東京新聞人文書短評集成

以下はゼロ年代末(たぶん)に東京新聞で受け持った人文書の紹介欄の全テキストである。掲載は月刊で23回なので約二年担当したのだと思う。『批評王』収録を検討したが分量的に諦めたので、ここに公開する次第。

1。
「多くの人々にとって、意識は神秘だと思われている。想像可能な限り最高に素晴らしいマジック・ショーであり、説明を拒む終わりのない特殊効果の連続だというのだ。彼らは間違っていると私は思う」。
 ダニエル・C・デネットは『スウィート・ドリームズ』(土屋俊・土屋希和子訳、NTT出版・一八九〇円)で、こう挑発する。脳神経科学や心理学の最新の知見を駆使してヒトのココロとアタマとカラダの関係を解析しようとする「認知科学」「心の哲学」の第一人者である彼は、私たちの頭の中で起こっている出来事について、既に説明されたことは説明できたのだからそこに神秘はなく、まだ説明がつかないことも永遠につかないとは限らず、いつかは説明されるのかもしれないのだから、やはり神秘ではないと考える。ごく真っ当な考え方だと思うが、どういうわけか人々はー哲学者でさえも−ヒトの「意識」には、どこまでいっても解明され得ない神秘的な部分が宿っているのだと考えたがる。まるでそれこそが「人間」を特別な存在足らしめているのだとでもいうように。デネットはそんな思い込みを「甘い夢」と呼ぶ。そして「夢」の代表的なひとつとして俎上に載せられているのが、他ならぬ「クオリア」である。
 クオリアとは色彩や触感の主観的な個別性、「赤の赤らしさ」だとか「風が頬に触れるこの感じ」を指す。確かにクオリアが生起する脳内メカニズムは解明されていない。だが、とデネットは述べる。そもそも問題の立て方が間違っているのではないか。クオリアを神秘と受け取るのは、手品の素朴な観客と同じではないかと。本書は豊富な実例やユニークな思考実験によって、おそらく日本人の多くも陥っているだろう「甘い夢」から目覚める術を教えてくれる。「意識」をめぐる様々な立場にかんしては、デネットも登場するスーザン・ブラックモアのインタビュー集『「意識」を語る』(山形浩生・守岡桜訳、同前、二三一〇円)も面白い。

2。
 ジョルジュ・アガンベンは、疑いもなく、現在もっとも国際的な知名度と影響力を誇る思想家の一人である。芸術論・言語論を基盤とする博覧強記と、ミシェル・フーコーを引き継ぐアクチュアルな「政治をめぐる思考」の独創的な合体は、ハート/ネグリやジジェクと共に、世界の哲学をリードしている。日本でも、現在も継続中の「ホモ・サケル」シリーズを筆頭に、翻訳書が続々と出されており、ここ数ヶ月の間にも、ハイデガーとヘーゲルを論じた『言葉と死』(上村忠男訳、筑摩書房、三〇〇〇円)や、重要な初期論文を纏めた分厚い『思考の潜勢力』(高桑和己訳、月曜社、五二〇〇円)が刊行されている。
 だが、アガンベンの思想はけっして分かり易くはない。彼がフーコーから批判的に継承した「生政治」というテーマや、「ホモ・サケル」で提出される「剥き出しの生」なる概念は、この国では、いわゆる「ワーキング・プア問題」などに安直に繋がれて受容されている節がある。誤解を恐れずに言えば、アガンベンの哲学は、何かに対する「対抗」を喚起したり、具体的な「運動」を鼓舞してくれるようなものではない。彼が挑んでいるのは、もっと遥かに大がかりな意味での、「人間の営み」の可能性と不可能性のあいだの新たなる線引きである。この事は、ドイツの哲学者エファ・ゴイレンによる、コンパクトながら実に的確な『アガンベン入門』(岩崎稔・大澤俊朗訳、岩波書店、三四〇〇円)を読めば理解できる。深く思考すること。そして更に深く思考すること。その為に膨大な知識と、強烈な横断的思弁が動員される。たとえば、そこで問われているのは、われわれを根源的に拘束する「法」が、どうして、どのようにして生まれてくるのか、等といった、極めて原理的な、そしてそれゆえにすぐれてアクチュアルな「問題」である。
 「ホモ・サケル」の最新作『王国と栄光』(高桑和己訳、青土社、三八〇〇円)も登場した。これはもう一過性の流行ではないだろう。

3。
 スラヴォイ・ジジェクといえば、ジャック・ラカンの精神分析理論を縦横に駆使して、文化や哲学、政治までをアクロバティックに論じ捲る、トリックスターめいた現代思想のトップランナーである。一時期は驚くほどのペースで訳書が刊行されていたが、暫く音沙汰が途絶えたと思っていたら、ここへきて異様に分厚い新刊が二冊続けて届いた。 
 『パララックス・ヴュー』(山本耕一訳、作品社、六八〇〇円)は、ジジェク自身が「magnun opus(最高傑作)」と宣ったという超大作。「パララックス」とは「視差」という意味で、ジジェクが好んで用いる鍵概念のひとつ。辞書によると「観察者の位置の変化にともなって生じる観察対象の見かけの上での変容」。邦訳で六百頁もの内容を要約するのは不可能だが、本来なら交わることがないと思われている、懸け離れた概念や事象を、「視差」を「ショート=短絡」させることで強引に繋げてゆく様はジジェクならではのものだ。お馴染みの映画や文学、芸術にかんするトリヴィアルな言及のみならず、量子力学や脳科学の最新の知見を導入して自由意志を論じるなど、読みどころは多い。
 だが、インパクトにおいて勝るのは『大義を忘れるな』(中山徹、鈴木英明訳、青土社、四八〇〇円)かもしれない。資本主義と馴れ合うことも、それと結局は裏腹でしかない無力なデモンストレーションにも与することのない、今時珍しい真正の左翼であるジジェクの面目躍如たる一冊である。フランス革命、ロシア革命、中国の文化大革命、そして現在も世界で進行中の様々な出来事を走査しつつ、ジジェクはたとえば「革命的恐怖政治」を敢て肯定的に再提起してみせる。無論それは闇雲な「変革」へのアジテーションとは異なるが、それにしても過激だ。原題の「大義」は「cause」で、「原因」や「理由」も意味する。「悪しき資本主義」と本気で闘う「大義」を持とうとするのなら、先ずその「理由」を新たに掴み直せ、とジジェクは挑発する。

4。
 ミシェル・フーコーが亡くなったのは一九八四年のことだから、すでに四半世紀以上が経過している。だが彼の遺した思想のリアリティは、むしろその後の世界の進み行きの中で、刻々と増していっているように見えるし、フーコーに関する書物もコンスタントに数多く出版されている。最近も、フーコーの同僚だった歴史学者ポール・ヴェーヌによるメモワール的な評論『フーコー その人その思想』(慎改康之訳、筑摩書房、二八〇〇円)や、フーコーを“実践的に使う”ことに特化した入門書『フーコーを使う』(ギャビン・ケンダール、ゲイリー・ウィッカム著、山家泉、長坂和彦訳、論創社、三〇〇円)などが翻訳されている。
 日本におけるフーコーの最良の紹介者・翻訳者の一人である中山元による二冊が、ほぼ同時に登場した。『フーコー 思想の考古学』(新曜社、三四〇〇円)では五〇年代~六〇年代の初期、『フーコー 生権力と統治性』(河出書房新社、二八〇〇円)では七〇年代の思想が、詳細に解説されている。先行して著された、後期フーコーを扱った『賢者と羊飼いーーフーコーとパレーシア』(筑摩書房、五〇〇〇円)と併せて、中山氏のフーコー三部作が、これで出揃ったことになる。フーコーの思想の射程は驚くほどに広いが、一言でいうなら、それは「人間」の「知=思考」の臨界点を、さまざまな領域/次元で計測・画定しようとするプログラムであった。中山氏は原テクストを緻密に参照しつつ、精神医学、文学、哲学、思想史、政治学など数多くの領域を横断し、何度かの変貌を経ながらも強固に一貫したプログラムを走らせ続けた、この稀代の思想家の肖像を、精密かつ鮮やかに描き出している。
 中山氏の著書の中でも分析されている最初期のフーコーの論文も邦訳が出た。『カントの人間学』(王寺賢太訳、新潮社、二四〇〇円)は、カントが生前最後に発表した「人間学」への鋭利な注解であるとともに、フーコーの第一歩でもある。

5。
 ised(アイ・エス・イー・ディー)とは、二〇〇四年から二年間に渡り国際大学グローバル・コミュニケーション・センターで行なわれた研究会「情報社会の倫理と設計についての学際的研究」の略称である。当時、同大に所属していた東浩紀がディレクターを務め、気鋭の社会学者、情報学者、法学者、IT企業家、プログラマー、インターネット研究者などが一堂に集まって、問題提起と討議を繰り広げた。『ised 情報社会の倫理と設計[倫理篇]』『同[設計篇]』(いずれも東浩紀、濱野智史編、河出書房新社、各二八〇〇円)は、その膨大な議事録の待望の書籍化である。
 いわゆる「ゼロ年代」とは、文字通り「情報社会」化が、不可逆的かつ過剰に進んだ時代だった。ネットとケータイの蔓延と進化は、われわれの日常生活や共同体=社会との関わり、文化や芸術にかんする趣味嗜好のあり方などに、意識している以上の甚大な影響を及ぼしている。従来の「文系/理系」という二分法を踏み越えた、専門知と領域横断性を併せ持つ多士済々の顔ぶれが、ネットワークとアーキテクチャをキータームとして、加速する「情報化」が「社会」に齎す諸問題を縦横に論じてゆくさまは、きわめてスリリングであり、かつ現実的な示唆にも富んでいる。『倫理篇』で問われるネット上の「公私」や、『設計篇』で議題に上がっている「オープンソース」などは、「ゼロ年代」以前には存在さえしていなかった「新しい問題」だと言えるが、同時にそこには「日本人」という、そして「人間」という「社会的動物」への根源的な問いかけが常に潜在している。「新しい問題」とは「古い問題」でもある。この暗黙の了解が、ised終了後、およそ四年という時を経ての今回の書籍化に、肯定的なアリバイを与えている。
 TwitterやUSTREAMを論じた座談会が新たに追加されることにより、アクチュアルな目配せもしっかり出来ている。分厚いが、どこか軽やかさも感じる二分冊だ。

6。
 東西冷戦の終焉から二十年以上を経た現在、いったんは過去の遺物になったかとも思われたマルクスの思想は、グローバル金融資本主義とプレカリアートが抱える問題が全面化した結果、むしろアクチュアルさを増しているように見える。新訳も盛んで、『経済学・哲学草稿』(長谷川宏訳、光文社古典新訳文庫、六四八円)や『新訳 共産党宣言ー初版ブルクハルト版(1848年)』(的場昭弘訳、作品社、二九四〇円)などが、続々と出版されている。
 柄谷行人の『世界史の構造』(岩波書店、三五〇〇円)は、『トランスクリティーク』(岩波現代文庫、一五七五円)以来約十年ぶりとなる、久々の大著である。前著はカントとマルクスの理論を、独自の視点から交叉的に捉え直したものだったが、ここでは書名に端的に示されている通り、『トランスクリティーク』で析出された、人知の可能性と限界を共に表すものとしての認識論的な「構造」を、現実の「世界=歴史」の展開に当て嵌めて緻密に論じている。加えて二著の刊行の間に位置する、柄谷氏にとって初の新書『世界共和国へ』(岩波新書、七七七円)で提起された、未来へと向かうヴィジョンの詳解という側面も持つ。
 「資本=ネーション(共同体)=国家」という三位一体のシステムをいかにして乗り越えるか?。柄谷氏は従来の「生産様式」に代わり「交換様式」を解読格子として立てる。すると人類の社会構成体のパターンは、「A:互酬」「B:略取と再分配」「C:商品交換」と類別される。現在は「C」が袋小路に陥った状態である。ならば次なる段階としての「D」を目指すしかない。それは「交換様式Aの高次元での回復である」。柄谷氏は「D」による社会構成体を、三位一体を揚棄するものとして、ただ「X」とのみ呼ぶ。それこそが「世界共和国」である。究極的な相互扶助による理想の「世界」の実現。柄谷行人によるマルクスの「可能性の中心」の追究は、遂にここまで来た。

7。
 〈生命=いのち〉を、どのように定義するか?。生きとし生けるもの、という言い廻しがあるが、だが実際のところ、われわれはこの〈生〉というものを、どのぐらいの範囲で考えているのだろうか?
 『〈動物のいのち〉と哲学』(中川雄一訳、春秋社、二九四〇円)は、ノーベル賞作家J・M・クッツェーが、エリザベス・コステロという架空の女性小説家に託して実際に行なった講演(『動物のいのち』としてまとめられている)に端を発して、コーラ・ダイモンド、スタンリー・カヴェル、ジョン・マクダウェル、イアン・ハッキングなど、名だたる哲学者が相互に呼応しつつ論陣を張った一冊。宮崎県の牛の口蹄疫問題や、映画『ザ・コーヴ』上映を巡る騒動など、このところ〈動物のいのち〉にかんする事件が相次いでいるが、煎じ詰めれば、ヒト以外の動物の命を、ヒトがどのように捉えるべきなのか、ということになるだろう。コステロ=クッツェーは、動物の命は人間のそれと同じだと考えようとすることにさえ、人間の掬い難い欺瞞があると思い、苦悩する。食物や原料にされる動物の生=命を、人間の倫理ではかることが出来るのか、と。容易に答えの出ない難問から、哲学者たちはそれぞれの思弁を繰り広げてゆく。
 郡司ペギオー幸夫『生命壱号 おそろしく単純な生命モデル』(青土社、二五二〇円)は、まったく異なる視点を提示している。郡司氏の専門は理論生命科学。複雑系生物論の最新の実験成果を駆使しながら、本来は対立概念である筈の、存在することと生成することの両方を併せ持つ「徹底した動性」として「生命・意識」を再定義し、その具体的なモデル、その名も「生命壱号」を提案している。生きているとは要するにどういうことなのか、という問いは、これも深く考え出すと相当な難問である。どこかユーモラスな名前を持つ「生命壱号」は、人間の倫理の範疇が及ぶべくもない、〈生命=いのち〉の新たな原理を指し示している。

8。
 ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの『千のプラトー』(上巻、宇野邦一他訳、河出書房新社、一二六〇円)の文庫化が遂に開始された。なにしろ途轍もない大著なので、三分冊になるという。しかしこの二〇世紀最大の創造的思想書が、コンパクトな形で読めるようになったのは実によろこばしいことだと思う。
 哲学者ドゥルーズと精神分析家ガタリは、いずれもすでに亡くなっているが、二人がそれぞれに、そしてドゥルーズ=ガタリという二人組として発表した仕事の意義は、いまだ汲み尽くされてはいない。『千のプラトー』は先に文庫になっている『アンチ・オイディプス』とともに「資本主義と分裂症」という二部作を構成する。なるほど確かに、二人の主たる標的はマルクスとフロイトであるかに見える。二〇世紀を代表する思想的達成である資本論と精神分析を、二つ一緒に掴まえて、まったく新しいレシピで料理してみせること。だが、そのレシピたるやユニークこの上ない。『千のプラトー』の冒頭に置かれた名高い「リゾーム」を読んでみよう。独立した作品として発表されたこともあるこの序章は、「リゾーム=根茎」という具体的かつ抽象的なイマージュ(=イメージ)を鍵として、音楽や文学といった芸術諸分野、そして自然科学における知見を高速度で横断しつつ、ドゥルーズ=ガタリがこの本で目指す「ポップ分析」の姿を鮮やかに提示している。その圧倒的な斬新さは、執筆時から三十余年、邦訳刊行時から十五年以上が経過した現在もなお、まるで色あせてはいない。
『ドゥルーズとガタリ 交差的評伝』(F・ドス、杉山昌昭訳、河出書房新社、七二四五円)、『アンチ・オイディプス草稿』(ガタリ、國分功一郎、千葉雅也訳、みすず書房、六〇九〇円)、『ドゥルーズと創造の哲学』(P・ホルワード、松本潤一郎訳、青土社、三五七〇円)など、参考文献も数多く出版されている。ドゥルーズ=ガタリの時代は、これからかもしれない。

9。
 大澤真幸の新著が立て続けに出版された。大澤氏といえば、本来の専門である理論社会学の領域に留まらず、文化・芸術諸分野や自然科学までを広く射程に収めた極めて巨大なスケールで、この世界のありように鋭くメスを入れてきた博覧強記の思想家である。現在は月刊誌「THINKING[O]」を主宰し、さまざまなジャンルの知識人と毎号刺激的な対談を繰り広げてもいる。
 『量子の社会哲学ー革命は過去を救うと猫が言う』(講談社、二三一〇円)は、『ナショナリズムの由来』や『自由の条件』など、過去の大がかりな理論的著作の流れを組む、まさに大澤氏にしか書けないユニークな書物である。奇妙な題名、それ以上に奇妙な副題が付けられているが、内容は文字通り、物理学の最先端である「量子力学」と、今日ありうべき「社会思想」とのアクロバティックな融合を試みたものとなっている。
 ニュートンによる万有引力の発見に代表される一七世紀の「科学革命」に続く、二〇世紀初頭の「第二の科学革命」は、相対性理論や量子論の発見に依るものである。科学的な知見の革命的な変容は、必然的に同時代の世界認識=芸術に有形無形の影響を及ぼす。また同時に、科学革命は社会・世界そのものの「革命」の可能性をも起動することになる。大澤氏は美術史、神学、マルクス主義、精神分析、探偵小説など、驚嘆すべき領域横断的知識を総動員して、スリリングな論議を展開してゆく。硬質な思想書であるとともに、一種の知的エンタテインメントとしても読める一冊である。
 もう一冊、二つの講演を基にした『生きるための自由論』(河出ブックス、一二六〇円)は、脳科学の世界では有名な「心脳問題」を梃子に「自由(意志)」の問題を論じた前半、イデオロギーとしての「自由主義(=リベラリズム)」を多角的に再検討した後半と、『自由の条件』を受け継いだ内容。コンパクトな本だが、議論の濃密さと明快さはこの著者ならではである。

10。
 相次いで、注目の新進思想家・批評家二人の新刊が刊行されたので紹介したい。まず佐々木中の『切りとれ、あの祈る手を』(河出書房新社、二一〇〇円)。佐々木は元々は理論宗教学を専攻とする研究者だが、二〇〇八年、ミシェル・フーコー、ジャック・ラカン、ピエール・ルジャンドルを縦横に論じた圧倒的な大著『夜戦と永遠』によって一躍脚光を浴びた。学術書らしからぬ異形の魅力を持った文体と、従来の視点を打ち破る野心的な論旨は、日本の現代思想の流れにひとりの新たな才能が降臨したことを鮮やかに告げていた。それに続く今度の本は語り下ろし。ヒップホップに造詣の深い(彼の普段のルックスはまるでBボーイだ)佐々木ならではのグルーヴとテンションで、五夜にわたって「文学」と「芸術」と「革命」を論じていく。情報とマーケットに踊り/踊らされる昨今の思想の風潮に敢然と挑戦する舌鋒は鋭く、深く、強い。
 もうひとり、大澤信亮の『神的批評』(新潮社、二一〇〇円)。大澤は福田和也、大塚英志の近傍から登場した批評家で(大塚とは共著もある)、近年は有限責任事業組合「フリーターズフリー」の活動でも知られていた。文芸評論家としては、「宮澤賢治の暴力」が雑誌「新潮」の新人賞評論部門を受賞し本格的にデビュー、これを含む四つの長めの論考を収めたのが初の単著となった本書である。論じられているのは宮澤賢治の他、柄谷行人、柳田國男、そして北大路魯山人。いずれも文献を集中的に読み込んだ上で、批評対象がある時、ある局面で、何故そのような振る舞いをせねばならなかったのかを厳しく問いかけ、そしてその問いを自らの側へと反転させる。この点で大澤は、あの小林秀雄の系譜に連なる書き手というべきだろう。魯山人を文芸評論の俎上にあげるユニークさも興味深い。
 佐々木は七三年、大澤は七六年生まれ。若いとは言えないかもしれないが、いずれも今後、更なる新風を吹かせてくれることだろう。

11。
 正確なデータがあるわけではないが、いわゆる「日本論」は、色々な意味で国力が衰えてくると、数多く出版される印象がある。元気のなくなった国家イメージを、どこかで補強しようとする無意識が働くからかもしれない。
 もちろん「日本論」とはいっても、その内容は様々である。内田樹と高橋源一郎という人気者二人の連続対談を収めた『沈む日本を愛せますか?』(ロッキング・オン、一五七五円)は、二〇〇九年春から二〇一〇年夏という、日本の政治が激動を経験した約一年の間に為されたものである。かねがねこのお二人は「誰もが首肯し得るリベラルな正論を絶妙にヒネって述べる類いまれな才能」の持主だと思っているのだが、ダブルになると更に強力だ。
 クラシック音楽批評の分野で風雲児と目されている片山杜秀の『ゴジラと日の丸』(文藝春秋、二八三五円)は、かつて週刊誌に長年連載していた「ヤブを睨む」という時評コラムの集大成である。時代は遡って一九九一年から二〇〇二年まで、つまりおおよそ「九〇年代」を通しての日本社会のドラスティックな変化を、氏ならではのヤブ睨みで斬ってみせたものになっている。芸術文化やサブカルチャーのマニアックなネタが多いが、重厚な博識に下支えされたウィットに富んだ語り口は、いわゆるおたくの蘊蓄とは完全に一線を画している。あくまでもミクロな視点に徹した、ユニークな現代日本論である。
 金杭の『帝国日本の閾』(岩波書店、三三六〇円)は、東京大学大学院に提出された博士論文を元にした、気鋭の韓国人学者の第一作である。理不尽な死に直面させられた「豚ー人間」が「セキュリティ」の砦として「帝国=国家」を要請するというロジックを出発点に、丸山眞男や小林秀雄の思想を大胆に読み替えてゆく。「日本人であること」を「日本人」が問うことに潜む背理と矛盾を緻密な考証によってじわじわと描き出してゆく論旨展開は、きわめて問題提起的である。

12。
 日本においては哲学と思想は似て非なるものというか、どこかに一線が引かれている感がある。思想は一般的になりうるが、哲学は専門的で難しい、という印象があるからだろうか。だが哲学は思想の根源である。腰を据えてじっくりと向き合ってみれば、本物の哲学者の言葉はけっして難解なものではなく、誰にでも訴えかける真摯な内容を備えていることがわかるだろう。
 たとえばジャック・デリダやジル・ドゥルーズなどの翻訳も手がけている國分功一郎が、最初の著書として刊行した『スピノザの方法』(みすず書房、五六七〇円)は、十七世紀オランダの哲学者スピノザを扱っている。國分は原著とその翻訳、そして古今東西のスピノザ研究にひとつひとつ当たりながら、きわめて丁寧に、だが大胆に、この名のみ有名な異形の哲学者の思考の核心に迫ってゆく。スピノザにとって「方法」とは何であったか、人間の有限な「知性」は、いかにして「神の観念」に到達するか。論理を積み上げてゆくと突然思いがけぬ光景が開けてくるという、哲学のよろこびがここにはある。
 西山雄二の『哲学への権利』(勁草書房、三三六〇円)は、J・デリダが創設にかかわった、パリに拠点を持つ研究教育機関「国際哲学コレージュ」の活動を追った、著者である西山自身によって監督された同名のドキュメンタリー映画のDVDとセットになった書物である。半官半民で運営され、セミナー、シンポジウム、ワークショップなどはすべて入場無料という、ユニークきわまりない機関の理念と活動を、西山はコレージュにかかわる人々への綿密なインタビューで描き出してゆく。登場する人たち、そして西山自身に共有されているのは、「哲学に何ができるか?」という問いである。この問いは永遠の問いであり、なおかつすこぶるアクチュアルな問いでもある。映画の補足的な解説として付された文章からも、この厳しい問いに毅然として対峙する著者の姿勢が伝わってくる。

13。
 かつて大昔にニュー・アカデミズムと呼ばれた現象があった。少し前にはーーもう皆忘れてしまったかもしれないがーーゼロアカという騒動もあった。では今、アカデミズムと呼ばれる世界は、一体どのようになっているのだろうか?
 格好のサンプルとなる書物が二冊あいついで上梓された。まず、大橋完太郎の『ディドロの唯物論ーー群れと変容の哲学』(法政大学出版局、六八二五円)は、東京大学大学院総合文化研究科に提出された博士論文を元にした、著者にとって一冊目の本である。ドニ・ディドロは、十八世紀フランスの思想家、著述家で、「百科全書」の編纂者として、また風変わりな小説や戯曲も多数発表した。大橋は『ラモーの甥』『盲人書簡』『ダランベールの夢』といったディドロの代表作、および「百科全書」等に込められた、その思想の内実をつぶさに分析しながら、「唯物論的一元論者」という新たなディドロ像を大胆に描き出してゆく。ルソー然り、スピノザ然り、「現代思想以前」の思想家を、“現代的”に読み直すというのは、アカデミックな論文の基本型なのかもしれないが、その試みは成功している。ディドロを知らない読者にとっても、大橋の叙述は説得的、かつ刺激的だ。
 郷原佳以の『文学のミニマル・イメージーーモーリス・ブランショ論』(左右社、三九九〇円)は、著者が留学していたパリ第七大学に仏語で提出された博士論文を日本語に改め刊行したもの。こちらも一冊目の単著である。ブランショというフランス現代思想と文学における巨大なエニグマ(謎)と呼ぶべき存在を、「(視覚的)イメージ」という観点からじっくりと読み解いた労作で、もっぱら「言語」の「不可能性」といった次元でばかり語られてきた、この孤高の作家の姿に、はっとさせられるような新鮮な照明をあてている。大橋の著書と同じく、学究的な地道さと、大胆な問題提起とを併せ持った、良質にして新しいアカデミズムが、ここにある。

14。
 『花のノートルダム』や『泥棒日記』などで知られるフランスの作家ジャン・ジュネは、幼少時から窃盗を繰り返し、獄中で小説を書き始めたという特異な経歴の持ち主だが、生涯を通じて、自らもそうであるところのマイノリティ(彼は同性愛者だった)、マージナル(周縁的)であるがゆえに虐げられている者たちへの強い共感を隠さなかった。それは具体的にはパレスチナ解放運動や、アメリカのブラックパンサーへのコミットという形で現れた。
『公然たる敵』(アルベール・ディシィ編、鵜飼哲他訳、月曜社、五八八〇円)は、六〇年代末から没年である八六年の直前まで、様々な機会に発表されたテクストやインタビューを集成した大冊である。時に激烈で、時に優雅な、ジュネの「詩的な政治性」に触れることが出来る。
 インド出身で、アメリカの大学で教鞭を取るガヤトリ・C・スピヴァクは、デリダやポール・ド・マン直系の脱構築系の文学/哲学研究者であるとともに、いわゆる「サバルタン・スタディーズ」の理論的支柱でもある。ブリガリアの大学での講演記録『ナショナリズムと想像力』(鈴木英明訳、青土社、一六八〇円)には、言語と資本によって媒介されグローバライズされるナショナリズムに対する彼女の立ち位置が、簡潔かつ率直に述べられている。すなわち、それに抗うこと。つまり、ジュネと同じ側に立つ、ということである。
 ローザ・ルクセンブルク『獄中からの手紙』(大島かおり編訳、みすず書房、二七三〇円)。ポーランドに生まれ、社会主義運動、いや、革命運動にかかわりながらスイス、ドイツと移動し、第一次世界大戦のほとんどを獄中で過ごした後、やがて虐殺という無念の死を迎えた彼女が、その最期の二年間に同志に送った書簡の新訳である。ローザはひとりの「抗う人間」であり、また「闘う人間」だったが、それ以前に、ひとりの「人間」だった。たおやかな筆致に宿っているのも、「詩的な政治性」である。

15。
 戦後最大の思想家というと、やはり吉本隆明ということになるだろう。最強と呼んでもいいかもしれない。六〇年代の「政治の時代」に颯爽と登場した彼は、八〇年代にはあの吉本ばななのパパとして、また徹底して「大衆」に寄り添う論客として更なるファンを獲得し、九〇年代以後、論壇が変質・衰弱してきてからもその人気は衰えることなく、最近もカルチャー雑誌で特集が組まれるなど、圧倒的な認知度を保っている。
 合田正人『吉本隆明と柄谷行人』(PHP新書、七九八円)は、アンリ・ベルクソンやエマニュエル・レヴィナスの翻訳でも知られる合田氏が初めて著した新書だが、氏にとって「父とも、父の弟ともいえる」という二人の思想を、「個」「意味」「システム」「倫理」など幾つかのテーマで対照させてゆく論述は、極めて力のこもったものである。吉本の次に現れた「大思想家」は疑いもなく柄谷行人だろうが、とかく対立的に捉えられがちな二名を、合田氏はどちらにも過剰に肩入れすることなく、公平に、冷静に、時には情熱的に論じてゆく。
 吉本隆明についてはコンスタントに本が出ている。『ぼくが真実を口にすると 吉本隆明88語』 (ちくま文庫、九二四円)もある勢古浩爾の『最後の吉本隆明』(筑摩選書、一八九〇円)は、自らの吉本体験を縦横に語りながら、生きて行動するひとりの人間としての吉本隆明の姿にせまったものである。肩肘を張らない率直な書きぶりには、どこか吉本が対談などで見せる舌鋒の雰囲気が感じられもする。題名は当然、『最後の親鸞』からだろうが、吉本の代表作のひとつである同書を「最後の吉本隆明」として捉え直そうとしたのが、高橋順一『吉本隆明と親鸞』(社会評論社、一八九〇円)である。『最後の親鸞』が書き継がれた七〇年代に、吉本が親鸞を通していったい何を考えようとしていたのか、仏教思想と著者の専門の現代思想を自在に交差させつつ、粘り腰で明らかにしてゆく。

16。
 言うまでもなく「3.11」と「それ以後」の動向は、思想と呼ばれる世界にも、大きな影響を及ぼした。学者・識者たちはそれぞれに、あの未曾有の出来事、今なお続く出来事に、何とかして応接しようとしている。
 『思想としての3.11』(河出書房新社編集部編、一六八〇円)は、鶴見俊輔、吉本隆明、中井久夫、木田元、山折哲雄、加藤典洋、立岩真也、小泉義之、佐々木中など、総勢十七人と一組の「思索者」たちが、書き言葉と話し言葉によって、「出来事」への対応を試みている。復旧への長い道のりもまだこれから、原発事故も事態の収束が見えない現在の状況の中で、いったい如何なる言葉を発することができるのか、そもそも何ごとかを発言することが許されるのか、さまざまな捉え方があることだろう。語られている内容は多岐に渡っているが、日本を代表する知識人たちの「言葉」は、進行中の「出来事」が否応なしに分割することになる「自己」と「他者」、「個」と「公」の狭間で、静かに、あるいは激しく動揺しているように見える。
 雑誌「現代思想」の七月臨時増刊号「総特集:震災以後を生きるための50冊」(青土社、一三〇〇円)は、題名通りのブックガイドである。全体が「〈3.11〉」「破局/復興」「科学ー政治」「自然/エコロジー」「故郷性」「共同性」など、幾つかのパートに分かれており、非常に幅広い分野の書き手がテーマに沿った書物を紹介している。全体として感じ取れる編集部側の方針として、ジャーナリスティックなものは敢て扱わず、哲学、文学、芸術の先端に属する、かなりハードコアと言ってよい書物が集められている。だがしかし、これらの本の意味が「出来事」以後に変わってしまったということではあるまい。そうではなく、一見、「3.11」とは無関係とも思える「言葉」の内にこそ、われわれがこれから、自分自身の「思索」を深めてゆくための糧が隠されているということなのだ。そして「思索」は「行動」を促す。

17。
 ウィトゲンシュタインという独創的な哲学者の遺産は、死後半世紀をとうに超えた(一九五一年没)現在もなお、ますますその意義を増しているように思われる。主著『論理哲学論考』の末尾の「語りえぬものについては沈黙せねばならない」という強力な断言、そして死後に出版された、もう一冊の重要な著作『哲学探究』における、言語ゲーム論を核とする思想的な転回を、どう理解するべきか。多くの論者が独自の解釈によって、その孤高の思索を受け継ごうとしている。
 野矢茂樹の『語りえぬものを語る』(講談社、二六二五円)は、題名通り『論理哲学論考』の結論に真っ向から対峙してみせた大冊である。日本を代表する哲学者のひとりである野矢氏は、ウィトゲンシュタインの思考を、精緻に読み解き、また大胆に読み替えることにより、現代哲学最大のアポリア(難問)というべき「語りえぬもの」に、じりじりと迫ってゆく。語られている内容はかなり高度だが、語り口はきわめて平明であり、随所にちょっとした軽口や冗談、思いがけぬ脱線なども交えながら、臨機応変かつ自由闊達に、語りえぬものについて語る哲学のよろこびを語ってゆく。
 鬼界彰夫の『生き方と哲学』(講談社、一八九〇円)は、ウィトゲンシュタイン研究の最前線に位置する著者が、さまざまな哲学的知見を縦横に駆使して「生き方」の再考察に挑んだ書物である。ウィトゲンシュタインにかんして語られている部分もあるが、それ以上に、著者自身の人生論、自由論、倫理論が、硬質の論理と研ぎ澄まされた筆致で述べられてゆく。徹底的に突き詰められた真摯極まりない姿勢には、どこか読む者をたじろがせるものさえある。だが、この朴訥としたシリアスさは、いまや貴重なものだと思う。
 なお、入門編としてのみならず、個々の記事にも優れたものが多いムックとして、鬼界氏も参加している『ウィトゲンシュタイン』(河出書房新社、一六八〇円)を挙げておきたい。

18。
 数年前に一大旋風を巻き起こした「ゼロアカ道場」の覇者が、遂に単行本デビューを果たした。村上裕一『ゴーストの条件ーークラウドを巡礼する想像力』(講談社、一七八五円)である。ゼロアカとは東浩紀を「道場主」として行なわれた批評家養成プログラムで、応募者が幾つもの難関に立ち向かいながら脱落してゆき、最終審査まで辿り着いた者が破格の条件でデビューできるという企画。村上氏は栄冠に輝いたものの、その後、この処女作が完成するまでに、予想以上に長い時間が掛かった。かなりのプレッシャーがあったことが想像できるが、しかし難産だっただけのことはある、力のこもった長編評論となっている。
 「ゼロ年代の批評」が浮上させたのは、コンテンツとキャラクターという二つのキーワードだった。前者は批評の分野を芸術・文化からゲームやアニメ、テレビ番組などに拡張する際に、従来の「作品」に替わって採用された言葉。後者はもともとはアニメやマンガの「キャラ」のことで、大塚英志や東浩紀といった先行者によって鍛え上げられてきた概念だが、近年はより幅広いジャンルに適用される傾向にある(最近も斎藤環が『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』(筑摩書房双書Zero、一六八〇円)を出している)。 
 村上氏はPCゲームとTVアニメという「コンテンツ」を読み解きながら、東や斎藤の論議を踏まえつつ、独自の「キャラクター論」を展開する。そこで鍵となるのが「ゴースト」という概念である。「自立的で複数的な集合的無意識」のことであり、虚構としての身上を超えて、ある種の「魔術」を行使する……論議はかなり哲学的だが、それゆえに取り上げられているコンテンツに無知でも興味を持って読むことができる。
 今や「コンテンツ批評」の古典と言ってもいい評論も文庫化された。宇野常寛『ゼロ年代の想像力』(ハヤカワ文庫JA、八六一円)。かなり長めのインタビューが追加されている。

19。
 『カントの哲学』という著書もある異色の文芸評論家、池田雄一の『メガクリティックーージャンルの闘争としての文学』(文藝春秋、一九九五円)は、基本的には現代文学をめぐる論考なのだが、タイトルが示す通り、その射程はきわめて「メガ=巨大」である。
 村上春樹、村上龍、阿部和重、笙野頼子、吉村万壱、青木淳悟、といった作家たちの小説を取り上げながら、池田は文学において「ジャンル」と呼ばれてきた概念を、映画や音楽などにおけるそれと同様の、よりダイナミックで動態的なシステムとして捉え直そうとする。果てしもなく自由連想が続いていくような、アクロバティックと呼んでもいい独特のリズムを持った論議は、やがて文学の範疇に留まらず、文化全般の問題へと敷衍され、政治的、社会的な文脈へと広がり出してゆく。
 未消化の論点もやや見受けられるが、現在の日本の批評的風景においては例外的とも言うべき、きわめてスケールの大きな思考のフレームには好感が持てる。更なる展開に期待したい。
 東京大学に提出された博士論文を基にした倉数茂の『私自身であろうとする衝動ーー関東大震災から大戦前夜における芸術運動とコミュニティ』(以文社、二九四〇円)は、文芸評論家であり、つい先ごろ一風変わったダークファンタジー『黒揚羽の夏』で小説家としてのデビューも飾った著者の初の長編論考である。
 副題にあるように、第二次世界大戦に至る歴史的過程の中で、宮沢賢治、有島武郎、柳宗悦、江戸川乱歩、今和次郎、川端康成、谷崎潤一郎、横光利一、保田與重郎、等々といった名だたる芸術家たちが、いかなる「夢」を思い描いたか、そしてそれらの「夢」はどうなったのか、歴史的考証を丹念に押さえながらも、時には大胆な推論や魅力的な脱線も交えつつ、倉重は論を進めてゆく。とにかく読み物としても純粋に面白い。分析対象となっている時代は遠い過去だが、全体を貫く問題意識は、あくまでもアクチュアルなものである。

20。
 大森荘蔵は、一九九七年に没するまで、戦後日本の哲学を強力に牽引した人物である。彼が教鞭を執った東京大学出身の四人の愛弟子が編んだ『大森荘蔵セレクション』(平凡社ライブラリー、一七八五円)は、物理学から哲学に転じ、科学哲学、分析哲学、心の哲学などと呼ばれる諸分野の、日本におけるパイオニアとして、独自の思考を続けた大森の全貌を一望出来るアンソロジー。大森荘蔵入門であると同時に、哲学入門と呼んでもいい一冊である。
 固有名詞や専門用語が飛び交う「現代思想」とは異なり、大森の「哲学」には予備知識など必要ない。そこにあるのはたとえば、いま自分が見ているのは現実なのか、それとも、もしかしたら夢なのだろうか、といった素朴な問いや、過去という名の時間は、一体どこに存在しているのだろうか、などといった、誰もが子どもの頃に一度は抱いたことのあるような疑問である。哲学とは「世界」について考えることであり、それはそのまま「私」について考えることに繋がっていく。大森の言葉はいかにも理系出身らしく淡々としてロジカルだが、読み進む内にいつしか驚くべき境地へと誘われる。ほんものの哲学の凄味というものを、存分に堪能させてくれる。巻末に附された編者たちによる座談会も興味深い。
 『大森セレクション』の編者のひとりでもある野家恵一が、砂田利一、長岡亮介という二人の数学者と語り下ろした『数学者の哲学+哲学者の数学』(東京図書、二三一〇円)は、題名の通り、数学と哲学の交叉点を探る試みである。副題は「歴史を通じ現代を生きる思索」。ともすれば哲学も数学も、引きこもりがちで頭でっかちに思われがちかもしれないが、そうではない。どちらもわれわれが生きる、この「世界」の成り立ちにかんして、根本的なところから考えてみようとする重要な営みである。数学の歴史と哲学の歴史の並行関係も、じつに面白い。座談の中では、大森荘蔵のことも触れられている。

21。
 テオドール・W・アドルノといえば、あのヴァルター・ベンヤミンの高弟であり、ドイツ現代思想、批判理論の最重要人物である。その活動領域は、哲学、文学、メディア論、音楽など幅広い分野に跨がっているが、いずれも極度の難解さをもって知られている。実際、翻訳であることを差し置いても、アドルノを読みこなすのは相当にむつかしい。だが、そんなイメージを多少とも改訂させてくれる書物が出版された。『自律への教育』(原千史他訳、中央公論新社、三三六〇円)である。
 一九六九年八月六日にアドルノが急逝した直後に放送された表題対談を含む、ラジオ放送された晩年の四つの講演と四つの対談で構成されたこの本では、アドルノの肉声を知ることが出来る。ヘッセン放送局の番組の名称は「現代の教育問題」。この番組に一年に一度のペースで出演したアドルノが、十年という歳月を通して取り上げたのは、一言でいえば、「アウシュヴィッツの後で、教育は如何にして可能か?」という問いだった。「過去の総括とは何を意味するのか」「野蛮から脱するための教育」といった題名に、彼の問題意識は明瞭に示されている。だが、文章とは異なり、その口調はきわめて平明であり、特に旧知の間柄だった法律家、教育家ヘルムート・ベッカーと交わす対話からは、厳しさと率直さが独特な形で共存するアドルノのひととなりと、理論を実践に繋げていこうとする強い意志が窺える。語られているのはドイツの戦後教育に関してだが、もちろん日本に置き換えてみることは十分に可能だ。
 もう一冊、アドルノ『哲学のアクチュアリティ』(細見和之訳、みすず書房、三一五〇円)も出た。こちらはドイツ哲学史についての初期の重要な講演が中心で、『自律への教育』に較べるとさすがに難解だが、全体の半分近くを占める「音楽アフォリズム」が興味深い。アルバン・ベルクに学んだ作曲家でもあったアドルノの音楽観は、彼の思想とどう関わっているのか。そのヒントとなる省察が、ここには幾つもある。

22。
 かつてカウンター・カルチャーと呼ばれたものが日本にも存在していた。本来の字義はどうあれ、そこには既成の文化に対抗するという意味だけでなく、既存の社会に抵抗するという含意も込められていた。だが、やがてカウンターはサブカルとオタク文化に席巻された。それは時代の趨勢と呼ぶべきかもしれないが、様々な意味で戦後最悪と呼んでもいいような状況にある現在、対抗=抵抗としての文化を再構築しようと試みる者らも居る。
 『増補 ポピュラー音楽と資本主義』(毛利嘉孝著、せりか書房、二六二五円)は、カルチュラル・スタディーズの優れた紹介者のひとりである著者が、今日の音楽を取り巻く環境の変容を総覧しつつ、幅広いトピックについて論じた本の増補版である。毛利は「ポピュラー音楽と資本主義というふたつの語のあいだには、一種の共犯関係とともに緊張関係が存在」していると述べる。マルクス主義的スタンスに立って大衆音楽を批判したアドルノの理論の再検討に始まり、ロックの産業化、アートとポップの関係、黒人音楽の問題、九〇年代的Jポップと、それ以降の「オタク的消費」に象徴される「ポストJポップ」、インターネットによるDIY(DO IT YOURSELF)カルチャーの再興まで、多くの問題系をスピーディーに辿りつつ、ふたたび「共犯関係」に「緊張関係」を孕ませる可能性を探っていく。
 ネグリの訳者であり、映画評論家でもある廣瀬純の『蜂起とともに愛がはじまる』(河出書房新社、一八九〇円)は、副題に「思想/政治のための32章」とあるように、短めのコラムを集成した一冊である。「週刊金曜日」での連載に際して依頼されたのは「毎回、思想と映画と同時に論じつつ、それを通じて、来るべき運動に呼びかけ得るような時評」だったという。古今東西の映画作家と思想家の名前が交錯し合いながら、「蜂起」、本書のキーワードである「叛乱の叛乱」、そして「愛」が論じられていく。一貫しているのは、カウンターするカルチャーの奪還への欲望である。

23。
 ジュリアン・バジーニの『100の思考実験』(向井和美訳、紀伊国屋書店、一八九〇円)は、「あなたはどこまで考えられるか」という、いささか挑発的な副題の通り、現代哲学や倫理学などで問われてきた重要な設問や難問、珍問(?)の数々を、百個の短いエピソードにまとめ、それぞれにコメントを付した一冊である。
 取り上げられている問題は非常に幅広く、誰もが知っている「アキレスと亀のパラドックス」や、デカルトに端を発する「我思う、ゆえに我あり」「水槽の中の脳」などといった古典的な設問から、ジョン・ロック、デイヴィッド・ヒュームなどイギリス経験論者の論議、ジョン・サールの「中国語の部屋」、トマス・ネーゲル「コウモリであるとはどのようなことか?」、デレク・パーフィットの人格論、ジョン・ロールズの「正義論」、クオリア問題、そしてマイケル・サンデルに取り上げられて一気に有名になった「トロッコ問題」等々、さながら哲学史のトリビア全集の趣きである。
 著者バジーニはイギリスの哲学雑誌の編集長で、玄人ではあるが彼自身は哲学者ではないという、その絶妙な立ち位置が、どの設問についても、ひとつの立場に執着することのない、公平で、時に鋭いコメントを可能にしていると思う。特に順番にこだわる必要はないので、興味を惹かれるところから読んでみて、それぞれの問いに、自分なりの答えを探してみるのがよい。ほとんどの問題は「正解」があるようなものではない。まずは考え始めることが重要なのだ。
 似たスタイルの近著として、アン・トムソン『倫理のブラッシュアップ』(斎藤浩文、小口裕史訳、春秋社、二六二五円)もある。よりアクチュアルな問題が中心で、生命倫理や環境問題、死刑論議などをめぐって、ドリル形式で考えてゆく。近年、注目されているクリティカル・シンキング=論理的思考法の一分野クリティカル・リーズニングの入門書。こちらも「あなたはどこまで考えられるか」がポイントである。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
6
批評
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。