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歩くという行為は移動のためか、それとも楽しみのためなのか問題 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.823


特集 歩くという行為は移動のためか、それとも楽しみのためなのか問題〜〜〜50年後の未来を想像するためのレッスン(6)


完全な自動運転が普及した未来には、近距離のモビリティもすべて安価な無人タクシーに集約されていくでしょう。そうなると「歩く」という行為をどう再定義するかが重要なテーマとなっていくはずです。「歩く」は単に移動するだけでなく、健康維持のために重要な行為でもあります。自宅から駅まで歩くのは雨の日や猛暑の日には面倒な移動ですが、そうやって毎日歩いているから都市住民は健康を維持できているという側面があるのです。


この「歩く」という行為とモビリティの関係については、ジョン・アーリというイギリスの社会学者が興味深い論考を発表しています。アーリは2007年の著書「モビリティーズ 移動の社会学」(吉原直樹・伊藤嘉高訳、作品社、邦訳は2015年)で、「移動する」ということをシリーズシステムとネクサスシステムの二つに分類しました。シリーズはテレビの「ドラマシリーズ」という表現もあるように「連続」という意味。ネクサスは「結節」「つなぎ目」というような意味。では移動における「連続」と「つなぎ目」とは、どのような違いなのでしょうか。


たとえば東京の渋谷から、国会議事堂のある永田町まで移動することを考えてみましょう。歩けば1時間あまり。少し遠いですが、季節の良いときなら青山通り沿いに立ち並ぶお洒落な街並みや、日本の政治の中枢となる永田町の風景など、それぞれの街の空気を楽しみながら散歩がてらに移動することができます。これがシリーズシステムなのです。


いっぽうで渋谷から永田町は、東京メトロ半蔵門線で移動することもできます。10分もかからない。地下を轟音を立てて走る列車に乗れば、あっという間に永田町に到着します。そしてこれがネクサスシステムなのです。


つまりA地点からB地点のあいだを連続的に、景色を楽しみ沿道を遊びながら移動するのがシリーズシステム。A地点とB地点のあいだのプロセスをいっさい無視して、瞬時に結ぶようなものがネクサスシステムということです。


歩くことと地下鉄で移動するのとでは、体験がまったく異なっています。歩くという行為は、つねにその土地や場所と密接につながっていて、自分がどの道筋をどう進んできたのかを確認し実感できます。まっすぐに道を進む必要はなく、好きなように寄り道をしたりお店に立ち寄ったりもできるのです。


しかし鉄道の移動には、そういう実感がありません。座席に座って目を閉じていても、自動的に運んでいってくれます。どこをどう進んだのかを考える必要もありません。手もとのスマホ地図アプリに乗換案内をさせて、その通りに電車に乗るだけで良い。そのかわり、歩くのよりずっと楽です。ネクサスシステムは道すがらにその土地を味わうことはできませんが、渋谷と永田町というような「点と点」をつなぎ目のようにして結んでくれます。新幹線や地下鉄はまさにこのネクサスシステムです。いっぽうで同じ鉄道でも、地方の第三セクターのような各駅停車ののんびり旅はシリーズシステムに寄っていると言えるでしょう。


この違いを念頭に入れて、移動の進化を考えてみましょう。まだ航空機も鉄道もバスもなかった時代は徒歩か馬による移動で、すべてがシリーズシステムでした。しかし19世紀に鉄道が登場し、鉄道に乗ることによって人は土地から切り離され、代わりにつなぎ目のように駅と駅の間を移動することが可能になりました。つまり鉄道の発明は、ネクサスシステムの発明でもあったのです。


しかしその次に登場した自動車は、ふたたび移動をシリーズシステムに引き戻したとアーリは言っています。鉄道と違って、自分で運転する自動車は好きなところに行き、途中で寄り道をすることも自由にできたからです。


先日、日産自動車が創立90周年を記念した動画が公開されました。


クルマと恋愛というテーマでこの90年を振り返っている内容なのですが、この中に1970年代の風景としてヒッピー風の二人がスカイラインに乗っているシーンがあります。これは当時たいへんな人気を集めた「ケンとメリーのスカイライン」というCMシリーズへのオマージュです。外国人ハーフ風の男女がさまざまな土地を旅していくロマンチックな内容で、「スプーンとカップをバッグに詰めて いまが通りすぎて行く前に 道の向こうへ出かけよう」というBUZZの曲も当時の日本人の旅情をかき立てました。


高度経済成長が完成して中流社会がやってきて、生活にゆとりができるようになった人々は自由を求め、好きな場所に行くことができ、好きなところに寄り道もできる。だからマイカーという乗りものに、当時の日本人は熱中したのです。まさに自動車はシリーズシステムそのものでした。


そこから半世紀が経ち、憧れのマイカーは自動運転の無人タクシーへと変わっていこうとしています。マイカーがシリーズシステムだったのに対し、無人タクシーは鉄道やバスのようなネクサスシステムに近いと言えるでしょう。AIが司令塔となり、駅や停留所に行く必要もなくなり、移動を最適化してくれるからです。


しかし人間は、ネクサスシステムだけでは満足できません。本能的にはやはりシリーズシステムの移動を必要とする生物なのだ、というのがアーリの主張です。アーリは「モビリティーズ」でこう書いています。


「歩くことは、移動システムの中で最も『平等主義的』である」「他の移動システムに比べれば、社会的不平等は著しく小さい。歩行システムが力を持つほど、その場所や社会における社会的不平等は小さなものとなるだろう」


障害があったり年齢を重ねれば、歩くのはたいへんになり、決して完全に平等ではありません。しかし高級乗用車や航空機のファースト・ビジネス、新幹線のグランクラス・グリーンなど、ネクサスシステムの移動にはつねに格差がついて回ることを考えれば、歩くという行為は貧富にほとんど関係なく平等です。


お金持ちなら高い山の頂上にヘリコプターで移動して360度の景観を楽しむこともできるでしょう。しかしそれは、苦労して歩いて登ってきた登山者の喜びほどの感動はありません。わたしは登山を長年楽しんでいますが、ただひたすら歩いたその先の感動を味わうたびに「これこそがほんとうの贅沢だ。しかもこの贅沢はお金では決して買えない」としみじみと感じます。



アーリはこうも書いています。

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