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「自分のプライド」よりも「他者への限りないリスペクト」が必要な理由 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.736

佐々木俊尚

特集 「自分のプライド」よりも「他者への限りないリスペクト」が必要な理由

〜〜〜荒ぶるツイッター世界で闇落ちしないための対策を考える


10年以上もツイッターを使っていて、いろんな人を目にしてきました。素晴らしい知見を持つ人、笑えるツイートをたくさん投稿している人、おだやかな日常を発信しつづけている人。いっぽうで毎日のようになにかを罵り続けている人、つねに誰かにからまないと気が済まない人など、人間の暗黒面をのぞき見るような人もたくさんいます。


いろんな人がわたしのツイートにリプライをしてくれます。最初は穏当なリプライをくれていた人が、だんだんと過激化していき、揶揄や中傷を繰り返すようになり、気がつけばどっかに行ってしまった……というような光景もたくさん目にしました。闇という名前の川の流れに落ち込んで、そのまま暗い世界へと運ばれて行ってしまったのでしょう。


「怒りは快楽である」と2000年以上も前にアリストテレスは喝破していました。太古の昔から、怒りや義憤は最高のエンターテインメントだったのです。しかしこのエンタメが近年おどろくほどに増えているように感じるのは、SNSの普及と無縁ではないでしょう。


たとえば社会問題への向き合い方がそうです。


かつて「怒りをうたえ」という時代がありました。1960年代末の学生運動のころです。「怒りをうたえ」は70年安保・沖縄闘争を記録したドキュメンタリー映画のタイトルだったのですが、この作品を見るとまさに「怒り」が運動全体に渦巻いているように思えます。


しかし当時の運動は70年代に入って中心層の学生たちが卒業すると徐々に衰退し、72年の連合赤軍事件で一気に熱気は冷めてしまって終焉を迎えました。以降は社会運動自体がゆるやかになっていき、わたしが新聞記者をしていた80年代から90年代にかけては、環境保護運動にしても住民運動にしても、過激なスタイルはとらずにゆるやかなネットワークで人々を結び、社会の仕組みを変えていこう、というような方向へと進んでいたのです。


ところが2010年代になって、突如として社会運動が過激になり、「怒り」が再び渦巻くようになりました。これはいったい何なのかが、1990年代の社会運動を取材していたわたしには非常に謎だったのですが、最近になって読んだ『チャッター』という翻訳書を読んで疑問が氷解した気がしました。


この本によると、トラブルなどで心が揺れ動いている時には人は「認知的な欲求」よりも「感情的な欲求」を満たすことを優先してしまうといいます。前者は問題を解決するための知識を求める欲求。後者の「感情的な欲求」は、誰かに話して共感してもらいたいという欲求です。


トラブルにある人を支えようとする周囲の人たちは、何を感じたのか、何があったのかを詳しく話すように本人に求めます。それについて話している間、彼らは頷いて共感を示します。それによって本人は嫌な体験をまたも頭の中に呼び起こしてしまうし、周りの人もその嫌な体験を追体験して、怒りや嫌悪を共有してしまうのです。


これを繰り返しているとどうなるかはわかるでしょう。支援して寄り添うことを求めていたはずが、追体験の繰り返しによって嫌な感情が増幅され「もっと怒ろう」「もっと憎悪を」という扇動へと容易に転じてしまうのです。


一対一のリアルの対面でもこのようなことが起きるわけですから、「聴いてあげるよ」と寄り添ってくれる人が無数にいるSNSの世界で、この増幅が何倍、何十倍、何百倍へとスピードアップするのは当然の結果です。それがSNSの「怒り」の蔓延へとつながり、運動を過激化する後押しする結果となったのではないでしょうか。


SNSは、感情的欲求を引き出しやすい装置です。われわれは知らず知らずのうちに、感情的欲求の囚人になってしまっている可能性があるのです。もちろん怒りが必要なことももありますし、それは否定しません。しかしいまのツイッターを見ると、ただ怒りだけがひたすら増幅して、その先に建設的な答えをなにも見いだすことがない状態に陥っていることが多いのではないでしょうか。


書籍『チャッター』には、フェイスブックやインスタグラムをスクロールして他人の生活を見ている時間が長ければ長いほど、妬みの感情が大きくなるとも指摘されています。知人のキラキラしたランチや豪華なディナーや、ウェーイなパーティ。他人の楽しげな様子ばかり眺めていると、妬みの感情が噴出してきてしまう。いっぽうでツイッターには楽しそうな人などほとんどおらず、全員がイライラして怒り義憤を抱いている。どちらを向いてもつらいばかりです(笑)。「前門のツイッター、後門のフェイスブック」というところでしょうか。


わたしたちは賢明にも、SNSが引き起こしたこの事態に気づきつつあります。今やエンタメと化して人々を暗黒面へと呑み込んでいる怒りや義憤に陥らないためには、ではどうすればいいのでしょうか。


前号では、三つの方法について解説しました。


(1)入れ替え可能性を意識し、ダブスタになっていないかを日々自問自答する

(2)リプライしてきた相手ではなく、オーディエンスに向かって発言する姿勢を保つ

(3)ニュースについて語るときは、いったん時間を置く


今回はそのつづきです。


(4)自分を偉く見せるのではなく、他者へのリスペクトを大事にしよう


ツイッターで以前にだれかが投稿していたのですが、夜に都心の電車に乗ったら酒に酔った中年男性と若い男性がなにかで口論になっていたそうです。たぶん身体がぶつかったとか、背中のリュックサックが邪魔だとか、そんな類の諍いだったのでしょう。そして激高した中年男性は相手に向かって「俺を誰だと思ってるんだ!」。投稿主は書いていました。「周囲の乗客全員が『知らねえよ』と思ったに違いない」


こういう人はツイッター上にもたくさんいます。「自分を偉く見せたい」「自分が凄いのだと知ってほしい」。ツイッターという人間性が生々しいSNSには、そういう欲望が渦巻いています。


しかし考えてもみてください。電車の中の中年男性が「俺を誰だと思ってるんだ!」と叫んでも、まわりのだれもが「知らねえよ」と白けたのと同じように、あなたを知らない人たちがたくさんいるツイッターで「俺は偉いんだぞ!」と凄んでみても、やっぱり「知らねえよ」と思われるだけです。


ツイッターは日本でのユーザー数は6000万人にものぼり、ほとんど実社会そのものです。この6000万人全員に知られている有名人など、日本には数えるほどしかいません。たとえば政治家でも、首相や有名政治家ならさすがに名前は知られていますが、大臣であってもあまり名前も顔も知られていない人はけっこう多いはず。


有名企業の経営者なら、企業名を出せばみんなが「おお!」とひれ伏してくれるかもしれませんが、社内で立身出世したサラリーマン社長は別に個人名で社会のなかでのし上がってきたわけではないので、業界外では案外名前も顔も知られていません。知名度が高いのは、自力で会社を成長させた孫正義さんや前澤友作さん、三木谷浩史さんといった一部のアントンプレナーだけでしょう。


以前は「テレビに出ている人」が有名人の証でしたが、最近は若い人を中心にテレビを観ない人が非常に多いので「テレビにしか出ていない人」だとだれもが知っている有名人とは言えません。「テレビにしか出ていない人」よりも有名ユーチューバーのほうがずっと知名度は高いでしょう。


そのように考えていくと、「自分の周囲にいるたいていの人は自分のことを知らないのだ」ぐらいの軽い認識でいた方が良いということになります。自分が会社内の肩書きが偉かったり、その業界では有名な専門家だったりしても、その会社や業界を一歩出れば、自分のことなどだれも知らないのです。ツイッターで知られていないのは当然なのです。


「自分はこんなに偉いんだぞ」と自慢しても、「そうかこの人は偉かったんだ!」と賞賛してくれる人は実社会にだっていませんし、いわんやツイッターのような荒れた土地にいるわけがありません。自分の肩書きを披露したら急にみんながひれ伏してくれるなどと傲慢に考えるのは、古いテレビドラマ『水戸黄門』の見過ぎです。


水戸黄門でもない普通の人が「控えおろう。ここにいらっしゃるかたをどなたと心得る!○○企業の前営業部長の△△様なるぞ!」とふんぞり返っている姿をイメージすれば、それがどんなに滑稽なことかわかるかと思います。


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