平均的日本人の高い能力が発揮されれば、AI時代は決して怖くない 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.835
平成不況のあいだに、日本の産業界は懸命に努力してコストを削減し、効率化や合理化を進めてきました。それなのにいまだになぜ生産性が低いままなのか。その原因には、こぎれいだが長大な資料の作成や長い会議、長議事録の作成など無意味な仕事があふれかえってしまったことにあります。コストカットのあおりを受けて人員が減らされているのにも関わらず、こういう無意味な雑務に忙殺されてしまうので、本来人間がやるべき分析や提案、企画などの非定型な業務ができないでいたからです。
産業界のコンプライアンスも厳しくなっているのに、なぜいまだに大企業で不正が発覚しているのかという不思議もあります。
先月も紹介したこの秀逸な書籍は、こう分析しています。
「ここ5年ほど、日本企業や官公庁では「○○不正」という事象が頻発し、企業の存続を揺るがすほどの事態になっていることが多いが、それらには一貫した特徴がある。 ①つなぎ部分を手作業でやらされている現場が、 ②人手が不足し仕事が回らないために、 ③やむにやまれず工数をショートカットするための方策として『不正』に走ったが、 ④周辺の社員もみなそうした苦境が分かっているので告発する気にもなれず、 ⑤結果この『不正』が長期間、ときには数十年にもわたって続いていた、という構図である」
この文章に出てくる「つなぎ」というのは、部門と部門のシステムの接続部分ということです。日本ではそれぞれの部門が独自にカイゼンを進めてしまい、全体最適化の視点が欠如していたため、部門と部門のシステムを接続する部分を人の手で無理矢理やらなければならなくなってしまっているという指摘です。書籍では「部門システムのスパゲッティ」と形容しています。これが日本の生産性を上げないボトルネックになっているということです。
つまり生産性が上がらない最大の原因は、経営層のトップダウンによる全体最適化が欠如していたこと。オフィスの現場で目の前のカイゼンに邁進したり、無意味な仕事を上司から命じられて奮闘している一般社員にはなんら責任はないということなのです。全体最適化の視点で会社のビジネスプロセスそのものを作りなおせば、無意味な仕事は消滅するか生成AIに任せられるようになり、社員はより高度な仕事に邁進できるようになるはずです。
つまり仕組みさえ変えればうまく行く。すでに欧米企業はそのやりかたで生産性を継続的に上げていくことに成功しているわけで、先行事例を学び導入していくだけでも良いはずです。これまでうまく行かなかったのが、ボトムアップ的な日本の伝統企業では「現場が反対している」「そのやりかたを押し付けられると現場がうまくいかなくなる」といった反対が多く、そのためにERPなどのシステムを部門ごとにカスタマイズしまくって、かえって生産性を下げるようなことをしていたからでしょう。
もうひとつの要因として、終身雇用で余ってしまった中高年社員の問題もあったのではないでしょうか。先ほどの本もこう推測しています。「個人的な見解ですが、グレーゾーン業務が大量に発生する根本原因は、突き詰めれば終身雇用と年功序列という日本型の人事制度にある気がしています。そのために、上のほうでは実は人員が余っており、余った上位職者が余分な仕事を作り出しているのでは、と」
「高度成長期のように年齢分布がきれいにピラミッド型を描いていた時代ならともかく、全社員の平均年齢が40代半ばに達しているような組織において、一定の年次に達した社員を全員『部長格』のような上級管理職として処遇することなどできるはずがありません。しかもこれは、一時しのぎをしていても解決しない。現実を直視し、対処するしかないのです」
しかしこういう状態も、令和になってもう終焉を迎えています。団塊世代はとうに退職し、バブル世代もそろそろ定年に達しつつあり、「暇な中高年社員」という存在自体が過去のものになって、どの企業もスリムな体質に変化してきています。もはや無意味なグレーゾーン仕事を命じるような人は消えつつある(と信じたい)。
もう一度繰り返しますが、日本の生産性が低いのは、社員が怠けているとか仕事ができないからではなく、優秀な人が無意味なグレーゾーン業務に力を注ぎすぎだからです。これは日本人の一般労働者が優秀すぎるからこそ起きたということでもある。言い換えれば、日本にはたいへんぶ厚く強力な「ナレッジパワー」(知の力)があるのです。
国家の「力」を評価する指標として、アメリカの政治学者ジョゼフ・ナイが提唱したハードパワーとソフトパワーがあります。ハードパワーは一国の経済力や軍事力で、戦争や経済支配によって他国を従わせる直接的な力。対してソフトパワーはその国の魅力的な文化や価値観のことを指しています。
たとえば20世紀後半のアメリカは、ハードパワーとソフトパワーを兼ね備えた国でした。太平洋戦争中は「鬼畜米英」と叫んでいた日本人も、戦後はハリウッド映画やロックンロールに夢中になり、そこからアメリカの輝かしい民主主義を学び、皆がアメリカに憧れたのです。日本人がこのように変わったのは、まさにアメリカのソフトパワーの賜物でした。昨今では日本のアニメや音楽が海外で受け入れられるようになり、日本のソフトパワーも注目されています。
近年はこの二つのパワーに加え、シャープパワーという用語も出てきています。諜報活動や世論誘導、心理戦などを意味しています。たとえば2014年のロシアによるクリミア併合では、ロシアはウクライナに対して大々的な軍事攻勢は行わず、「クリミアに住んでいる人たちはロシアに編入されたがっているのだ」という世論を巧みに誘導し、住民投票による併合決議を成功させたと言われています。
そして最近になり、四つめの国力基準として先ほどのナレッジパワーが登場してきました。文字通り「知の力」という意味で、これを紹介した米国の外交専門誌フォーリンアフェアーズレポートによると、「経済成長、科学的発見、軍事的ポテンシャルを劇的に強化できる知識や技術」と定義されています。
たとえばウクライナ侵攻では、世界5位の軍事費を持つロシアに世界36位の軍事費しかないウクライナが頑強に抵抗し、2年半が経っても決着はつかずにこう着状態に陥っています。このウクライナの驚くべき強さは、教育水準の高い国民の存在やドローンなど最新の軍事兵器を生産できるテクノロジーにあるとフォーリンアフェアーズレポートは指摘しています。これがナレッジパワーなのです。
ナレッジパワーはソフトパワーと同じように無形資産なので、国が完全に管理するのは難しい。天才的な発明をしてくれそうな優秀な若者がいても、彼や彼女が海外の研究機関に就職してしまうというようなことが起きます。
日本でも優秀な人材の海外流出が問題視されており、学問の危機が叫ばれています。しかし実際のところ、超高学歴の優秀な人だけでなく、日本のナレッジパワーの潜在力は非常に高いのではないでしょうか。
たとえば経済協力開発機構(OECD)が実施している児童生徒の学習到達度調査(PISA)では、2022年度の調査で日本は加盟国37か国のうち数学的リテラシーが1位、読解力が2位、科学的リテラシーが1位と3分野すべてにおいて世界トップレベルでした。同じOECDの成人を対象にした2013年の調査では、日本の25~34歳の中卒者は、スペインやイタリアの同年代の大卒者よりもはるかに高い読解力を持っているという驚くべき結果が出ています。
日本人自身が、このような平均的能力の高さをあまり自覚していないと感じます。実のところわれわれは普通の人であっても類いまれなナレッジパワーを持っていることを自覚すべきであり、そうであればAI時代にあっても十分にAIと対等に仕事をできるようになるはずです。
本格的な生成AI時代への準備をするためにも、まずグレーゾーンの無意味な仕事を終わらせ、全体最適化の仕組み作りを行い、社員がより高度な仕事を行える土台を作っていくことが必要だと考えます。
(了)
ここから先は
¥ 300
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?