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百田尚樹現象(Newsweek)、千の顔をもつ英雄(下)、三国志の世界(ユリイカ)、孤独の意味も、女であることの味わいも

2019年第22週。5月が終わって6月に差し掛かったところ。

百田尚樹現象 / Newsweek

読後、村上春樹が麻原彰晃に抱いた(とされる)感情と近しいものが、自分の中に発生した。物語るという行為がもつ魔力に極めて自覚的で、かつ、その傲慢さに極めて鈍感。それは我が身を写す鏡のようであり、目を背けたくなる影のよう。そんなことを思った。

拙著『僕らのネクロマンシー』において、主人公は「物語るという行為によって国つくりを手伝ってほしい」という敵役からの誘いを断り、さらに、物語る言葉さえ放棄しそれによって小説が終わる、という構造をしている。物語るという行為をめぐって、僕は小説を通じてそんな態度をとった。ところがそうではない方向で、高純度でそれをやりきって、しかも大きな影響力をもっている存在を見て、奮い立つような怖気立つような感じ。

千の顔をもつ英雄(下)

先週に続いて下巻を読んだ。実にいいことが書いことが書いてある。自分が孫引きによって影響を受けてきたあれやこれやのオリジナルはこれか。

 したがって、現代に生きる人間の課題は、絶大な統合機能を持つ神話ーー現代では「作り話」とされるーーが語られていた、相対的に安定した時代を生きた人間の課題とは正反対なのである。かつて、意味はすべて集団の内部、巨大で無名のかたちの中にあり、自己表出する個人の中にはなかった。ところが現代社会では、意味は集団の内部にはなく、世界にもない。すべての意味は個人のなかにある。しかし、その意味も完全に見失われている。そのため現代人は、どこに向かって進めばよいのかわからない。自分を駆りたてるものが何なのかわからない。人間の意識と無意識の領域をつなぐ線はすべて断ち切られ、私たちは二つに分断されている。
 現代においてなされるべき英雄の偉業は、ガリレオの時代におけるそれとは異なっているかつて暗かった場所は、いまでは光がさして明るい。ところが、かつて明るかった場所は、いまでは暗い。調和する魂が住まっていた、失われたアトランティスに、再び光をともす旅に出る行為こそ、現代の英雄がなすべきことなのである。 (エピローグ 神話と社会: 3 現代の英雄)

つまり、現代の英雄がなすべきこと=物語るべきは、個人のなかにあるこだだと思って自分の場合は書いているが、そうではなく、集団の内部の歴史を書き換えることをやってのけている、そういう例もあるわけで、そこが百田尚樹を見て、奮い立つような怖気立つような感じを受けるところだよなと。

「三国志」の世界 / ユリイカ

三国志に夢中になったのはもう20〜30年前で、以来、新しい情報を仕入れていなかった。ということもあって、このように研究が進んでいるのか! と驚いた。

特に冒頭の対談「世界認識としての「三国志」 / 金文京 福嶋亮大」。広く親しまれている三国志という題材から、中国および東アジアの歴史と現代の政治まで語っていて、実におもしろかった。特に、中国台湾香港を魏呉蜀に例えるあたり、三国志読者にとって途端に理解しやすくなるものがある。
また、「呂布 「最強」への道程 / 竹内真彦」では、「正史」においてそのような描写はなかったのに、「演技」などを通じて最強を呼ばれている呂布について分析していて、その理由が「父殺し」にあるという物語論的な解釈がおもしろかった。オイディプス王の悲劇による物語の型が取り込まれていくというね。

ユリイカに載っている文章を頭っから全部読むとか、プリンスの特集以外ではやったことがない。最高の号だった

孤独の意味も、女であることの味わいも

三浦瑠麗さんの書き下ろしエッセイ。実におもしろかった。内容も、文章も。夫婦ともに読み終えて、感想を交換し合うのもおもしろかった。妻は「読んでいて『82年生まれ、キム・ジヨン』を思い出した」と言っていて、なるほどと思った。自分が読んでいるあいだは、どちらかというと、孤独に関するエピソードが強い印象をもった。ちょっとだけ抜書して、あとで思い出すよすがとする。

 それでも、私たちは離れているように見えて、それほど遠いところにいたわけではなかった。母は私の中に入ってこようとし、私は母を遠ざけていたが、それは単に二人のあいだの依存関係をめぐるすれ違いであった。私たちが煩悶している理由は似通っていた。死は誰にとっても恐ろしいことだからだ。私たちは、たぶん二人とも死が怖くて愛を求めていたのだ。大事な人を喪うことが、自分が死ぬことが怖くて。
 自立と孤独を手にしたのち、私は女を自らに見出していった。若いとは明らかに違うのだけれども、女である、ということ。鏡を見るたびに、そこに映る顔が守られている女性の顔つきではなくなってきた、と私は感じた。そこには、かつてのような全身に張りめぐらされた擬態はなかった。家庭にいったん埋没したのちに再び女となる経験は、私にとっては、守られなくても無防備なままに自然体をとれるようになっていくということだった。それは、妻や母という役割から切り離されて、自分という個人として存在することだった。

今週もがんばろう。

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