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どうしたら欲求に気がつけるのか

最近、自分の欲求でまたひとつ気がついたことがある。それは私は「自分の手で」何かを作りたいのだな、ということだ。そこに大きな喜びを感じることに、ようやく気がついた。


時は遡るが、前職で、現場から本社に異動した際、最初は“本社”という言葉が自分のなかにかっこよく響いて、なんだかうれしかった。周りからも“本社なんだね(すごいね)”と思われているような感じがして、正直言って悦になっていた。

だけど一般に周りから「よい」とされているものを手にしてしまうと、手放すのがすごく、すごく怖くなってしまうし、周囲の価値観が自分が本当に思っていることに優りがちだから、とても注意が必要な状況だと思う。

現にわたしも、本社で自分がやっているのは全部「現場へのお願い」で、何ひとつ自分で成し遂げられていない“手触り感”のなさに空虚さと無力感を感じていた。もっと率直にいうなら、つまらなかった。それなのにその時は、“本社”の価値の方が全然大きくて、せっかく「ちょっと違うかも」とキャッチした信号を無視してしまっていた。

いま考えればそれは、自分の欲求を抑えこんで、周りの価値観に過大に適応していたのだと思う。


もうひとつ。普通のOLをしていた頃、自分はこのまま本とか雑誌とか読んで読んで、インプットだけして死ぬんだろうな、とやや大げさだが本気で考えていた。それでも楽しいからいいや、と冷静に思っているつもりだった。
自分には特に発信すべきことがあると思えなかったし、自らアウトプットする行為を、選択肢にさえ持ってはいなかった。作る側にまわるなんて無理無理と。

だけどそれも欲求があってこその裏返し。本当はそうなれたらいいなと心の奥底では思っていたはずなのに蓋をしていた。

「本当はできたらいいな」の上に「できるはずない」が被さってしばらく時間が経つと、魔法の布のように、その下にあった衝動が見えなくなってしまう。きっと自分が傷つかないように、大切な自分を守るために、自分がやってしまっていることなのだと思う。


自分の欲求に気がつくには、行動が必要だ。まずやってみて「ああ、やっぱり好きだなあ」と身を持って“体感”を得ることで、「やってみたいのは、なかでもこの方向性かも」とか「こっちにもチャレンジしたいかも」というように、興味がより先鋭化したり、その範囲が広がっていったりする。

だけどその前にもっともっと重要なのは、世間の価値観や、傷つかないための自分の先回りを、自分の手で剥がして中を確認できるかどうかだ。世と自分に蔓延るバイアスがあることに自覚的になって、いつでも「本当にそうなの?」と問いかける。つねに、欲求の種になる小さな萌芽や違和感を見逃さないぞと意識する。

すごく難易度が高いし、自分もまだまだ道半ばなんだけれど、自分より何かを優先してしまいがちな人は、とにかく地道に問いかけを続けていくしかないのかもしれない。


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