見出し画像

わたしの失敗のサイクル

世の中には、忘れ物や落とし物をするのが日常茶飯事という人種がいる。かく言うこのわたしも、愉快なうっかりドジっこ星の住人の1人だ。

現にいまの部屋では、エアコンとテレビのリモコンがなくなった(蛇足だが、3本あった鍵のうち2本が現在部屋で行方不明だ)。

どんなメーカーにも対応する万能リモコンの並外れた優秀さに、わたしほど敬意を払い、共存共栄している人間がいるだろうか。

こんな場面が思い浮かぶ。人々から頼られ、暮らしを支える存在の家電。そこに最初からそっと寄り添い続けてきた正規のリモコン。ある時、正義感の強い正規リモコンは、自分の存在は人々に「便利を提供」をしているのではなく、「怠惰を助長」しているのではないか、と思い悩む。

そして意を決し、一定期間姿を消すことに決める。そう、みんなのために。

しかし正規リモコンの思いとは裏腹に、その座は、スムースにオールマイティな万能リモコンに取って代わられる。わたしたちは”喪失感”すら抱くことはない。

時を経て、正規リモコンが戻ってくる。だがもう遅い。支え続けてきた家電のとなりに寄り添う、あいつは一体……?

正規リモコンは、その光景になにを思うのだろう。わたしの居場所は? わたしの存在意義は? 思いとは裏腹に、自分の戻る場所を失い、かつてみんな笑顔で暮らしたきらめくあの日々が泡のように消えてしまう悲しい物語。その発端を作ったのが何を隠そう自分ということに、深い罪の意識を感じています。(終)


そんな感じなので、わたしは過去に、買ったばかりのデジカメを修学旅行1日目に新幹線の車内に置き忘れたり(人の移動は広島〜大阪間だったが、デジカメだけ東京までの1人旅にでた)、財布を忘れているのに気がつかず定食を食べてしまったりと(事情を説明し名刺を渡して後日支払いに行った)、“うっかり”の範疇を一足飛びするような失敗を繰り返してきた。

もちろん、失敗のたびに大慌てし、なにをしたらよいのか分からずパニックになり、しばらくして落ち着いた頃には反省し自分を責めた。何度も何度も何度も。

しかし時を経てなお、「慢心」「油断」「不注意」のうっかり三大天は、変わることなくわたしのなかに居座り続け、そして変わらず失敗も繰り返された。

するとどうだ。長年のデータの蓄積によって、数多の失敗パターンをインプットしたわたしの脳は、いつの間にか無双の「対応力」を手に入れてしまっていた。チリも積もればなんとやら。これを僥倖と呼ばずしてなんと呼ぶのだろうか。

「あれ、財布がねえぞ」。気づいた途端、わたしの脳内コンピューターは冷静に、複数のやるべきことを導き出す。わたしに慌てているひまなどない。きりりと前を見据え、用意されたTo Doを上から順にこなすだけだ(すると大抵見つかる)。

見てくれ、この落ち着きっぷりを! 財布を落とした人間のそれとは思えないだろう!

いつしか忘れ物や落とし物なんて朝飯前となり、わたしは自分を責めることなく、むしろ開き直り、笑い飛ばし、厚顔無恥のそのまた先へと向かう……。


なんだか冷静に考えると、みごとな悪循環という気がしないでもない。しかし、本質的に誤っていても成長は成長だろう。脳天気な喪失のサイクルはここに完成し、相変わらず忘れ物や落とし物の数は減ることはない。

そういうわけで、きのうもわたしは財布を持たずに元気に会社に行ったのでした。おしまい。



いただいたサポートは、本の購入費に充てたいと思います。よろしくお願いいたします。