すのに数か月もかかることから、コピーは少部数しか存在しませんでした。本を読もうと思う人はまず修道院長に「そちらにあるこれこれこういう本を読めれば幸いなのですが」と手紙を出して許しを請い、了解されれば長い距離を歩いて旅して修道院に向かったのです。

図書室には巨大で重い羊皮紙の本が書見机に鎖でつながれているので、泊まり込みでこれをじっくりと読む。「本を読む」というのはそういう大がかりな行為だったのです。私たちが近所の書店で気軽に文庫本を買ったり、キンドルで一瞬にして本をダウンロードするのとは、まったく違うということです。

さらにヨーロッパではほとんどの本が、ラテン語で書かれていました。ラテン語は古代ローマでは誰もが使っていた言葉でしたが、中世になると知識人だけが使う言葉になっていきました。ふつうの庶民には読めなかったのです。つまり「本を読む」というのは、知的で特権のある階級だけに許された行為だったのです。

羊皮紙の写本はがっしりしていて、火事や水害にも強かったことでしょう。紙の本がすぐにペラペラと燃えてしまい、水に濡れるとページをめくるのさえ難しくなってしまうのとくらべれば、ずっと丈夫です。

しかし先にも書いたように、羊皮紙の本はコピーの数はものすごく少なかったという問題がありました。現代日本の紙の本は、初版でも数千部ぐらい刷られますが、写本は一冊一冊が手書きの工芸品だったので、わずかな部数しかつくられませんでした。だから焼失や水没、さらには戦争や災害などで数少ないコピーがすべて失われる危険はつねにあったのです。

近代にはいって印刷物流が広まり、紙の本が増えてくると、本のありかたは大きく変わりました。たくさんの部数を機械で刷ることができるようになったので、本を読める人が増えていきます。

活版印刷が発明されて数十年後には、宗教改革で有名なマルティン・ルターがドイツ語訳聖書を刊行しました。知識人しか読めないラテン語ではなく普通の人が使うドイツ語に聖書を訳し、それを印刷して誰でも読めるようにしたのです。紙の本は一冊一冊は破れやすくて燃えやすかったのですが、たくさんの本を流通させられるというメリットは弱さという欠点を補ってあまりあるものだったと言えます。聖書の内容が、広く一般社会に普及していけるようになったからです。

これは大きな影響を引き起こしました。それまでは神父だけが聖書を読み、それを口伝えに信者たちに伝えていました。しかしふつうの信者が聖書を読み、直接キリストのことばに触れられるようになったのです。キリスト教会の権威は引きずり降ろされ、宗教改革の大きな助けになりました。

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