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第一章 鮮明な過去はつねに改変され、郷愁は消える


(先にプロローグから読む)

過去のもつ意味が変化しようとしています。本章の最初に、何が変化しているのかを宣言しておきましょう。以下の四点です。

過去が、色あせなくなった。
しかし過去は、つねに改変される可能性がある。
そして私たちは、そんな過去に郷愁を感じなくなっていく。
それどころか、過去は押し付けがましくなり、忘れることさえできなくなっている。

一つずつ説明していきましょう。

たとえば書物は写本から印刷に移り、そして二十一世紀にはクラウド化された電子本に移ろうとしています。写本と紙、電子本の三つを比べ、記録の堅牢さを競わせたら、どれが勝つでしょうか?

モノとしての堅牢さで言えば、獣皮を使った写本が最強です。強靭かつ柔軟で、火に強く、濡れても破れません。紙の本は、写本に比べればとても弱い。火にも水にも弱く、容易に手で破ることができます。

しかしここでは単体の堅牢さだけではなく、「可用性」も考慮しなければなりません。可用性というのはコンピュータ用語で、災害や事故などが起きてもシステム全体を停止させずに動かせ続けることを言います。

たとえば一台のコンピュータが壊れてしまっても、すぐに予備のバックアップ機に切り替えることができる態勢が整っていれば、システム全体は止まらない。こういうバックアップを用意しておくことを「冗長化」といい、これによって「高い可用性」が実現していると表現します。

可用性の観点から言うと、写本は一冊を書き写すだけでもたいへんな手間がかかり、バックアップはわずかしかつくれません。修道院が火事になったりすれば、本の内容そのものが失われてしまう危険があります。

紙の本は数百部から数万部、時には数十万部も数百万部も刷られるので、一冊の本が焼失してしまっても、その本のすべてがなくなってしまうことはありません。電子本はどうでしょうか。タブレットやスマートフォンで読むことができますが、タブレットは単なる表示手段で、本そのものではありません。

では、実体は何かと言えば、単なるデジタルデータです。デジタルデータは紙の本よりもずっと容易にコピーしやすく、記録しておくコストも超絶安い。

紙の本の場合には版下や在庫が廃棄され、絶版になってしまうと長い年月の後には入手困難になっていきます。おまけに古い紙は劣化していくので、日本の国立国会図書館がやっているように、ページを撮影してマイクロフィルムやデジタル画像で保管するというような作業も必要になってきます。しかしデジタルデータはどこかに保存されている限りは劣化せず、つねに完璧な状態で維持することが可能です。

紙の本であっても磁気ディスクであっても、記録されたものを手元に保管するのは、つねに消滅する心配があります。災害で焼失したり、水没することもあるでしょう。しかしインターネットを介して堅固なデータセンターに保管し、バックアップをとっておけば、消滅の危険性はとても小さくなります。

この可用性をさらに高めたのが、二〇〇〇年代はじめに登場したクラウドという技術です。これは当初は社内サーバーの外部化ぐらいにイメージされていました。米国のジャーナリスト、ニコラス・G・カーは二〇〇八年、これを電力網になぞらえて説明しています。 発電機が発明されたのは十九世紀なかばで、当初は電灯に使われるだけでしたが、徐々に用途は広がっていきました。やがてさまざまな工場が、自前で発電機を用意し、工場の敷地内に電力線を引いて自家発電して工場設備を動かすようになります。しかし発明王トーマス・エジソンは、発電は一か所に集約したほうが効率が良いのではないかと考え、中央発電所からネットワークを通じて電力を供給するというアイデアを考えます。

実用化を推進したのは、エジソン率いるゼネラル・エレクトリック(GE)社の幹部だったサミュエル・インサルという若者でした。

発電網のアイデアを現実化するためには、新たな技術が必要でした。それまでのピストン駆動の蒸気エンジンよりもずっと効率的で大型にできる蒸気タービン。直流ではなく、遠くまで送電可能な交流電流システム。さまざまな波形の電流の規格に対応できる変圧器。顧客の潜在的な最大電力需要を測る需要メーター。これらの技術によってインサルは巨大な発電所建設を推進します。全米各地へと電力網を使って配電するしくみをつくりあげ、電力コストを思い切って下げることに成功しました。この結果、工場ごとにあった私設発電所は姿を消し、外部の電力を使うという今のしくみになっていったのです。

カーによると、米国の全電力生産に占める中央発電所の割合は一九〇七年には四〇パーセントしかなかったのが、一九三〇年代には九〇パーセントにまで達し、自前で自社発電を行なうのは遠隔地で巨大工場を運営する一部の製造業だけになっていたそうです。

クラウドもこれと同じで、一九九〇年代までは会社が個別にサーバーを設置し、それぞれで管理していたのが、今では多くのサーバー機能がアマゾンなどのクラウドに集約されるようになっています。

水をすくうように音楽や映像を楽しむ

電力網の比喩は非常に巧みでしたが、この記述から十年あまりが経ち、クラウドのもつ意味はさらに深化しています。

一九七〇年代ぐらいの古いSF映画を観ていると、ときに音楽を聴く未来の情景が描かれます。なにかの作品で、指の先程度の大きさの音楽チップのようなものを据え置き型の音楽プレーヤーに挿入するシーンがあったのを覚えています。クラウド以前の世界、つまりCDやカセットテープ、MDなどに音楽を記録するという概念の時代には、未来は記録媒体が超コンパクトになっていくだろうとしか想像できなかったのでしょう。だから数百年も未来の世界なのに、USBメモリのようなものに音楽を収納するという「古風な未来」の描写になってしまっている。

しかし、クラウドが普及して音楽はクラウド上に置かれるようになり、それに合わせてスポティファイやアップルミュージック、ネットフリックスなど月額課金のストリーミングが音楽や映像の分野で普及し、外部の記録媒体に保存するという感覚はほぼ消滅しました。音楽も映像もつねに流れているものであり、その流れにコップをもった手を差し入れて、水をすくい上げて飲むように私たちは楽しんでいます。

このクラウドの世界では、過去も現在も未来もすべて同じ品質で眼の前に存在し、そもそも摩耗という現象そのものが存在しないのです。

英国の著名なミュージシャン、ブライアン・イーノは二〇〇九年のインタビューでこう語っています。

「もはや音楽に歴史というものはないと思う。つまり、すべてが現在に属している。これはデジタル化がもたらした結果の一つで、すべての人がすべてを所有できるようになった」

二十世紀のころは、音楽のレコードを所有するということには特別な意味がありました。

レコードという黒い円盤は高価で、アルバムだと日本円でも三千円近くしたのです。加えてよほど人気のある名盤でなければ、古いレコードは中古レコード店を歩き回って探し出すしかなく、ひどく手間のかかる行為でした。

歴史的なジャズレーベルとして知られるブルーノート・レコードは膨大な数のアルバムを発売していて、一人の個人がすべてを聴くのはほとんど無理。だから「ブルーノートのアルバムをたくさんもっている」ということだけでも価値があり、ジャズ評論を仕事にしている人にとってはたくさん所有していることだけでも優位性をもてたほどだったのです。

しかし大量に収集するという行ないは、音楽のネット配信によって葬り去られました。それでも最初のころは、アルバム一枚に九百円ぐらいの価格がついていたため、収集者には「大人買い」による優位性があったのですが、それもスポティファイやアップルミュージックのようなストリーミングサービスが出てくるまでの命でした。今や月額千円足らずの定額料金で、無数の音楽を無限に聴き続けることができます。

イーノのインタビューは音楽ストリーミングが普及する以前のものですが、彼はこうも言っています。

「私の娘たちはそれぞれ五万枚のアルバムをもっている。ドゥーワップから始まったすべてのポップミュージック期のアルバムだ。それでも、彼女たちは何が現在のもので何が昔のものなのかよく知らないんだ。たとえば、数日前の夜、彼女たちがプログレッシブロックか何かを聞いていて、私が『おや、これが出たときは皆すごくつまらないといっていたことを思い出したよ』と言うと、彼女は『え? じゃあこれって古いの?』と言ったんだ(笑)。彼女やあの世代の多くの人にとっては、すべてが現在に属していて、〝リバイバル〞というのは同じ意味ではないんだ」

プログレッシブロックというのは、一九六〇年代末から七〇年代にかけて流行った前衛的な音楽です。古くてなじみがなかったからこそ、イーノの娘たちには新鮮に聴こえたのかもしれません。

二十一世紀に生きる世代にとっては、もはや音楽はコレクションではありません。すべての楽曲が眼の前にあって、いつでも聴くことができる。一九六〇年代末の古いロックも、最新のポップミュージックも、すべてが同じ地平に存在しているのです。

これは長い人間の文化の歴史を振り返っても、初めての事態です。少し前までは古いものは古い、新しいものは新しいとくっきり分かれていました。その壁がなくなってしまったのですから。

アナログな時代、音楽や映画、書籍などの記録は摩耗し、色あせていくものでした。録音された音楽にはノイズが多く、映像は低画質で不鮮明であり、書籍の印刷では活字がかすれ、さらに時間とともに劣化します。レコード盤は溝が削れ、カセットテープは延びてキュルキュルと音を立て、映画のフィルムは褪色し、書籍は黄ばんでいく。

古さに懐かしさを感じていた

この摩耗に抗することが人類の技術の課題だったのですが、一方で私たちは摩耗によって、文化の古さをしみじみと実感できてきたとも言えます。第二次世界大戦前に発売されたレコードの音源を聞けば、録音の悪さやプチプチいうレコード盤の雑音に古さを思い、どことなく懐かしさを感じる。

私の仕事部屋に、『伝説の歌姫 李香蘭の世界』という二枚組の音楽CDがあります。

李香蘭(リー・シャンラン)は本名を山口淑子といって、戦前の中国大陸でたいへん人気のあった歌手です。生粋の日本人だったのですが、中国・奉天で生まれ育ったことから中国語に親しみ、天性の歌唱能力と美貌もあって、日中戦争の時代に中国人タレントとしてデビューしました。日本の傀儡国家だった満州国の映画会社「満映」が実は後ろ盾になっていて、反日感情を抑えて日中の橋渡しをさせようという狙いがあったとされています。

李香蘭は数多くの映画に出演し、「夜來香」(イエライシャン)などの楽曲が大ヒットしました。「夜來香」は現代中国でも歌い継がれていて、多くの中国人に好まれるスタンダードナンバーとなっています。

戦争が終わった直後、中国人と思われていた李香蘭は、敵国に協力した反逆者として中華民国政府の軍事裁判にかけられました。しかし間一髪で日本の戸籍謄本が法廷に届き、からくも刑は逃れました。戸籍を届けてくれたのは、奉天時代の幼なじみで亡命ロシア人一家の娘だったリューバという女性。李香蘭はその事実を帰国後に知ることになり、必死でリューバを探しましたが、彼女と一家の行方はついにわかりませんでした。

国外追放となって日本に帰国した李香蘭は本名に戻り、女優やワイドショー司会者、さらには参議院議員まで務めて二〇一四年に九十四歳で亡くなっています。

二〇一五年に発売されたベストアルバム『伝説の歌姫 李香蘭の世界』には、太平洋戦争中の一九四四年に録音され、未発表のままだった「雲のふるさと」「月のしずく」の二曲が収録されています。

「月の光に濡れて ジャガタラの夜を往く 我や防人 胸は熱し 南十字星よ ああ 月は遥か 雲の彼方 語らず 嘆かず 肌に降るや 月のしづく」

当時は、戦意高揚のためにつくられた楽曲だったのでしょう。でも戦争が終わって長い時間を経た今聴くと、感傷的なメロディは敗北の予感のようなものに満ちています。録音は悪く、ノイズが乗り、音はくぐもっているのですが、そこにこそ私たちは遠い先人たちの苦労を思って、切なさを感じるのです。

つまりは楽曲そのものだけでなく、摩耗した音とノイズも含めた空気感に魅了されているということなのです。

これは古い映像も同じです。八ミリフィルムで撮影されたような粗い映像を観ると、昔に撮影されたものだと感じます。

私たちは音や映像の粗さや摩耗によって、過去を過去として認識してきました。よくある映画の表現技法で、遠い過去をわざと粗い画質で表現するというのも、そういう感覚を私たちが共有しているからです。

最近、私が偶然手にした「VHS Camcorder」というスマホのアプリがあります。これはとても面白く、高精細で撮影した動画をわざと粗くし、まるで昔のVHSビデオカセットの録画のように見せてくれるのです。ただそれだけで私たちは、スマホの動画でさえも古い過去に感じてしまうのです。粗さが脳に過去のスイッチを入れるということなのでしょう。

しかしこのような摩耗への文化感覚は、過渡期のものでしかなく、いずれ消え去るでしょう。

過去は摩耗しなくなった

八ミリフィルムのカメラはもう販売されていません。昨今の手軽な撮影機材としてはスマートフォンの内蔵カメラということになりますが、超高画質なうえに、最新のAIによるフィルタリングを施した画像はもはや人間の眼の能力を超えています。そのようなカメラで撮影された画像や映像を数十年後に観たとき、私たちはそこに「過去」を感じるのでしょうか。

今ではごく当たり前になったHD(高精細)の動画は日本ではかつてハイビジョンと呼ばれていました。ハイビジョンは一九六〇年代に研究が始められ、一九九四年に実験的な試験放送がNHKによって行なわれています。この時期に撮影された映像のいくつかは、今でもユーチューブなどで観ることができるのですが、その一つに「1992年の東京の日常風景」と題された総計十二分あまりの動画があります。会社員の通勤や商店街の呼び込み、小学校などさまざまな日常を切り取った内容です。

一九九二年の日本はバブル経済は崩壊していましたが、まだ好景気な気分は持続していました。いったん暴落した株価も土地の価格も、すぐにでも再上昇するだろう、そして、経済は間もなく復活するのだと多くの人が信じていたころです。インターネットはまだ社会には登場しておらず、パソコンを使いこなしている人もまだ少数派でした。そう振り返れば、一九九二年というのは二十一世紀の今とはかなり異なる「昔」でしょう。

しかしハイビジョンで撮影された風景は非常に鮮明で、異質さをあまり感じさせません。よく観察すればファッションやヘアスタイル、自動車のデザインなどが今とは違っていることに気づきます。ただ、そのような細部を気にしなければ、今の日本とたいして変わりがないように見えるのです。これがもし、ざらついた粗い八ミリフィルムで撮影されていれば、まったく異なる感慨を抱いたのではないかと思います。

さらに歴史をさかのぼれば、録音・録画のテクノロジーが発明されたのは十九世紀末です。発明王トーマス・エジソンが一八七七年に蓄音機、そして一八九一年に映画の前身であるキネトスコープを発明したところからのスタートです。以降、高精細を求めて録音・録画技術は進化を続けてきました。

音源はレコードからCDへと変わり、さらにインターネット配信へと移行しました。音を圧縮するようになったため音質が劣化したと言われましたが、二十一世紀に入ってからハイレゾリューション・オーディオ(ハイレゾ)が登場して、再び高品質への道が開かれています。しかしハイレゾのような音質となると、もはや普通のリスナーには音の違いは聞き分けられません。

映像でも、HD(1280×720)を超える4K(3840×2160)が当たり前になり、二〇一八年末にはさらに超高画質な8K(7680×4320)も含めて地上波テレビの本放送も始まりました。これにVRなどの映像空間そのものが立体化していく進化も重ね合わせていけば、人間の眼で見ている映像そのままという時代はいずれやってくるでしょう。

高度に進化したデジタルは、人間の皮膚感覚によるアナログを凌駕していこうとしています。人間の身体の感覚も、テクノロジーとともにアップデートされていくことになるでしょう。私たちの視神経や聴神経には認識できる限界があり、高周波の音は聞こえませんし、赤外線や紫外線は見えません。

しかし今のテクノロジーであれば、その限界を超えた高精細な映像や音をつくることが可能になってきています。そのような時代には、もはや時間を経ても音や映像が古びることはありません。DVDやCDなどの記憶媒体が存在せず、音源や映像のデータがクラウドに置かれていれば、誤って消滅しない限り、永久に摩耗することもないのです。

紙の本やアナログのレコード盤は、眼の前に物理的な実体があって確固としているけれども、時間とともに劣化し、摩耗し、色あせていく。しかしクラウドに置かれたデータは眼前の実体がなく、つかみどころがないのにもかかわらず、時間が経っても摩耗せず、色あせもしない。そういう逆転が起きているのです。

記憶はつねに改変され、消滅する

しかしクラウドに置かれた情報には、もう一つの問題が浮上します。色あせず、摩耗しないけれども、それは改変や消滅の危機をつねに抱えているという矛盾です。

そもそも過去を記憶し、後々まで人々が触れるようにするという技術の進化は、人類の文明の証でもありました。私たちは「記憶する」ことにたいへんな労力を割いてきたのです。

最初は言葉による脳の記憶でした。まだ文字のなかった有史以前のころでも、組織的に狩猟し、罠を仕掛けたり、獲物をおおぜいで取り囲む巻狩をしようとすれば、「どのように狩猟の手順を組み立てるのか」「どのようにメンバーの態勢を組むか」といった複雑な思考が必要になり、そのためにはより複雑な記憶が求められます。そしてこの記憶を仲間と共有し、子どもや孫に伝えていくためには言葉という記録手段が必要でした。それを私たちは脳に収めて保管していたのです。

しかし脳の記憶には限界があります。狩猟の経験や知識は、仲間にその場その場で伝達したり、一子相伝で子に伝えるだけでは、広がりがありません。その場にいない人にも伝えるようにしたいし、子が誤って記憶を相続しないように、正確な伝達ができるようにしておきたい。さらに農業という複雑なテクノロジーが発明されると、ますます正確な記録が必要になってきます。

そして文字が発明されました。

初期は文字を石版に刻んでいましたが、やがて竹簡やパピルスなど扱いやすいものに書かれるようになり、記録のテクノロジーは進化します。しかし知が途絶えかけたこともあります。

五世紀に西ローマ帝国が北方のゲルマン人によって滅ぼされると、ギリシャとローマの古典文化を継承する文明は途絶えてしまいます。その後の長い中世の時代で、古典文化は二つの経路で守られました。

一つは、古典文化の本が修道院で修道士たちによってほそぼそと保管され続けたことです。古代ローマでは葦の繊維でパピルスという軽い用紙をつくり、巻物にしていたのですが、この技術も中世には失われます。修道士たちは獣皮を紙のように加工する技術を独自に開発して、自ら製造するようになりました。植物からつくる紙が登場するまでの約千年間、ヨーロッパでは本の材料はもっぱらヒツジなどの獣皮だったのです。

もう一つの経路は、イスラムです。古代の巨大な図書館として有名だったエジプトのアレクサンドリアは、中世になっても数多くの学者がいて、古代の書物も保存されていました。七世紀になってイスラム帝国に支配され、ここがイスラム科学の発祥の地の役割を果たすようになります。イスラムの学者たちはアリストテレスの知識を学び、ギリシャの幾何学とインドの数学を統合して現代の数学につながる基礎をつくり、すぐれた医学を打ち立てました。しかしイスラムでは科学は実証的なものにまでは達せず、思索のための道具でしかなく、近代科学にはつながらなかったと言われています。

この間、ヨーロッパでは何度も古代ギリシャとローマの文化を復興しようという運動がありました。イスラムからプラトンやアリストテレスが逆輸入されたこともあったのです。しかし最終的に中世を終わらせ、古代の文化を完全に復活させることができたのは、十四世紀になってからのことでした。つまりイタリアのルネッサンス(文芸復興)です。それはひとことで言えば、古代ギリシャやローマの文化の再発見であり、それらの文化を取り戻そうという運動です。

なぜルネッサンスは成功したのでしょうか? 大きな要因は、印刷という新しいテクノロジーがあったからです。印刷が発明される以前の本は写本でした。中世に修道院に保管されていた古代の本は大きくて重く、図書室に丁重に保管され、盗まれないように鉄の鎖がとりつけられていました。

写本を書き写すのはたいへんな作業でした。加えて工芸品としては美しいけれど、部数がわずかだったから、焼失や水没などで失われてしまう危険も大きかったのです。おまけに誰もが読めるわけではなく、読むためには修道院の許可を得て、修道院のある土地まで長い旅をする必要がありました。

印刷テクノロジーは、このようにしまい込まれていた知を解放しました。大量に製造し、安価に販売することが可能になったからです。たくさんの学者にたくさんの本が知識として共有されるようになって、本は整理されて体系化され、分析の対象となりました。つまり印刷によって、知の全体を俯瞰的に見通し、知を一望する理性的な眼をもつことができるようになったのです。

人間と記録の間で起きる混乱

加えて本という媒体には、見過ごされがちな大きな利点があります。素材が石版でもパピルスでも羊皮紙でも、そして紙であっても、私たちがそれを読むのに他の道具を必要としないということです。私たちの身体の一部である「眼」と「本」の間には、何も必要ない。ただ視覚があって見ることさえできれば、あるいは点字のように触れる文字の場合には視覚がなくとも触覚があれば、それだけで本は読めてしまうのです。

当たり前のことですが、他の記録媒体でこれができるのは、紙などにプリントした写真しかありません。たとえば音楽。楽器の演奏をライブで聞く場合には他の道具は必要ありませんが、これを記録し、後で再生しようとすると、再生するための機械が必要です。動画も同じです。映像を再生するための機械が必要になるのです。

私たちは博物館や美術館に行けば、中世の巻物や古代の石版を容易に「見る」ことができます。五十年以上も前の古本や雑誌でも、紙がボロボロになって腐り落ちない限りは手にとって普通に読むことができる。

しかし音や映像はどうでしょうか。たとえば実家に置いたままになっているVHSやベータマックスのビデオカセットを再生しようとしても、再生機器がもう手元にはありません。少量生産のため高価になってしまった再生機器を購入するか、専門の業者に持ち込んでデジタルデータに移してもらう必要があります。DVDやブルーレイもいずれはこの道をたどるでしょう。インターネットでの配信が当たり前になり、DVDプレーヤーを所有する人は減っています。パソコンにもDVDドライブは搭載されなくなってきています。

音声も同じです。アナログのレコードやカセットテープ、MDくらいまでなら再生機器は今でも容易に手に入りますが、マイクロカセットやオープンリール式テープ、8トラックカートリッジテープ、エルカセットなどはどうでしょう。さらに録音テクノロジー初期に使われていた蠟管や鋼線式磁気録音機のような媒体だと、博物館にでも持ち込まない限り再生は難しそうです。

音声にしても動画にしても、このような規格や機器の変化という問題が付いてまわってきたのです。時代による変化もあれば、同じ時期に規格が乱立し互換性がなくなってしまうこともあります。一九七〇年代末に起きたビデオカセットでのVHSとベータマックスの標準争いは最も有名な事例です。

このような混乱は、デジタルの時代になってもあまり変わりませんでした。たとえば一九九〇年代には、マルチメディアタイトルと呼ばれるような音声と動画、文章などが組み合わされた作品がたくさん刊行されました。媒体はCD‐ROMが多かったのですが、中身はアプリケーションであり、動作環境は当時の標準的なオペレーティングシステム(OS)であるMS‐DOSやウィンドウズ3・1でした。これを今起動させようとすると容易ではありません。アプリケーションも、つねにその時代その時代の標準的なOSによって左右されてしまうのです。

またこの時期には、音楽でも動画でもさまざまな規格が乱立し、それらを再生するアプリや機器も乱立し、どのアプリケーションや機器がどの規格に対応しているのかがかなり混乱してきます。利用する人がそれらをいちいち確認しなければならず、たいへん面倒なことになったのです。

人間と記録の間に機械や規格がはさまると、このような混乱が起きる。古い機械や少数派の規格に収められた記録は、いくら良好に保存されていても読みとるのが難しくなってしまう。眼で見るだけで記録されていることがダイレクトにわかる本とは、そこが大きく異なるのです。

さて、二〇〇〇年代に入ると、音声や動画、さらには本でさえもインターネットで配信する時代がやってきます。このネット配信というスタイルは、従来の規格の問題を解消する方向へと動かすようにも思えました。

それまでは音楽や動画、本、ニュースなどの情報は、垂直統合されていました。たとえば音楽なら、音楽会社が音楽家と契約し、専用のスタジオで録音し、編集し、音楽CDにプレスして小売店に卸すところまでがすべて統合されていました。テレビや新聞もそうで、番組制作や取材・執筆から電波での放送や印刷までが一つのテレビ局、一つの新聞社で統合して行なわれていたのです。

インターネットのビジネスは、これを水平に分離させました。新聞社が執筆した記事やテレビ局の番組は、新聞社やテレビ局には統合されず、グーグルニュースやユーチューブなどの大きな流通基盤(プラットフォーム)にいったん集められて、ここから読者や視聴者に配信される。「つくるところ」と「配るところ」が分離され、後者が巨大化して水平に統合されたインフラになっていくというのが、インターネットが引き起こした構造変化だったのです。

垂直統合から垂直が分離されて、水平が統合されていくというこの変化は、音楽や映像、書籍などの文化のありかたを大きく変えました。統合によって文化を支配していたテレビ局や新聞社、出版社のパワーが削がれ、グーグルやアップル、アマゾンなど流通基盤をになうネット企業の側に権力が移っていったのです。これによってネット企業は収益力も高め、巨大になっていきます。

この水平に統合されるしくみを、プラットフォームとも呼びます。

プラットフォームの支配を逃れる

プラットフォームが巨大化していく中で、プラットフォームが過度に支配してしまわないようにする動きもありました。最も印象的だったのは、アップル創業者のスティーブ・ジョブズの二〇〇七年の転回でしょう。アップルは二〇〇〇年代はじめにアイチューンズ・ミュージック・ストアという音楽の流通基盤をスタートして、これが世界の音楽市場を支配しました。

楽曲には「フェアプレー」という名称の著作権管理システムががっちりとかけられていました。海賊版の横行に手を焼いていたレコード会社各社が、違法コピーが蔓延しないようにアップルに求めたからです。アイチューンズで購入した楽曲は、その人が認証したパソコンや音楽プレーヤーなどでしか再生できず、他の人に渡すことはできません。またアイチューンズが動かない機器でも再生できません。

しかし、とジョブズは考えました。著作権管理をいくら強力にしても、海賊版の業者にすぐに破られ、いたちごっこが続いている。そもそも著作権管理は使いづらいだけで、実効性に乏しい。おまけに著作権管理のしくみなど持たない音楽CDのほうがネット配信よりもずっと大量に販売されていて、ここからパソコンに読み込むのであれば、著作権管理などすり抜けられてしまう。

だったら使いづらい著作権管理などやめて、オープンにどんな楽曲をどんな機器でも再生できるようにすることが、人々の幸せにつながるのではないだろうか?

この背景には、すでにアイチューンズが世界市場を制している中で、今さら他の企業のプラットフォームにシェアを奪われる心配はないだろうというアップルの計算もあったでしょう。そして二〇〇七年、ジョブズはフェアプレーを完全に捨てることを提唱する文書を公開し、人々に問うのです。アイチューンズで購入した楽曲を他社の音楽プレーヤーやアプリでも再生できるようにし、また他社の音楽プラットフォームで購入した楽曲も、アップルの機器で聴けるようにすべきではないか、と。

この文書は支持されました。わずか二か月後には、四大レコード会社の一つであるEMIが、フェアプレーを解除した曲をアイチューンズに提供することを発表します。他の大手レコード会社もこれに追随し、ジョブズの目指したオープンな未来は実現に向かいました。

著作権管理をやめることには、二つの意味があります。一つは巨大化するネット企業の支配力を弱めること。二〇一〇年代になってくると大手ネット企業は総称してGAFA(ガーファ、グーグル・アマゾン・フェイスブック・アップルの頭文字)などと呼ばれるようになり、あまりの強大さが恐れられる事態になってきました。支配から逃れるためには、GAFAのプラットフォームを必ずしも経由しなくても、さまざまな文化や情報、サービスに触れられるようなオープンなしくみを実現していくしかない。著作権管理がなくなれば、これが可能になるのです。

もう一つは、プラットフォームそのものが消滅する危険を避けるということ。プラットフォームは規模の大きなビジネスですが、儲からないとなれば大手ネット企業でもすぐに撤退してしまうことがあります。たとえばGAFAと並び称されるマイクロソフトは二〇一九年、マイクロソフト・ストアでの電子書籍の販売を終了してしまいました。購入した本は全額払い戻しになったので利用者は金銭的な損はしませんでしたが、せっかく購入して揃えた本は読めなくなってしまいました。電子書籍はアマゾンが手がけている最大手キンドル・ストアを除けば、小規模な電子書籍ストアが乱立しています。これまでも弱小のプラットフォームが撤退してしまい、この結果、著作権管理のかかっていた本が読めなくなってしまうという事態は頻発しているのです。

この問題も、著作権管理をなくせば解消します。電子書籍にはMOBIやPDFといった標準的な規格があるので、この規格で手元のパソコンやスマホにダウンロードしておけば、どんなアプリからでもいつでも読むことができるようになり、販売したストアが消滅しても関係ありません。

とはいえ、著作権管理を完全になくしてしまうと海賊版が広まるリスクも高まります。そこで電子書籍では「ソーシャルDRM」と呼ばれる、ゆるい著作権管理のしくみも考えられています。これはいったんダウンロードしておけばどんなアプリからでも読むことができ、ストアが消滅しても大丈夫なのですが、ダウンロード時に購入した人の名前などが自動的に書き込まれるようになっています。これが無差別に配布することへの心理的な抑止力になるということなのです。

GAFAなどとは別の公共のプラットフォームを立ち上げて、そこに書籍の中身や購入者の情報などを一元化して保存しておこうというアイデアもあります。ストアが消滅したら、購入者はこの公共プラットフォームを使って他のストアに書籍情報を移すことができるというものです。携帯電話のキャリアを乗り換えるときに、電話番号をそのまま持っていく番号ポータビリティ(MNP)の制度に近いと言えるでしょう。

この延長線で、ブロックチェーン技術を使って書籍や購入者の情報を管理するしくみを考えている人たちもいます。

二十一世紀になって登場したブロックチェーンは、改ざんが難しく、さまざまな台帳を誰でも参照できるようにし、民主的に持続的に共有することができます。仮想通貨ビットコインの中核として使われたことで有名になりましたが、他の分野への応用も期待されています。

大量のデータをやりとりするのには向いていないので、書籍や音楽、動画などのデータはデータセンターなどに分散して置いておき、ソーシャルDRMのように書籍や購入者の情報などをブロックチェーンで世界的に管理することにすれば、この台帳は未来永劫なくなることはありません。たとえGAFAが消滅しても、ブロックチェーン上に保管されている台帳だけは生き残ることができるでしょう。

このようにプラットフォームの支配に対抗し、消滅に対応するために、さまざまな新しい試みが考えられてきました。ところが二〇一〇年代になってくると、事態は想像もしなかった方向へと進みはじめます。

それは新しい垂直統合の幕開けという事態です。

新しい垂直統合は、垂直も水平も統合する

音楽や動画では、ストリーミングという新しい形態が急速に広まりました。音楽のスポティファイやアップルミュージック、動画のネットフリックスなどが代表的なサービスです。

数百円から千円前後の定額料金を月ごとに払うと、音楽や動画を無尽蔵に楽しむことができる。ストリーミングでは、もはや楽曲や映画などの作品は、単体としての意味はありません。それまでのネット配信でも、音楽CDやDVDという物理的なパッケージはすでに消滅していたとはいえ、まだ作品をひとかたまりの単体として扱い、作品ごとにお金を払って購入していたのです。しかしストリーミングでは「単体にお金を払う」という感覚は消滅し、まるでラジオやテレビのように、眼の前を流れていく音楽や動画を楽しむ。もはや作品をモノとして捉える意識は消滅しています。

このストリーミングという形態は、音楽や動画などの文化に限らず、あらゆる産業に展開されようとしています。

台湾で生まれたゴゴロという電動バイクがあります。バイク本体は販売されているのですが、興味深いのはバッテリーの扱いです。台湾全土に設置されている数百か所のバッテリー充電ステーションで、利用者自らがバッテリーを交換するしくみなのです。バイクからバッテリー二本を抜いて、充電ステーションの空きスペースに挿入。すると代わりのバッテリーが自動的に出てくるので、これを自分のバイクに装着するのです。

車体の小さなバイクは自動車のような大きなバッテリーを搭載できません。そのため電池切れの不安がつねにあるのですが、この交換式の充電ステーションが街にたくさんあれば、残りの電池量を気にせずにバイクを走らせることができます。

バイク本体は約五十万円とかなり高価ですが、ここには最初の二年分のバッテリー交換料とロードサービスの費用も含まれている。つまりバイク単体ではなく、サービスと込みで利用料を払うしくみと言えるでしょう。つまり単体の製品が、利用料を込みにしたサービスへと変化する。

これは音楽や映画などの単体の作品が、ストリーミングになっていくのと同じメロディを奏でています。

自動車のテクノロジーで考えてみましょう。完全な自動運転が普及すれば、人間が運転をする必要はなくなり、そうなればクルマの個人所有というかたちも衰退していく可能性が高いでしょう。無人のクルマがつねに街なかを走り回っていて、移動の必要があるときにすぐさま眼の前に来てくれるようになるのであれば、わざわざ駐車場を借りてクルマを寝かせておくのは無駄になるからです。自分で運転しないクルマを所有し、それを楽しみにできるのは一部の富裕層だけになるかもしれません。

そうなった未来に最も必要な要素は、クルマの動力性能でなければ、クルマの台数を今よりも増やすことでもありません。重要なのは、高度な配車のネットワークです。

夜の東京でクルマを走らせると、新宿や渋谷などの歓楽街を無数の空車タクシーが埋めているのを目にします。これではお客さんを得るのは難しいでしょう。しかし都心から出て、環状八号線の外まで来ると、東京二十三区であってもタクシーの数はめっきり減ってしまいます。このような土地でタクシーを拾おうとすると難渋し、タクシーアプリや電話で呼ぼうとしても、へんぴな場所だとなかなか来てくれません。「都心にはあんなにたくさんいるのだから、少しは郊外にも来てくれたらいいのに」と愚痴をこぼしたくなります。 しかしタクシー運転手から見ると、そういうわけにはいきません。都心は小さな面積ですが、郊外は広大です。その広大な地域にタクシーを走らせても、乗客はめったにいません。だったら時間がかかっても、都心の歓楽街で客待ちをしているほうが効率が良いということになる。

もし郊外のへんぴな場所で、どのぐらいのお客さんがタクシーを求めているのかを予測できたらどうでしょうか? さらには、乗客の目的地のデータを収集し、目的地付近で待っているであろう乗客の予測と突き合わせたらどうなるでしょうか?

東京で多くの人々が、日々タクシーで移動しています。どんな人がどこでタクシーを乗り、どこで降りたか。その間の渋滞や道路状況はどうだったのか。そのようなデータをたくさん集めて解析すれば、ある程度の予測は立てられそうな気がします。その予測をもとに、タクシーを動かしていくことができれば、繁華街にタクシーを集中させなくても、よりスムーズにタクシーを運行させることができるでしょう。

こうした予測システムが完全自動運転車と合体すると、非常に高度な都市運送システムができあがります。駐車場は不要になり、路面から常時ワイヤレス充電されて自動運転電気自動車がつねに街を走り続ける。人々は移動が必要になれば、アプリなどを使ってその場で呼ぶ。数秒から数十秒で空いているクルマが到着し、目的地までそのまま運んでくれる。このようなシステムが実用化されれば、現行のバスやタクシーは不要になるでしょう。 この世界では、自動車は単体では産業として成立せず、高度な配車システムとそれを利用するためのアプリなどが統合したサービスという第三次産業に変わります。ウーバーやリフトなどのライドシェア企業が目指しているのは、このような未来です。

雑誌『ワイアード』の創刊編集長だったケヴィン・ケリーは、こう言っています。

「あなたが家に停めてある固体の車は、ウーバー、リフト、ジップ、サイドカーといったサービスのおかげで、個人向けオンデマンド運輸サービスへと姿を変えている」「われわれは今、フロー(流れ)の時代に入っているのだ」

クルマという「固体」が、サービスとしての「流体」へと変わっていくイメージです。音楽や映画のストリーミングも、流体の一つです。単体の作品というコンテンツが、ストリーミングによって流体に変わるのです。固体から流体への変化は、構造そのものも変えてしまいます。インターネットで旧来の垂直統合は水平分離に移ってきましたが、これが流体化することによって、再び垂直統合に戻ってきているのです。なぜなら固体という単体の販売が、流体という統合的なサービスに変わることで、作品と配信基盤が分離できなくなってしまうからです。

たとえば道路や都市計画というインフラは、自動車という固体と水平分離されています。どんなメーカーのどんな車種でも、好きに道路を走ることができます。しかし自動車のインフラが高度になり、単なる道路ではなく、乗客のデータなども合わせた運行システムに進化すると、この運行システムは自動車単体と分離できなくなります。

分離しようという動きも出てくるでしょうが、「運行システムプラス自動車」で成り立っている企業にとっての中核はもはや自動車単体ではなく、運行管理システムと自動車が合体している「全体」になる。それを無理やり分離させようとすると、ビジネスそのものを壊すことになり、企業の側は強く反発するでしょう。そういう状況へと変わってきているのです。

では、この「全体」を統合させる軸は何になるのでしょうか。いったん水平分離していた基盤と固体を再びしっかりとつなげるためには、強力な「接着剤」が必要になるはずです。

先に答えを言ってしまえば、それはデータと人工知能(AI)です。AIについては第三章でくわしく語りますが、それはひとことで言えば、莫大なデータを処理して特徴を見つけ出したり、かなり的確な予測を行なえるテクノロジーです。未来の自動車システムでは、乗客の動向やクルマの位置、走行距離など多くのデータを処理することで、どこにどうクルマを向かわせれば無駄のない効率的な運行ができるのかを予測する。この予測の的確さが、ビジネスとしての成功の可否を握ることになります。

AIは自動車のシステムだけでなく、あらゆる分野に適用されるようになり、音楽や動画、書籍などの文化にも波及してきています。アーティストがつくった作品を、どのような人々に届けるのか。その際に作品をどう紹介するのか。SNSやメディアなどのどういう動線で届いたのか。実際にどう観られ、読まれ、受け入れられたのか。作品のどのページ、どのシーンに人々は感動したのか。これらを分析することによって、作品を人々により適切に届ける方法を構築していく手法がつくられようとしています。

これこそが新しい垂直統合の形なのです。

古い時代の垂直統合は情報や商品が流れる経路を支配することでした。メディアで言えば、電波や印刷流通を支配することでテレビや出版社の垂直統合は成り立っていました。総合スーパーはたくさんの商品を大量に仕入れ、大量販売するという流通を押さえることで垂直統合していたのです。

これらの垂直統合はインターネットの普及でいったん解体され、水平分離されていきましたが、これがデータとAIによって再び統合されようとしています。人々と企業をつなぐ空間全体を、AIによってうまく設計し、構築していくことで支配することができるようになるのです。

この世界では、水平を統合したプラットフォームが垂直に縦にも手を伸ばし、全体を統合していく。以前のように垂直だけ統合するのではなく、従来のプラットフォームのように水平だけを統合するのでもなく、プラットフォームとデータ、AIが融合することで垂直にも水平にも統合していき、空間全体をコントロールし、支配する。そういう新しい構造が生まれつつあるのです。これを本書では「第二世代プラットフォーム」と仮に呼んでおきましょう。

第二世代プラットフォームは、過去を支配する

音楽のスポティファイや動画のネットフリックスなどのストリーミングは、まさに第二世代プラットフォームです。

たとえばネットフリックスは、人々がどのような番組をどう観ているのかというデータを大量に集めています。何の番組を観たかだけではなく、ある番組を「五分だけで観るのをやめてしまった」「一気に全部観た」、シリーズものであればエピソードをどこまで観たのか、一晩で一気に観たのか、毎晩少しずつ観たのか、さらには、それはテレビ受像機で観たのか、それともスマホだったのかパソコンだったのかということまで、細かく収集しているのです。このデータをもとに「今人々はどんな番組を観たがっているのか」を解析し、それに基づいて作品をつくる。

このデータをもとに「アメリカの視聴者は、デヴィッド・フィンチャーが監督してケヴィン・スペイシーが演じる政治のドラマを観たがっている」という結論をはじき出し、『ハウス・オブ・カード 野望の階段』をシーズン1だけでも百億円もの制作費を投下して配信。大ヒットさせた話は伝説にまでなっています。

このような新しい垂直統合では、もはやオープンなプラットフォームという考え方は存在しません。人々に適切な作品を送り届けるためには、人々のデータとプラットフォームと作品ががっちりと手を握り合っている必要があり、切り離すことが不可能だからです。実際、スポティファイやアップルミュージックのようなストリーミングの音楽サービスでは、スティーブ・ジョブズが実現したはずの自由な理念は忘れ去られていて、がっちりと著作権が管理されてしまっています。

第二世代プラットフォームがつくる空間は、ある意味で気楽な世界です。自分が好きになれそうな音楽や映画や書籍をかなり的確におすすめをしてもらえる。自分がCD店や書店を探し回るだけでは見つけられなかったような素晴らしい作品も、どこからともなく眼の前に現れてくれるのです。新しい垂直統合には、そういう安逸があると言えるでしょう。
 しかし一方で、第二世代プラットフォームは、徹底的に支配され、管理された世界です。プラットフォームが私に提供しない作品は、私にとって存在しないのと同じです。プラットフォームを経由しないで新しい作品を見つけることは、逆に難しくなります。

そして、もう一つ大きな問題があります。この新しい世界では、作品や情報や商品がプラットフォームによって自在に改変されたり、消滅させられてしまう可能性があるということです。それはプラットフォームが邪悪な意志をもっているかどうかに限らず、構造として必然的に起きてしまうのです。

第二世代プラットフォームでは、先に紹介したケヴィン・ケリーの言葉のように、作品や商品などは固体のパッケージとして販売されるのではなく、サービスの流体として提供されるようになります。プラットフォームが提供しているのは、人々を包み込む空間全体であり、作品や商品はその空間をつくるための一つの素材にすぎません。だから素材としての作品や商品は、単体としてそこから切り出すことができません。

たとえば、スマートフォンという第二世代プラットフォームでは、通信ができるスマホという製品とモバイルアプリ、さらにそのアプリ上で再生される音楽や動画が一体となっています。ここから音楽だけを取り出すことはできませんし、またアプリが動作しないスマホというハードだけを取り出しても、それはただの「箱」でしかなく、何の価値もないのです。スマートフォンの世界では、人々が気持ちよく快適に過ごせるような空間が希求され、そのために情報や作品が空間の一部として提供されているにすぎません。

そもそも第二世代プラットフォームでは、有料であっても、そこで提供される作品や情報や商品が販売されているわけではありません。全体の空間を使用できる権利の一環として、使用権を提供されているだけなのです。私たちは紙の本を書店で買うと、その物体としての所有権も同時に手に入れることができます。しかしキンドルで「購入した」と思っている本は、購入ではない。実際、アマゾンの規約ではキンドルの書籍について「ライセンスされるのみで、コンテンツプロヴァイダーからユーザーに販売されるものではありません」と明記されています。

書籍に誤記などが見つかった場合、紙の本では印刷の版を重ねるごとに修正されます。しかし電子書籍では修正はその都度行なわれ、細かい修正であればいちいち読者には伝えられません。

またキンドルでは過去、ジョージ・オーウェルの著書『動物農場』や『1984』が突如として削除され、「購入」していた人の手元のキンドルリーダーから消えてしまうという事件が起きたことがあります。これはオーウェルの版権をもっていなかった出版社が勝手に販売し、アマゾンが違法と認定して削除したために起きたことだったのですが、事情を知らない読者から見れば「買ったはずの本が消えてしまった……」という驚くべき事態に映り、大騒ぎとなったのです。このときはアマゾンが謝罪し、「今後はユーザーの手元のライブラリに許諾なく関与することはしない」と明言して解決しました。

しかし、今度は音楽で同じようなことが起きました。

二〇一九年三月、テクノポップグループ「電気グルーヴ」のピエール瀧が麻薬取締法違反で逮捕されたことを受け、音楽会社ソニー・ミュージックレーベルズが、電気グルーヴの楽曲の配信や販売を停止したのです。それまでにファンが購入していたCDやレコードが聴けなくなることはありません。またアイチューンズなど楽曲を単体で購入できるサービスでも、手元に保存してあるデジタルデータは再生できます。しかしアップルミュージックやスポティファイなどのストリーミングでは、電気グルーヴの楽曲を手元のスマートフォンやPCにダウンロードしてあっても、聴けなくなってしまったのです。

これに対して電気グルーヴのファンや音楽愛好者らから猛反発が起き、ソニーミュージックに対して配信停止を撤回するよう求める署名運動も起きました。これには七万人近くが賛同し、社会的な盛り上がりにまでなったのです。

このような問題について音楽会社がこれからどのような対応をしていくのか、明確には定まっていません。しかし垂直にも水平にも統合され、市場が寡占されている第二世代プラットフォームでは、つねにこのようなことが起きる可能性があります。

プラットフォームに寡占させないことによって、改変を防ぐという方向もあるでしょう。しかしその場合には、小規模なプラットフォームが乱立してしまい、今度はプラットフォームがいつなんどき消滅するのかわからない、という逆に不安定な状況に陥ります。

先にも書いたように、日本では電子書籍のプラットフォームが二〇一〇年代に乱立した結果、いくつものプラットフォームが消滅して本が読めなくなるという事態が何度も起きました。プラットフォームの消滅を防ぐためには、特定のプラットフォームが巨大化して市場を寡占せざるを得ない。しかしそうなるとプラットフォームは自在に過去の記録を改変し、それに人々は気づかないという独占の問題が起きてきてしまう。「あちらを立てればこちらが立たず」と言うべきか、それとも「前門の虎、後門の狼」と呼ぶべきか、どちらにしても過去が揺らいでしまうという事実には変わらないのです。

これは、古い垂直統合が終わり、水平分離を経て、垂直にも水平にも統合される第二世代プラットフォームが台頭してくると、宿命的に起きる必然的な事態だと言えるでしょう。 これからは情報を管理する主体は、一人の個人からプラットフォームへと移り、それは情報がつねに真正なままで記録されていることを保証するわけではない。それは予告なく、人々に伝えられないまま改変されるかもしれないし、改変されないかもしれない。

いずれにしても、そこでは「真正であること」という保証は消滅します。紙の本や音楽のレコード、CDは物理的にそこに存在し、改変されているかどうかはたいていの場合、見ればわかる。でも第二世代プラットフォームでは、改変の事実は見えにくくなる。

この新しい世界の中で、私たちは過去の記録を「真正かもしれないし、改変されているかもしれない」という不確かな眼で向き合わざるを得なくなる。過去が決して確かなものではなくなっていくのです。

どこまでが「自分」なのか

色あせず、デジタルの世界でいつまでも鮮明に残り続ける過去。しかし生々しく鮮明であるにもかかわらず、いつ改変されるかわからない。この不思議なジレンマを私たちは抱えるようになるのです。そのような「新しい過去」に対して、私たちはどう向き合うようになるのでしょうか。

そもそも、私たちは過去をどう扱ってきたのでしょうか。

過去の記憶の集まりこそが、一人の人がその人であることを証明するものだ――そういう哲学があります。十七世紀から十八世紀のヨーロッパで広まった経験主義です。人間は生まれたときには白紙だけれど、さまざまな経験をすることで知識をたくわえるようになる。そういう経験と知識の積み重ねこそが、人間であることの本質だと、当時の哲学者たちは考えたのです。つまり記憶が一貫しているというのが、その人がその人であることの証明になるということです。

魂じゃなく、からだでもなく、記憶。

たとえば、自分はユリウス・カエサルの生まれ変わりだと主張する人がいたとしましょう。その人が本当にカエサルの生まれ変わりで、彼の魂を受け継いでいるとしても、その人がカエサルだったころの記憶をもっておらず、カエサルの思想や行動を受け継いでいないとしたら、彼はカエサルと同一人物と言えるでしょうか? 魂という曖昧なものが共通しているだけで、記憶も思想も行動も共有できていないのだったら、同一人物とは言えません。

別のケースを考えてみます。

中世に一人の騎士がいて、自分の記憶や意識をすべてもったまま、突然に現代のパン屋に転生したとします。その転生した先には、パン屋の魂がそのまま残っていたとしたら、騎士が転生したパン屋は騎士なのでしょうか、それともパン屋なのでしょうか? 記憶や意識がそのまま残っているのなら、そのパン屋はやっぱり騎士と言えるのではないでしょうか。

私たちが世界を認識し、自分を自分だと考えられる根拠は、自分だけのさまざまな経験の上に積み重ねてきた記憶です。その記憶があってこそ、自分なりの行動ができるようになるし、思想を構築できるようになる。ヨーロッパの経験主義は、そんなふうに考えました。そのように記憶こそが自分の拠って立つアイデンティティであるという考え方は、現代の私たちの中にも色濃くあるでしょう。

しかし記憶が改ざんされたら?

一九八二年に公開された伝説的なSF映画『ブレードランナー』には、記憶にまつわるエピソードが出てきます。

『ブレードランナー』の舞台は二〇一九年の米ロサンゼルスで、人間そっくりの血も肉体も、そして知性もあるロボット「レプリカント」がたくさん製造されている未来を描いています。彼らは宇宙で過酷な労働や戦闘に従事させられていることに抵抗し、反乱を起こします。地球にひそかに舞い戻ってきた彼らを探し出す捜査官デッカードとの対決を描いた作品です。

レプリカントを開発した大企業には、レプリカントのレイチェルが社長タイレルの秘書として使われています。でも彼女は、自分がレプリカントだと知らず、人間だと思い込んでいる。デッカードのアパートを訪れたレイチェルは、彼に聞きます。「私をレプリカントだと思う?」。そして色あせた写真を彼に見せるのです。「子どものときの私と母よ」 デッカードは悲しい目をして答えます。

「覚えてるか? 君は六歳のとき、弟とお医者さんごっこをした。自分のを見せる番になったら逃げ出したな。誰かに話したか? 窓の外の茂みに、クモがいた。身体が黄色いやつだ。夏に巣を張ったろう。その上である日、卵が孵った」

「……そうよ。子グモが百匹も出てきた」

「それは移植情報なんだ。君には、タイレルの姪の記憶が移植されている」

 彼女の頰に涙が流れるのを見て、思わずデッカードは噓を口にします。「オーケー、冗談だ。レイチェル、君はレプリカントじゃない」

「疑似体験も夢も、すべて現実であり、そして幻なんだ」

もう一つ作品を題材にしましょう。日本のアニメの名作として名高い『攻殻機動隊』です。

もともとは一九九一年に刊行された士郎正宗の漫画で、その後何度となくアニメ化されています。最も有名なのは押井守が監督した一九九五年の『GHOST IN THE SHELL /攻殻機動隊』と、その続編である二〇〇四年の『イノセンス』でしょう。二〇一七年には、スカーレット・ヨハンセン主演で実写のハリウッド映画にもなっています。

『攻殻機動隊』は、サイボーグ技術が進んだ二〇三〇年代を舞台にしています。多くの人が、義肢や義手が進化したイメージの「義体」という機械の身体を使っています。人々の首の後ろ側にはコネクタのようなものがあり、脳に直接インターネットを接続。さらに脳そのものを機械化する技術も出てきているという設定です。脳が機械になってしまったら、人間の本質はいったいどうなるのだろうというのが作品の背景テーマになっているのです。

ニセの記憶を植え付けられた清掃局員の男が登場します。彼は自分には妻や娘がいると信じきっていますが、警察が自宅に踏み込んでみるとそこは独身男の殺風景な一室でしかありません。刑事は男に告げます。
「あんた、あの部屋でもう十年も暮らしてるんだよ。奥さんも子どももいやしない。あんたの頭の中だけに存在する家族なんだ」

これに捜査官の一人が、ひとりごとのようにつぶやきます。

「疑似体験も夢も存在する情報は、すべて現実でありそして幻なんだ。どっちにせよ、一人の人間が一生のうちに触れる情報なんて、わずかなもんさ」

本物の記憶であっても植え付けられた記憶であっても、さらには眠っている間のつかのまの夢であっても、すべては幻のようなものにすぎないという諦観が伝わってきます。どちらにしても、私たちは世界のすべてに触れられるわけではないし、眼の前にある過去を、それが幻であったとしてもただ盲目的に信じるしかないのです。

「人形つかい」という悪名高いハッカーが出てきます。このハッカーは実は人間ではなく、政府機関が開発したコンピュータのプログラムです。彼は義体に宿ることによって肉体を持ち、自由自在に物理空間とネットの海の中を移動することができるようになります。そしてついには、日本政府に対して政治的亡命を求めるのです。

「バカな! おまえは単なる自己保存のプログラムにすぎん」と突っぱねる政府関係者に対して、彼は答えます。

「それを云うなら、あなたたちのDNAもまた自己保存の為のプログラムに過ぎない。生命とは情報の流れの中に生まれた結節点のようなものだ。生命は遺伝子としての記憶システムを持ち、人はただ記憶によって個人たる。たとえ記憶が幻の同義語であったとしても、人は記憶によって生きるものだ」

過去の記憶こそが人間の証であるのなら、機械のプログラムが記憶をもてば、それは人間と等価じゃないか――そう言い返されれば、人間の側は答えにつまるしかありません。私たちの記憶がフラッシュメモリに記録され、鮮明なまま残り続ければ、それは一人の人間を「保存」していることになるのでしょうか?

別のシーンで、主人公の草薙素子は語ります。

「自分が自分であるためには驚くほど多くのものが必要なの。他人を隔てるための顔、それと意識しない声、目覚めのときに見つめる手、幼かったころの記憶、未来の予感。それだけじゃないわ。私の電脳がアクセスできる膨大な情報やネットの広がり、それらすべてが『わたし』の一部であり、『わたし』という意識そのものを生み出し、そして同時に『わたし』をある限界に制約し続ける」

インターネットは視界を拡張したと言われています。私たちは望めば、世界の果ての光景でもグーグルマップで見ることができるし、遠い異国の人の日々の生活をフェイスブックで見ることができる。それはまだ視覚にすぎませんが、いずれ身体感覚にまで拡張され、五感が拡張されていくとどうなるのでしょうか。攻殻機動隊はその先をイメージしようとしています。そこでは個人だけの記憶が占める比率は下がり、集合的な五感の記憶が共有され、「どこからどこまでが自分なのか?」ということが曖昧になっていくのかもしれません。

攻殻機動隊の未来では人々が義体をまとうことが普通になり、どこからどこまでが「自分」なのかという物理的な境目が揺らいでいます。さらには過去でさえも改変されることが当たり前になり、時間を軸にした「自分」の精神の境目でさえも揺らいでしまっているのです。そこでは過去への郷愁という感情自体が消滅していくのかもしれません。

日本のシティポップが、なぜアメリカで人気なのか

「郷愁」の変容は、インターネットが普及した私たちの世界ですでに現実に起きつつあります。

二〇一九年一月に米シカゴで、日本のポップシンガーである杏里のライブコンサートが開かれました。「悲しみがとまらない」などのヒット曲で一九八〇年代に一世を風靡 した歌手ですが、米国ではそれほど知られた存在ではありません。その彼女がなぜシカゴで歌ったのか。

ライブを企画した米国人DJのヴァン・ポーガムは、一九八〇年代の日本の都会的なポップミュージックを収集し、紹介していることで以前から知られています。彼はウェブメディア「シカゴリーダー」のインタビューで「このジャンルほど多くのリスナーを惹きつけた音楽はなかった」と話し、その理由について非常に面白い分析をしています。

ポーガムによると、アメリカ人たちは自分たち自身の過去には、今やノスタルジーを感じられなくなってしまっているというのです。

なぜでしょうか。

郷愁を感じるはずの古い音楽や映画は何度となくカバーされ、リメイクされ、ユーチューブに投稿され、スポティファイやネットフリックスなどのストリーミングのサービスでいつでも触れることができる。一九八〇年代は四十年も前の過去ですが、TOTOの「アフリカ」のような当時のヒット曲は今でもそこらじゅうで配信され、流れ、ひんぱんに耳にします。

音楽や映画に触れる機会がレコードや映画館に限られていた昔と比べ、現代はあらゆる方法でそれらの文化に触れられるようになり、接触機会がものすごく多くなりました。そうすると、たまに耳にするから郷愁を感じるはずだった古い文化が、もはや飽き飽きするほどにまで現在進行形で共有されるようになってしまっているのです。

過去の文化はそうやって消費されつくし、飽和してしまっているのです。だから若い世代も上の世代も、一九七〇年代や八〇年代が本当のところどんな時代感覚だったのかという、リアルでまとまった印象をもてなくなってしまっている。つまりはどこからどこまでが現在で、どこから先が過去なのかという境目が揺らいでしまっている。それは郷愁を押し流してしまう。

ところが、日本の一九八〇年代に流行った都会的なポップミュージックは異なる。なぜなら、この通称「シティポップ」と呼ばれる音楽は、アメリカではほとんど知られていなかったからです。当時のアメリカ音楽から強い影響を受けて音楽性を受け継いでいるのにもかかわらず、アメリカ人にとっては手付かずのままでした。だから彼らがシティポップを聴くと、新鮮であるのに、同時に郷愁も呼び起こされる。

「自分たち自身のものでもないのに、あの時代を思い出させ懐かしく感じるというのは、多くの人々には新鮮な感覚だ」とポーガムは語っています。この感覚はポーガムひとりのものだけではなく、サンフランシスコのフォークロックバンド「ヴェティヴァー」のアンディ・キャビックは、ローリングストーン誌の記事でこう語っています。「AORやウエストコースト・ポップ、そういうのは耳が腐るほど聴き飽きていて、もはや自動的に脳が拒否反応を示すんだ」「でもまったく違った環境で耳にすると、目から鱗のような体験をすることもある。異国文化というフィルターを通したその音楽に、僕は懐かしさと新鮮さを同時に覚えたんだ」

杏里に限らず、日本のシティポップのような八〇年代前後の音楽をミックスする行為は二〇一〇年ごろからアメリカで流行し、山下達郎や竹内まりや、故・松原みきなどのユーチューブの楽曲は何百万回も再生されています。総称してヴェイパーウェーブと呼ばれるムーブメントにもなりました。ヴェイパーというのは「蒸気」の意味です。古い音楽がピッチを落とされたり、半拍ずらしてミックスされたり、くどいほどに反復されたりして、まさに蒸気がもやもやと漂っているような酩酊感のあるミックス音源がつくられます。これらはユーチューブで配信され、映像には『うる星やつら』のような古いアニメ作品の一部が切り出されたりしていて、まるで壊れかけたブラウン管のテレビでノイズだらけのビデオカセットを観ているような気分になる。

これらの音源からは、懐かしさと同時に、空虚さも感じられます。音源にはショッピングモールなどで何気なく流れている安っぽいBGMが使われることも多く、もともと空虚だった音がミックスされてさらに空虚さが増し、でもそこに妙に懐かしさを感じるのです。「いったい自分はヴェイパーウェーブの何に懐かしさを感じているのだろう?」と疑問が浮かび、しかしその答えはどこにもありません。消費されつくした郷愁の先には、郷愁なんて存在しないはずの安っぽく空虚な場所に懐かしさを感じるしかない、というひねりすぎた感情だけが残っているように思えます。日本のシティポップを集めたコンピレーションアルバム『PACIFIC BREEZE/JAPANESE CITY POP, AOR AND BOOGIE 1976―1986』はジャケットに永井博のイラストが使われ、彼特有の「人物の登場しないリゾート風景」がまさにこの空虚で寂しく、でも懐かしい過去のような印象を浮かび上がらせています。このアルバムを編んだマーク〝フロスティ〞マクニールはライナーノーツで、一九七〇年代から八〇年代にかけての日本のシティポップの背景には戦後の奇跡的な経済成長があり、「パンチドランカーのような日本の酩酊した繁栄を映し出している」と指摘しています。

第二次世界大戦が終わってからの半世紀は、日本のみならず米国でも欧州でも工業生産が急増し、人々が豊かになった時代でした。しかしその急成長は私たちの古い何かをどこかに置き去りにしてしまった感覚も伴っていて、そのころへの「うつろな懐かしさ」というイメージは日本でもアメリカでも共有されているということなのかもしれません。

私たち人間にとってとても大切だった「過去」。しかしその過去は今、変質しようとしています。これまで述べてきたように、過去は色あせなくなり、いつまでも鮮明なままであり、しかし改変される可能性をつねにはらんでいる。そしてインターネットによってそのような過去があふれ返るようになり、私たちはもう過去に郷愁を感じることができなくなってきているのです。

かつて過去は、記録されにくいがゆえに貴重なものでした。私たちの脳は時間が経つごとにあらゆるものを忘却していき、過去は薄ぼんやりとした時間の暗がりの中へと退場していくのが当たり前だったのです。だから私たちは過去に郷愁を感じることができた。郷愁とは言い換えれば、「失われていくもの」への惜別の感情なのです。

忘れられない、忘れてもらえない「苦しみ」

しかし過去は今、逆に押し付けがましくなっています。

アメリカのデータ科学者、ヴィクター・マイヤー=ショーンベルガーが過去の記録についてこんなエピソードを紹介しています。

六十代後半になるカナダの心理療法士、アンドリュー・フェルドマーは二〇〇六年のある日、住まいのあるバンクーバーからシアトルに向かっていました。友人を空港に迎えに行くためです。アメリカの国境検問所で、いつものようにパスポートを取り出して係官に見せます。これまで百回以上も通過してきたおなじみの国境検問所で、彼の動作に何も不審な点はありません。しかしこのときの係官は、ちょっと違っていました。パソコンに向かい、フェルドマーの名前を検索エンジンで調べたのです。

検索結果では、彼が二〇〇一年に書いた論文がヒットしました。その論文には、まだ若かった一九六〇年代に幻覚剤を試したことがあったということを本人が書いていました。この結果、フェルドマーは検問所に四時間も留め置かれ、指紋を採取され、四十年前に違法な薬物を摂取したことを認める書類にサインさせられ、そして挙げ句にアメリカへの以降の入国を禁止する措置がとられてしまったそうです。

フェルドマーは実際には一九七四年を最後に薬物を断ち、以降は犯罪歴もなく穏健な職業人として人生の大半を過ごしてきました。なのに検索エンジンとインターネットにアーカイブされた情報によって、忘れ去られたはずの記憶に囚われてしまったのです。

過去を記録することを私たちは重要だと思っています。しかし過去がそこに存在し続け、いつまでも閲覧できてしまうことは、必ずしも良いこととは限らないのです。

一九六五年生まれのジル・プライスというアメリカ人女性がいます。彼女は八歳ごろからの自分の日々の生活の記憶を、すべて動画に撮影して保存したかのように覚えています。彼女はこう書いています。

「あなたは子どものときからくる日もくる日も誰かに後をつけ回され、ビデオカメラで撮られ続けている。その映像が、時系列ではなく、すべてアトランダムにつなぎ合わされ、DVDプレーヤーから流れているのをじっと見ていなければならない。そんなことが私の脳の中では日々くり返されている」

これは病気や障害なのか、それとも特殊能力なのでしょうか。いずれにしても彼女がそれで苦しんでいるのには間違いありません。ジルは思い余って大学研究室の門を叩きます。応じたのは、カリフォルニア大学アーバイン校教授で記憶の専門家、ジェームズ・マゴー。

マゴー研究室でジルはテストを受けます。たとえば過去の日付を見せられ、そのときにどんなニュースがあったのかを答えるというもの。「一九七九年十一月五日」という日付を見せられて、彼女はその日が月曜日だったとわかります。でもその日に起きたニュースは思い出せません。マゴーはその日がイラン米大使館人質事件の起きた日だったと説明すると、ジルは即座に「いいえ、その事件が起きたのは前日の十一月四日です」と主張し、マゴーが調べ直すとジルの記憶のほうが正確だったそうです。

あらゆる日付のできごとをジルは考えることもなく即答します。すべてがコンピュータのメモリのように整然と記録されていて、ただ瞬時に取り出すだけという感覚なのです。彼女の頭の中では、過去は忘却の彼方に沈んでいきません。だから彼女は苦しむのです。「困ったことには、その情景の一つひとつがあまりにも鮮明なので、楽しかったことも、つらかったことも、いいことも、悪いことも、記憶がよみがえるだけでなく、そのときの自分の感情も追体験することになる。当時の喜怒哀楽がそのまま乗り移ってくるのだ。だから、心を落ち着かせて生活することがとても難しい」

長い人生には良いこともあれば、思い出したくない悪いできごともあります。嫌な過去を私たちは忘れようとし、だから忘れていくことができる。しかしジルは、失敗したことや侮辱されたこと、耐え難い恥ずかしい思いをしたこともすべて鮮明に覚えているのです。悪い記憶はつねに甦ってきて、彼女を苦しめるのです。

たとえばこういう経験は、誰にでもあるのではないでしょうか? 就寝しようと布団にくるまり、ぼんやりしていると ふと昔の恥ずかしいことを思い出してしまう。

そんなときは、身悶えするぐらい消え入りたい気持ちになってしまいます。これが毎日、時々刻々、つねに突きつけられているのがジル・プライスの日常だとすれば、どれほどまでに苦しいかは想像できるでしょう。

インターネットによって過去が鮮明なまま蓄積されていくということは、このジルの苦悩がそのまま私たちにも降りかかってきているということでもあります。過去はもはや霞がかかって消え去らず、つねに押し付けがましく私たちに襲いかかってくるのです。

「中二病」という、思春期のころの自己愛たっぷりの妄想を意味する日本のインターネットスラングがあります。自分が世界を救う英雄になったり、王子に助けられる姫になったりする夢を見ていて、それをこっそりとノートの隅に書き出したりするようなことです。昔なら紙のノートは時間が経てば捨てられるか、実家の押入れの奥深くの段ボール箱にしまい込まれて、誰かに読まれることはなかったのです。たまに大掃除や引越しなどで偶然にノートを見つけてしまっても、「うっ」と呻いてすぐに箱に戻してしまえば、それですんでいました。そうすれば恥ずかしい記憶は過去に押し戻すことができたのです。

ところがSNSが普及してくると、中二病は人の目につきやすいところに放置されることになります。先に書いたようにSNSのプラットフォーム自体が終了してしまうこともあれば、改変されることもありますが、しかし同時にいつまでも保管され、人の目に触れるところに放置されている可能性だってあるのです。

ミクシィという日本独自のSNSがあります。二〇〇四年に開始し、二〇〇七年ごろに最盛期を迎えました。一時は日本のSNSの中心地だったのですが、その後アメリカのツイッターやフェイスブックが日本でも広まると、あまり使われなくなってしまいました。

しかしこのSNSは消滅しておらず、二〇一九年現在もすべての投稿が保管されています。SNSとしては衰退しましたが、運営会社がその後ゲーム開発でヒットを飛ばしたことから、余力で運営を続けられているのです。

さて二〇一九年にログインしてみると、ミクシィの中には驚くべき光景が広がっていました。二〇〇八年ごろの私の生活が、まるで冷蔵庫の中で冷凍されたまま忘れ去られた古い鶏肉のように置かれているのです。最後に日記を書いたのは十年以上も前の二〇〇八年十一月十三日で、九州に仕事で出かけたときのことが書かれています。そのころに自分が考えていたことや感情がそっくりそのまま残っていることに、郷愁ではなく多少の恥ずかしさを感じたのは、それが色あせずに鮮明なまま目に入ってきたからかもしれません。

日記を閉じて見渡してみると、大半の友人たちはすでにこの地を去り、彼らの過去だけが保管されています。彼らの鮮明だけれど古い日記を読み漁っているうち、友人の一人が現在も日記を書き続けているのを見つけました。まるで荒野を放浪した果てに、囲炉裏に火を灯した旧友の家にたどり着いたような趣きです。

SNSが世界に登場してきたのは二〇〇〇年代なかばで、歴史はとても浅く、私たちの過去はせいぜい十年分ぐらいしか保管されていません。しかし未来にはどうなるでしょうか。SNSのプラットフォームが消滅しない限り、いつまでも残り続けるのです。今中学生の子どもたちが恥ずかしい「中二病」の妄想をどこかのS N Sに書きつづり、書いたことさえ忘れ去り、でもプラットフォームはそのまま存続し、長じて四十歳になったころにふと見つけ出す。そういうことが起きてくるでしょう。SNSに限らず、電子メールやメッセンジャーのアーカイブでも同じことは起きてきます。

私たちはつねに過去を抽象化し、同時にそれらを美化する。でもインターネットのアーカイブは、決して美化してくれない。先ほど紹介したデータ科学者のショーンベルガーは、メールで過去の感情が喚起されてしまう可能性を指摘しています。

たとえば一人の女性が、昔の恋人にばったり出会ったとします。

軽くカフェに誘われて、久しぶりに話してみたら、意気投合しました。「彼ってこんないい人だったんだ」と思い、「あのとき別れなきゃよかった」とも感じ、焼けぼっくいに火が付きそうです。彼女は楽しかった交際時代を思い返し、「そういえば昔、一緒によく行った店があの街にあったなあ。あの店なんだっけなあ」と追憶に浸ります。「そうだ、昔の電子メールを見れば、彼とのやりとりで店の名前を書いているはず」

そうして彼女はメッセンジャーを検索し、そして彼とのやりとりを発見し、店の名前も無事に判明し……そこまではよかったのですが、見つけたのはそれだけではありませんでした。別れる直前に、どんなにひどいやりとりがあり、彼から何を言われたのか。それらを読んでいるうちに、彼の言葉に自分がどれだけ傷ついたのかを、そのときに巻き起こった怒りや悲しみまでを含めて鮮明に思い出してしまったのです。

「そうだ、そうだった……。やっぱりよりを戻すことはできない」

過去は「デジタルコラージュの寄せ集め」

忘却は、私たちが摩擦なく生きていくためには重要な要素です。あらゆるものが鮮明にアーカイブされたことで私たちは郷愁を失いつつあるだけでなく、忘却による過去の美化さえできなくなってきているのです。

インターネットから押し寄せてくる過去のアーカイブは、私たちが忘却とともに美化し、記憶していると信じている「過去」とは異なるものです。あまりにも大きくずれると、私たちが私たち自身の記憶を信頼できなくなってしまうということも起きるでしょう。

これに加えて、先に書いたような過去の改変や消滅の可能性を考えれば、いったい何が本当だったのかをもはや確かめる術さえなくなっていくかもしれません。

インターネットが記録しているのは、第二世代プラットフォームが保管しているSNSやメール、メッセンジャー、ブログなどのアーカイブだけではありません。ウィキペディアやさまざまなニュースサイト、検索エンジンの検索結果、無名のまとめサイトに勝手に収録された発言、SNSで知らないうちに誰かにタグづけされた断片、誰かからの名指しの賞賛や非難、企業の公式サイトで紹介された従業員としての仕事ぶり、大学の卒業論文のタイトル、高校の部活動の記録……。

ある一人の個人についてのネットの情報は、さまざまな側面が無秩序に集められ、時間の前後ははっきりせず、体系だっていません。こうした断片的な情報が大量に存在する状況を、前述のショーンベルガーは「デジタルコラージュ」と呼んでいます。断片的なデジタルデータの寄せ集めということです。デジタルコラージュの確からしさはまったく保証されず、しかも寄せ集めたものをかき集めたとしても、一人の個人の統一した全体像になるわけでもない。そういう乱雑なデジタルコラージュによって過去が構成され、決して美化できないという時代に、私たちは生きているのです。

くり返します。かつて過去はとても貴重で大切なものでした。私たちは過去を記録するために文明を興し、記録のテクノロジーを進歩させてきました。しかしその過去は今、変容しようとしています。

過去は色あせなくなり、いつまでも鮮明なまま保存され続ける。

しかし過去は、いつ改変されるか誰にも予測できず、つねにデジタルコラージュの寄せ集めでしかないという不安定な状態に置かれている。

そういう過去が世界にあふれかえり、私たちは郷愁を感じることができなくなっている。

それどころか、ときに強制的に押し付けがましく配信されてくる過去によって、私たちは忘れることさえできなくなっている。

過去は、そういう厄介なものへと変わりつつあるのです。

(第二章以降は、書籍でお楽しみください! Kindle版も発売しています)



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