2010年代のロングトレイルのブームが、登山の形態を変えた 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.838
特集1 2010年代のロングトレイルのブームが、登山の形態を変えた
〜〜〜登山というアウトドア遊びを再定義する試み(3)
そもそも、登山者はなぜ山頂を目指すのでしょうか。「そこに山があるからだ」はだれもが知っている登山家ジョージ・マロリーの有名な発言ですが、マロリーは1920年代に未踏だったエベレストの初登頂をなぜ目指すのか、と聞かれて「そこに未踏の世界最高峰があるからだ」という意味で答えただけです。未踏峰などもはやどこにもない日本国内で、しかもそこらへんの誰でも登れる山頂に行くのに「そこに山があるからだ」は大げさ以上の何ものでもありません。
山頂は見晴らしが良く、気持ち良いという理由もあるでしょう。しかし見晴らしが良く気持ち良いのは、山頂だけではありません。広大な草原や湿原を歩けば、そこらの山頂以上に見晴らしが良く気持ち良いこともあるのです。
山頂に立つことの達成感を言う人もいます。しかし山頂にいかないと達成感が味わえないというのは、単なる誤解です。平坦なコースであっても、野原をめぐり山道を歩き、ゴールに設定していた地点に到達すれば、じゅうぶんな達成感があるというのがわたしの実感です。
2010年代後半になって、わたしはそんなことを個人的に考えるようになっていました。そしてちょうどこのころ、登山の世界でも大きなムーブメントが起きていました。ロングトレイルという新しい山旅の潮流です。
知らない人のために説明しておくと、ロングトレイルというのは、長距離をひたすら歩く旅のことです。ときどき間違えている人がいますが、山道を走るトレイルランとはまったく別物。日本ロングトレイル協会の公式サイトには、こう説明されています。
「ロングトレイルとは、『歩く旅』を楽しむために造られた道のことです。登頂を目的とする登山とは異なり、登山道やハイキング道、自然散策路、里山のあぜ道、ときには車道などを歩きながら、その地域の自然や歴史、文化に触れることができるのがロングトレイルです」
この旅の形態が日本で注目されるようになったのは、先駆者として知られる故加藤則芳さんが2011年に「ロングトレイルという冒険 『歩く旅』こそぼくの人生」(技術評論社)という本を出したあたりからでしょう。加藤さんはアメリカの代表的なロングトレイルのコース、ジョンミューアトレイルやアパラチアントレイルを踏破した人です。加藤さんの書籍や活動が原動力となって、日本でも各地にロングトレイルのコースが作られるようになったのです。たいへんな功績者でしたが、惜しくも2013年に病没されています。
わたしは2010年代半ばから、ロングトレイルに足を伸ばすようになりました。最初に歩いたのは、八ヶ岳山麓スーパートレイルでした。標高3000メートル近い名峰八ヶ岳の山頂にはいっさい近寄らず、標高1000メートルぐらいの山麓をぐるりと一周するというコースです。森の中の山道や林道、舗装道、ときに牧場の中の道などを組み合わせて、八ヶ岳周辺の日本離れした高原の景色を思う存分楽しめるように設定されています。ロングトレイルコースの全行程を一気に歩くことをスルーハイクと呼びますが、八ヶ岳山麓スーパートレイルのスルーハイクは1週間以上かかるのです。そんなに休みが取れないので、7回ぐらいに分けて日帰りで通い、歩き通しました。このように分けて歩くのを、ロングトレイルではセクションハイクといいます。
登山じゃない山歩きが面白くて、国内のあちこちのロングトレイルを歩くようになりました。長野・松本から新潟・糸魚川まで古い街道をたどる塩の道トレイル。北海道の中標津から摩周湖までを歩く北根室ランチウェイ。東信州の高原をめぐる浅間八ヶ岳パノラマトレイル。青森から福島までの東北太平洋岸をつらぬくみちのく潮風トレイルは全長1000キロもあってさすがに全部は歩けないので、ときおり雨が降る晩夏に青森から岩手までを歩きました。ここはわたしにとってはまだ道の途上です。
全長1700キロとさらに長大な東海自然歩道は東京と大阪を結ぶ昭和の時代からのトレイルですが、これも全部踏破はまだ夢の目標で、東京から静岡の途中までしかセクションハイクしていません。
このようにいくつかのロングトレイルを歩いてみて、歩き通したときの達成感は凄まじいと感じました。北根室ランチウェイの多くは、北海道でよく見る「地平線まで続く道」をひたすら歩きます。地平線まで続く道は、眺めている分には楽しく感動的ですが、実際に地平線まで歩いていると本当に気が滅入ります。どこまでも歩いても、どこまでも歩いても、ちっとも目的地が見えてこないのですから。砂利道だろうが舗装道だろうが、延々と歩いていると脚の筋肉は硬直し、何も感じなくなっていく。歩いているときはただ無感動の中にいる感じです。
だからこそ、その日の目的地に到着したときには、心の底からほっとし大きな感動がありました。しかしこれはしょせんは「達成快感」だとも感じました。それは決して過程そのものの快感ではないのです。そこまで長距離を歩かなくても、もっと気楽に「過程快感」を味わえれば、それで十分なのではないか。ロングトレイルは素晴らしいコースばかりだったというものの、同時にそんなことも考えるようになったのです。
強く意識していたわけではありませんでしたが、月に一度の山仲間との山行計画にもロングトレイルコースを少しずつ導入するようになりました。ロングトレイルコースのうちのわずか四〜五時間分ぐらいを切り出して歩くのです。それはスルーハイクができないからセクションハイクに分けて歩くということではありません。完歩を目指してセクションハイクをするのではなく、完歩など考えずに気持ち良いところだけを切り出す邪道のセクションハイクだと言えます。
この「邪道のセクションハイク」へと進んだのは、わたしたちがやっていた山行のグループ特有の背景事情もありました。メンバー全員で訓練を積んでいく組織登山ではないので、登山経験や体力は揃っておらずばらばら。だから計画を立てる場合には、最も体力がなく登山経験が乏しい人に合わせるしかないのです。おまけに当日になってみないと、誰が参加するのかもわからない。そうなると自然な流れとして「ハードでなく、危険な岩場や滑落しやすい斜面などがなく、誰でも気軽に歩ける」というコースを選ばざるを得ません。しかしこの制限をまともに遂行しようとすると、深山なんかに行かずに都会の道を散歩してろ、ということになってしまいます。
そこで折衷として、深山ではあるけれども、なるべく平坦で危険のない山道や林道などを歩こうということになる。おお、それはまさにロングトレイルのコースではないか、という論理的な帰結だったのです。
先に紹介した八ヶ岳山麓スーパートレイルで言えば、過去にわたしがセクションハイクをして歩き通したコースの中から、気持ち良いエリアを切り出して歩いたりしました。たとえばJR小海線の野辺山駅から高原のレタス畑が広がる車道を歩き、八ヶ岳山麓の森の中を抜けて、清里駅に出るコース。あるいは清里駅から飯盛山をめぐるコース。いずれも4〜5時間ぐらいで歩けるセクションハイクですが、日帰りのフラット登山には最適なコースでした。
とはいえロングトレイルのコースは日本ではまだ少なく、また東北や九州、関西など首都圏から遠いコースも多いので、毎月の山行に利用しようとすると足りなくなってきます。そこで環境省が整備している「長距離自然歩道」も利用させてもらうことにしました。この長距離自然歩道では、先ほども書いたように日本の最古のロングトレイルコースとも言われている東海自然歩道が有名です。しかしこれだけではありません。
首都圏には東京、千葉、茨城、群馬、栃木、神奈川にまで大きく展開されている「関東ふれあいの道」という長大な自然歩道もあります。国から予算が出ていることもあってどこも標識などがきちんと立てられ、きれいに整備されているのですが、実際に足を踏み入れてみると、歩いている人は滅多に見ない。実にもったいない話です。
こうしていまや、山頂などにはほとんど目も向けず、仮に山頂に達することがあってもそれは単なる通過点として位置づけ、ただひたすら楽しく歩いていくという日帰りの山歩きを新たな遊びとしてわたしは捉えるようになりました。これが最近わたしが「フラット登山」として位置づけているものなのです。
(了)
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