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「改革」よりも「修繕」「改修」がいまの社会には求められているのでは 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.839


特集1 「改革」よりも「修繕」「改修」がいまの社会には求められているのでは〜〜〜「メンテナンス民主主義」という方向を検討する(1)



あけましておめでとうございます。本年もメルマガ「佐々木俊尚の未来地図レポート」をよろしくお願いいたします。新年第1回からは「メンテナンス民主主義」という概念について考えていこうと思います。


これからの日本社会をどうしていくのかというのは、言うまでもなく政治の最も重要なテーマです。この話になると、いまだ2000年代前半の小泉純一郎政権が訴えた「自民党をぶっ壊す」「聖域なき構造改革」といったキャッチフレーズが印象が強すぎて、四半世紀を経た現在も日本社会の深層に刷り込まれている感があります。たとえば日本維新の会は現在も「身を切る改革」を前面に打ち出しており、公式サイトではその意味をこう説明しています。


「政治家自身が身分や待遇にこだわらず改革の先頭に立ち、既得権に切り込み政策の実現をするという維新の根幹を支える姿勢の一つです」


破壊の先に、新たな未来があるというのはわかりやすいメッセージでしょう。しかし2025年の立ち位置で考えてみると、小泉改革のころからさまざまなものを「ぶっ壊し」続けて、しかしそれで社会や経済が良くなったのか?と疑問視している人が多いのではないでしょうか。90年代のバブル崩壊から金融危機、その後のグローバル化へと続く多難な時期に、構造改革の名のもとにさかんに人員を削減し、余計なコストをカットし、と苦労し続けた結果、単に仕事も生活もきつくなっただけだった……と。


現在も困難が続いている原因は、アベノミクスの三本目の矢である構造改革が中途半端なまま終わってしまったからだ、という指摘もあります。しかしそれは、そもそも「社会や産業の構造を根底から変える」という発想そのものが本当に正しかったのか?という視点も含めて議論しなければならないでしょう。


ここで一本の補助線を引きます。わたしが本メルマガでも何度か引用したことがあるアメリカの人類学者シャノン・マターンの著書「スマートシティはなぜ失敗するのか」です。


都市論の本なのですが、後半で1章を割いて「メンテナンス」ということについて書いています。これが非常に示唆に富んでいる。引用しましょう。


”「革新」とか「新鮮」といった価値観は大衆にアピールする。少なくとも、「破壊」(トランプ元大統領の場合は「完全な破壊」)が選挙戦のスローガンやあたりまえの統治戦略となるまではそうだった。だが、私たちが学ぶべきなのは、新たに建設するのではなく、むしろ世界がどのように再建されるべきかということだ。”


”新しい医薬品やデジタル技術の出現にすべての希望を託すのではなく、日常的であり地味でありながらも本質的な作業、すなわちメンテナンス、ケア、修繕にもっと目を向けるのだ。”


そしてスティーブン・ジャクソンという人の2014年の論文「Rethinking Repair」(修繕の再考)から「目新しさや成長や進歩ではなく、摩耗、故障、崩壊を起点にする」という一節を紹介しています。


”この「壊れた世界の思考」という冷静な試みは、「安定性を維持するための継続的な活動や、遠心力に逆らって豊かで頑健な生活を送るための巧みな修繕術に対する、深い驚きと感謝」につながるものだ。”


日本では新型コロナ禍のときに、都市のインフラを維持してくれる人たちがエッセンシャルワーカーと呼ばれ、彼らへのリスペクトを持とうと呼びかけられました。マターンの指摘は、エッセンシャルワーカーの価値にもつながってくるでしょう。彼女はメンテナンスをする人たち「メンテナー(maintainer)」と位置づけ、その価値を再評価すべきだと訴えています。


同書では、「都市は人類最高の発明である」(これまた素晴らしい名著!)のエドワード・グレイザーのことばも紹介されています。「新しいプロジェクトは派手に報道されるが、学校の冷暖房空調設備 のメンテナンスにはあまり関心をもたれない。こっちのほうが社会的には価値があっても」


そう、メンテナンスは地味なのです。日本語で言えば「保守運用」や「修繕」ということになるのでしょうが、派手な活躍はまったく期待されていません。問題なく運用していても誉められることはなく、逆に少しでもトラブルが起きると必ず非難される。減点主義の仕事なのです。


これに対して「破壊」や「創造」は、100をゼロにしたりゼロを100にしたりとダイナミックであり、目立ちやすい。減点主義ではなくその行動への加点主義であり、ヒロイックな気分にも浸りやすいという感情的なメリットもあります。


先ごろ、韓国で大統領が突如として戒厳令を布告し、与野党の国会議員の阻止に向けた動きや、国軍が動かなかったこともあって、わずか6時間で解除に追い込まれたという事件がありました。この事件に対して日本の左派の人たちからは「韓国の民主主義は素晴らしく機能している。日本とは大違いだ」といった声が上がり、多くの人を驚かされました。たしかに事実上のクーデターである戒厳令を阻止したのは立派な行為ですが、そもそも戦争などの非常時でもないのに大統領が戒厳令を発布してしまったことが問題の根幹です。


これを「民主主義が機能している」と見えてしまう背景には、韓国の政治の振り幅が大きいことがあるのではないかとわたしは捉えています。韓国では政権が変わるごとに政策が大きく変わり、持続性が求められる外交でさえも政権によって大きく変更されます。新聞社さえも政権交代によって編集幹部が一新するという話も聞いたことがあります。とにかく振り幅が大きい。


しかし振り幅が大きいということは、右から左へ、左から右へと変化するそのありさまが、実にダイナミックに見えるということでもある。そのダイナミックさが、「すばらしく民主主義が機能している」と見えやすいということがあるのでしょう。いっぽうで日本は過去2回の政権交代でも、政策はそれほど大きくは変化していません。官僚制度が高度に複雑化していてそもそも変えにくいという構造的な問題もありますが、それだけでなく、日本では政策の持続性がやはり求められているということがあるのからです。


しかしこれは外形的には「政権交代しても大して変わらない」と見えてしまう。「だれが首相になっても同じだ」というのはよく見かけるステレオタイプですが、見方を変えれば日本は「首相を変えても政治の持続性を求める」という国とも言えます。


つまり日本はダイナミックさよりも、細かい修繕や運用が政治に求められる。そう、メンテナンス的なのです。


(次号に続く)

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