見出し画像

なぜわたしは登山を始め、フリークライミングから新潟の奥地へと転向したのか 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.836


特集1なぜわたしは登山を始め、フリークライミングから新潟の奥地へと転向したのか〜〜〜登山というアウトドア遊びを再定義する試み(1)



AIと生産性についての長いシリーズ、先週の第9回でようやく完結しました。AIはまだまだ進化し続けていることもあり、このテーマは今後も継続的に追っかけていかなければならないでしょう。本メルマガでも随時、取りあげていこうと考えています。


さて、とうとう師走。あんまり寒くなっておらず「長い秋」を楽しんでいるという感じの日々ですが、今回からちょっと息抜きとして登山の話を書いていこうかと思います。来年4月には「フラット登山」というまったく新しい概念の登山の本を刊行する予定ですので、そのプレシリーズという位置づけでもあります。


まずわたしの登山遍歴のお話から。


わたしが登山を始めたのは、上京して大学に入学し、登山のサークルに入ってからのことです。1981年でした。登山などまったく興味がなかったわたしがなぜ登山サークルに入ったかと言えば、「こころの空虚を埋めたかった」という思春期特有の青くさい心情があったからです。


わたしは愛知県の県立岡﨑高校という進学校の出身で、高校生のころはやたらと頭でっかちな左翼少年でした。難しくて読めもしないのにマルクス/エンゲルスや吉本隆明の本を持ち歩き、学内で誰かれ構わず議論を吹っかけたりしていたのです。実に青いですね。クラスメートから見れば、小賢しくて厄介な奴だったことでしょう。


わたしが高校生だったころは、まだ1960年代末の学生運動の余韻がくすぶっていたころで、学校のトイレには「造反有理」という油性ペンの殴り書きが残っていた時代でした。「うちの息子も過激派になって爆弾投げるんじゃないだろうか」と心配した母親が、担任の先生にこっそり相談に行ったりしていたというのは、後から母親に聞いた話です。担任はわたしが敬愛していた国語のS先生で、不安な母に向かって「佐々木君が傾倒してるのは、市民運動のベ平連とか小田実とかでしょう? 穏健だから全然心配いらないですよ」と笑い飛ばしてくれたと後になって聞きました。


田舎の高校生が革命ごっこにかぶれていても、できることは何もありません。悶々としていた時、京都では1970年代の当時も学生運動が盛んだと聞きかじり、「よし関西の大学に行こう」と決意しました。猛勉強して模試では合格圏内には入っていたが、2年にわたる2回の挑戦はいずれも失敗でした。夢破れ、第2志望だった東京の私大に入学したのが1981年だったのです。


根拠のない野望を失って失意の中で、東京の私学で偶然にも出会ったのが、登山でした。誘われて登山のサークルに入り、しかしそこはサークルや同好会というにはかなり乱暴な先輩がたくさんいて、4月に入会していきなり日光の雪山に連れていかれ、バテまくりました。さらに翌月には、東北の長大な山脈である飯豊連峰に連れていかれ、巨大な石コロビ雪渓をやはりバテまくって死にそうになりながら登らされました。全長3キロ、積雪が異様に多くて落石もひんぱんに起きることで有名な陰鬱な谷です。


こういう洗礼に遭遇したことで、当初の予定だった気軽なハイキング登山にはあっという間に飽きてしまいます。2年生になるころには岩壁登攀などのバリエーションにも挑戦してみたくなり、社会人山岳会にも所属しました。21世紀の今では組織登山はかなり衰退してしまっていますが、当時は大学山岳部と社会人山岳会が登山界の2大勢力であり、ヒマラヤ未踏壁の初登攀などにしのぎを削っていたのです。


同時に1980年代初頭は、フリークライミングの大波が日本にやってきていた時期でもありました。それまでの日本の岩壁登攀は、困難な壁ではボルトにアブミと呼ばれる短い縄ばしごを架けていく人工登攀と呼ばれるスタイルが中心でした。ところが米ヨセミテで始まった新しいフリークライミングでは、そういう困難な壁でもアブミなどいっさい使わず、手と足だけでテクニカルに登っていくことを最上の価値としていたのです。


それに伴ってクライミングの身体テクニックも向上し、新しいタイプのフリークライマーたちは谷川岳の衝立岩や穂高の屏風岩など、人工登攀でしか登れないと思っていた困難壁を次々に手足で登り、「フリー化」を行ったのです。


おまけにフリークライマーたちは素晴らしくカッコ良かった。古いタイプのクライマーがチェックのネルシャツとニッカズボンに頑丈な登山靴、工事現場みたいなヘルメットに全身ハーネスで身を固めていたのに対し、フリークライマーたちはTシャツにジャージと身軽で、米国から入ってきたばかりの信じられないぐらい軽いフラットソウルのクライミングシューズを履いていました。


大学生の初心者クライマーが、そういう新しい波に憧れないはずがありません。社会人山岳会では相変わらず古いタイプの中年クライマーたちが幅を利かせていましたが、若者たちはこぞってフリークライミングに熱中するようになったのです。


わたしもその風に乗ってフリークライマーを気どるようになりました、しかしそこで重大な問題が立ちはだかりました。いや、「問題が立ちはだかる」とかそんな大げさな話では全然なくて、要するに運動神経が鈍く、体操系の身体運動が苦手だったので、フリークライミングはまったく自分に向いていなかったのです。ごつい登山靴で比較的楽な壁を登る従来スタイルのクライミングなら楽しめましたが、難易度の高い壁に挑戦してみると、まったく歯が立たなかったのです。


すぐに「これは自分には無理だ……」と気づき、泣く泣くフリークライマーへの道は諦め、社会人山岳会は退会しました。そのかわりというわけでもなかったのですが、大学のサークルでクライミングに興味を持っている後輩たちを集めて高難度ではないレベルのクライミングを楽しむ同好会(当時流行っていたマガジンハウスの女性誌をもじって、オリーブクライミングクラブという実にチャラい名前だった)を作り、冬になると冬山縦走を楽しんだりしていました。体操系の運動は苦手でしたが、逆に持久力は自信があり、重い荷物を背負って長大な縦走をするのは得意だったのです。


夏も冬も、国内の山を縦横無尽に歩きました。とりわけ好きになったのは、「上信会越」と呼ばれていた群馬・長野・福島・新潟の県境あたりに位置する山々です。谷川岳や八海山、尾瀬ヶ原が有名です、この山域はその数十倍ぐらいの名峰や素晴らしい高原、湿原を抱えています。そして山々は奥深く、稜線はどこまでも続く長大さで、まるで異世界に旅をしているような気分に浸ることができました。フリークライミングのような派手な世界ではまったくなく、どちらかといえば日本的な情緒たっぷりの世界です。でも当時のわたしはそっちに惹かれたのです。


ここから先は

11,571字

¥ 300

期間限定!Amazon Payで支払うと抽選で
Amazonギフトカード5,000円分が当たる

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?