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「思いもよらないものを二つ接続させる」という外れ値的発想 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.773

特集「思いもよらないものを二つ接続させる」という外れ値的発想〜〜〜SNS時代の「日本語の作文技術」について考える(第7回)


AI時代にも生き残る文章とはどのようなものか。それはAIにも書けるような優等生的、中央値的な文章ではなく、外れ値であるとわたしは考えています。そして、ただ外れ値であるだけでもいけない。それは単なる「極端な意見」でしかありません。外れ値だけれども、読んだ人に「うーむ」と思わせる説得力を持たせる必要があります。


この「説得力のある外れ値」を、どのようにして生み出すのか。さまざまな方法があると思いますが、わたしは「思いもよらないものを二つ接続させる」という方法を提案しています。


前回に続いて、わたしの過去の原稿を題材にして解説していきたいと思います。数年前にとある紙メディアに寄稿した「都市はコンピューターではない。インターネットだ」という原稿です。


 都市をコンピューターになぞらえる考え方は昔から非常に多い。パソコンを自作した経験のある人ならすぐに理解できると思うが、コンピューターはCPUやメモリ、ストレージなど明確に役割分担されたいくつかの部品から構成されている。

 同じように、都市にも公共施設や道路、上下水道、公園などさまざまな機能があり、これらをうまく配置し最適化することが都市を効率化することになるというのが、都市コンピューター論の考え方であり、近年よく話題にのぼる「スマートシティ」もこの考えに沿っている。たとえばグーグルの関連会社であるサイドウォーク・ラボがカナダ・トロントでのスマートシティ計画を実際に行ったケースや、最近だとトヨタ自動車が富士山麓に建設しようとしているウーブン・シティもスマートシティのひとつである。

 こうした動きに対して、米ニュースクール大教授で人類学者のシャノン・マターンが最近「都市はコンピューターではない」(未邦訳)という本で批判している。都市をコンピューターになぞらえるのは、危険な発想だというのである。そもそも都市の意味は、そのように役割分担された機能の集積ではないし、住民のプライバシーも含めあらゆるデータを集約して制御するという方向性もあやういというのである。

 背景には、近年アメリカで強まっているフェイスブックやグーグルなどビッグテック企業への批判がある。個人のあらゆるデータを集積させてビジネスを行う手法は「監視資本主義」とも呼ばれ、社会問題化している。

 実際、トロントでのグーグルのスマートシティ計画は、集められるデータの扱いに対する住民の不信感が大きくなり、頓挫する結末に終わっている。

 では、都市の良き未来像とはどのようなものなのだろうか。スマートシティではないのだとしたら、われわれはどのようなビジョンを描けばいいのだろうか。

 私は、都市のあるべき姿はインターネットのようなものだと考えている。ネットは玉石混淆で乱雑で、中には目にしたくないような不潔で薄汚いものや、犯罪や不正行為の温床もある。しかしいっぽうで、そういう泥水のすそ野からはさまざまな才能が登場し、それらの才能がさまざまな場で交流したり、衝突したりして、また新たな才能や作品を出現させている。混沌から新しい文化や産業やイノベーションが生まれてきているのだ。

 建築家の故黒川紀章氏もかつて、このような都市の未来像を描いていた。黒川氏はもうすぐ解体される東京・汐留の中銀カプセルタワーホテルなどで知られ、大阪に最初にできたカプセルホテルのアイデアを発案したことでも有名。彼は未来の社会では、人びとが住まいのカプセルごと移動することによって、新たな移動社会になっていくというビジョンを提示していた。黒川氏はこう書いている。

「『個』が移動し、出会い、接触することで、異質な個性と価値基準が衝突し、あるいは影響を受けながら、(中略)異質なものや敵対するものを取り込む柔軟性、機能を固定させないタイム・シェアリングの発送、旅の思想、混沌とした存在や中間領域のあいまいさをすくいあげていくことである」(著書『ノマドの時代』より)

 まさにこれが、コンピューターではない理想的な都市のビジョンではないだろうか。


この原稿でぶつけている「思いもよらない二つのもの」は、インターネットと建築家の黒川紀章さんです。黒川さんは1934年生まれの建築家。日本で始めてカプセルホテルを設計したことや、しばらく前に惜しくも解体された東京・汐留の中銀カプセルタワービルで有名です。亡くなられたのは2007年なのでインターネットは当然ご存じだったとは思いますが、ウェブ2.0の盛り上がりやそれ以降のSNSの隆盛、ビッグテックの台頭などは黒川さんの没後の潮流です。そして自動運転やメタバースが、2020年代に実現に踏み出したことも。


しかし黒川さんは1960年代から80年代にかけて、いずれ移動の時代がやってくることを予言していました。1969年に『ホモ・モーベンス』(中公新書)、さらにその20年後の1989年には『新遊牧騎馬民族 ノマドの時代』という、そのものずばりのタイトルの書籍を刊行しているのです。


『ホモ・モーベンス』が書かれたのは、高度経済成長時代。東名高速道路が開通し、モータリゼーションがやってきて、多くの人たちが自家用車で移動するようになりました。さらには東海道新幹線の開通や航空便の普及によって、ますます人々は日本国内を移動するようになっていきます。それまで、旅行というのは人生の一大事だったのが、みんなが手軽に社員旅行や家族旅行に出かけるようになったのも、この時代のことです。


こうした光景を見て、黒川さんは「動くということが、人生の目的になっていくような新しい人間が生まれてきている」と感じ、「動民」という意味でホモ・モーベンスという言葉をつくったのです。


彼はこんな未来を夢想していました。人々はもう土地や大邸宅のような不動産を欲しなくなり、自分が求めるさまざまな価値を探して、より自由に動ける手段と機会を持つことに生き甲斐を感じるようになるのではないか。そうした人たちは社会の中でも、あるいは自分のこころの内面でも、あらゆる古くさい考え方や旧態依然とした体制に反抗して、つねに新しい未来に向かって「動こう」としていくのではないか――。


黒川さんはその考え方にもとづいて、カプセルが積み重なったような不思議な構造の中銀カプセルタワービルを設計したのです。このビルは4畳半ほどの部屋にユニットバスがついただけの小型のカプセルが、エレベータがある中央のシャフトに直接ボルト付けされているという構造で、それぞれのカプセルは取り外しが可能という狙いでした(実際には設計ミスで取り外しは不可能だったようです)。


わたしは自動運転やメタバースが実用化される未来には、黒川さんが夢想したような「移動の時代」がやってくると考え、黒川さんの過去の著作を何度となく参照しています。そしてそれらの本の中で、未来の都市のありようについてもさまざまに言及されていることを知り、それらもわたしの知識として以前から蓄積されていました。


そして最近になって、先ほどの原稿で言及しているシャノン・マターンの「都市はコンピューターではない」という書籍に触れることになります。最初にこの本のことを知ったのは、テック系メディア「ワイアード」の記事でした。


これを読んで興味を持ち、邦訳は出ていなかったので英語版をKindleで購入して読了しました。そしてこの本で書かれていることが、かつての黒川紀章さんの論考に共通するものがあると感じ、二つを結びつけた原稿を書いたのです。


上記の原稿は、次のような構成になっています。


(1) 都市はよくコンピューターに例えられるが、人類学者マターンはそれを否定している。

(2) 都市はコンピューターではなくインターネットではないか。

(3) それは黒川紀章が考えた移動社会のビジョンとも重なる。


(1)で、都市についてのステレオタイプの一般論と、マターンの反論というファクトを紹介しています。

(2)で、一転してわたしの「都市はインターネットではないか」という持論を展開しています。

(3)で、(2)の補強として黒川紀章さんの論考を紹介しています。


この流れを見ればおわかりだと思いますが、「序破急」の構造になっているのです。前回も解説しましたが、「思いもよらないものを二つ接続させる」というアイデアを、起承転結や序破急のようなメリハリのある構造に落とし込むと、わかりやすく、なおかつ鮮やかさがあり驚きのある文章になるのです。


この原稿では、インターネットや最近の書籍「都市はコンピューターではない」と、1960年代の黒川紀章さんの論考という「新しいもの」「古いもの」を二つ接続させています。このように現在と過去を並べて、その類似点を見つけ出すというのは、わたしがよく使う手法です。


これは電子書籍についての論考でも使いました。2010年にiPadが発売され、2012年には日本でもKindleストアが開設されて、電子書籍時代の幕開けとなりました。それとともに「電子書籍が普及したら、書籍の未来はどう変化するのか?」というテーマが立ち上がってきて、わたしもさまざまに考えました。その中でアイデアとして出てきたのが、過去の書籍の変化と対比するということ。

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