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洗濯物を胸に留めると、ほんの少しだけやさしくなれる

最近またフラッシュバックが起きて、それ以降、昔の記憶がポンと顔を出すことがある。今日もまた1つ、会社員時代の記憶がよみがえってきた。

目をつけられている上司に嫌味を言われることが続いて、あまりに悔しくて、同じ会社の先輩に話を聞いてもらったときのことだ。その先輩はいつも穏やかでやさしくて、わたしの話も「うん、うん、わかるよ」とよく聞いてくれた。

ひととおり話を聞き終わると、その先輩は「でもね、あの人に良いところはあるのよ たとえばあの人にも生まれたての赤ちゃんだったときがあって、そう考えると、少しだけやさしい気持ちになれる気がしない?」と言った。

彼女の言っていることはわからなくもなかったけれど、怒り心頭炸裂で気が触れそうだったわたしは「言っていることはわかりますけど、全然許したい気持ちじゃないです!」と、うわんうわん泣いて、彼女を困らせてしまったのだった。

わたしは人の好き嫌いが激しくて、一度「嫌だな」と思ってしまった記憶がこびりついて離れないばかりに年を追うごとに丸くなるどころか嫌いな人は増えていく一方だし、嫌いの感情が延々、身体じゅうを巡り巡って自家中毒を起こしそうなほどで、そう簡単に人を許すことができない。

ましてや脂ギッシュなおじさんの顔を見ながら、まだ小さくて頼りなくて無垢な赤子だったころを想像してみてと言われても、そんな子の数十年後はやっぱり脂ギッシュで頑固で嫌味を言うおじさんなわけで、やさしい気持ちになんかなれないのだった。

ただ、彼女の言いたいこともわかると言ったのは、わたしの中にも似たような感覚があったからだ。それは、その人の「生活」を想ったときのことだっだ。

買ってきた弁当を1人で食べているとき、あるいはたまの自炊をしているとき、湯船に浸かって物思いにふけっているときや、あるいは時間がなくて軽いシャワーで済ませて仕事を再開しているかもしれないし、と、想像すればするほど、相手も痛覚を持った1人の人間なのだと思えて、不思議とほんの少しだけ冷静になれる気がする。

生活といっても、ご飯を食べたりお風呂に入ったり、掃除、眠るだとかといろいろだけど、そのうち唯一、わたしたちが外から実際に見られるもの、それは洗濯物だと思う。

2013年、まだ学生のころに「世界洗濯物写真展」というものを開いた。学生の半分以上が留学するような国際系の学科にいたわたしは、世界各国に散った同級生たちに、いろいろな国の洗濯物の写真を撮ってきてもらうように頼んで、拝借したものを集めて展示をした。

これはインドの洗濯物で、わたしはインドに行ったことがないにも関わらず、この写真からにじみ出るインドの人の生活に思いをはせて、まだ見ぬ彼らとの心の距離を勝手にギュッと縮めてしまった。

国によって洗濯物の干し方も異なる。たとえばこれは、シンガポールかどこか、とにかくアジアで急速に発展した国の1つなのだけど、急速に発展し、人口が爆発的に増えてしまったために、超高層マンションが乱立していること、それからバルコニーがないつくりであることから、洗濯物の風景はこんな風になっているらしい。

色とりどりのこいのぼりみたいできれいだけれど、洗濯物を干したり取り込んだりする現地の人はどうやっているんだろう、大仕事の1つなのではないかと妙に心配してしまう。直接会って話を聞いてみたいほどに、この”アジアで急速に発展した国”の人の生活にグイッと自分ごと、興味津々になった。

アフリカの(恐らくはウガンダ)の洗濯物はもっと大胆だ。吊るすという概念がなく、芝生に直置きで乾かしてあった。洋服の色味も何となくビビッドなところにも明るくて大らかなお国柄が出ている気がする。

洗濯機から取り出した洗濯物を地面に広げるだけでいいなら、家事の負担もだいぶ減りそうな気がする。だけど、この街には洗濯機というものがあるのだろうか。もしかして洗濯板を使った手洗いだとしたら、まだ日本の洗濯のほうが楽かもしれない。アフリカのお母さんたちに話を聞いてみたい。

この写真はスペインかどこかでわたしが撮ったものだけど、大きくてものものしい塀の向こうに、これまたものものしい雰囲気のアパートが建っていた。この施設が何なのかわからないけれど、塀がなくても近づきたい感じの場所ではない。

ただ、よく見ると、バルコニー越しに洗濯物が干されているのがわかる。洗濯物が干してある、すなわちそこに人が住んでいる気配を感じたとき、わたしは何だかすごく安心して、写真を撮ってしまったのだった。

***

何年か前に出会った人に、コインランドリー代がもったいないし、洗濯するのが面倒だから、コンビニで買ったシャツを1週間着倒して捨てているという人がいたけれど、そういう特殊な例でもない限り、だいたいの人の生活には洗濯物がある。洗濯物はその人が住む部屋から漏れ出た生活のアイコンだ。

誰かの洗濯物を、すなわち生活をじいっと見るのは、あんまり爽やかなものではないかもしれないけれど、そこに誰かが住んでいて、生活という営みをやっているという事実にホッとして、ほんの少しだけ心がやわらかくなる。

わたしはよく怒る。大人なのにはしたないとか何でこんなに心が狭いんだろうとか思いながら、いろんなことに怒りまくっている。

みっともないと思いながらも、自分の怒りは大切にしたくて、だけどずうっと怒りっぱなしでも疲れてしまうので、そんなとき、わたしは怒りの対象の生活を一生懸命に想像する。そうすると、同じ人間なのだと思えて、ほんの、ほんの少しだけだけど気持ちが楽になってくる。

誰かの洗濯物を胸に留めて、生活をしていきたい。

わたしは今日も、洗濯物を干した。







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