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掌編小説060(お題:ぼろぼろの栞)

僕たちもまた車両のそこかしこにいるカップルや学生グループと同じく数駅前の遊園地から帰る男女であると気づく人が、はたしてどれくらいいるだろう。真正面の座席で肩をよせあってねむる男女が提げたかわいらしいショップバッグをじっと見つめながら、そんなことを考えている。なにか言わなければと思いはじめてからもう何駅か過ぎていた。こぶしを握りしめて、ようやく、隣で淑やかに座る詩織さんに声をかける。

「今日、楽しかったですか?」

読んでいた本から顔をあげて、彼女は「はい」と微笑んだ。沈黙。口元に微笑みをたたえたままでふたたび視線は本へ戻ってしまう。あー、これはだめなやつだ、と確信した。

詩織さんとはおたがいの友人を介して知り合った。他人の恋愛にすら疎いぼんやりした僕と、書に耽るあまりつい人とのコミュニケーションがおろそかになってしまう彼女。それぞれの行く末を案じた友人が、人脈を駆使して僕たちをどうにか出会わせたのが一ヶ月ほど前のこと。

各々お節介な友人に尻を叩かれながら細々と連絡をとりあい、世間話のどこかで季節の話になり、そこから派生して各レジャースポットのイベントの話になり、彼女がそういう類とは縁遠い人生だったらしいと聞くなり僕側の友人が「誘え」としつこく文字どおり尻を叩いてきたのでトントン拍子に話は進み、そして今、この沈黙に至る。

重度の読書家(と彼女側の友人はそう表現した)である詩織さんなので、もちろん遊園地といえど本を携えて来るであろうことはわかっていたし、ところかまわず本を開く彼女を、僕自身も別段気にしていない。アトラクションの待ち時間を静かに過ごすそのひとときは心地よくさえあった。ただ彼女のほうは楽しんでいるのか、その心を読めないのが不安だった。迷惑だったんじゃないだろうか、と、ページをめくる彼女の指先を見つめる。

「詩織さん、着きましたよ」

電車が目的の駅へとなめらかにすべりこんだ。僕も詩織さんもここで乗り換えだ。座席に非日常の余韻を残して、ホームへ降り立つ。「あら」という声がしてふりむくと、詩織さんが、読みかけの本に指をはさんだまま首をかしげていた。

「どうかしました?」

「いえ、たいしたことではないのですが、……しおりをなくしてしまったようです」

しおり、というのは当然、本にはさむ「栞」のことだろう。たしかに、今日何度かページにはさむところを見かけていた。四葉のクローバーを押し花にしたもので、たしか、手づくりだと言っていた。園内でなくしてしまったのだろうか。それとも今しがた乗っていた電車か。

「使い古してもうすっかりぼろぼろになっていましたから、どうかお気になさらず」

詩織さんはそう言って微笑んだが、いつまでも指を代わりにはさんでおくのは不便なはずだ。僕はひらめいて、ポケットに入れたままだった遊園地の入園券を取りだしてみせる。

「ひとまずの応急処置としてこれを使ってください」

入園券をまじまじと見つめたあと、しかし、詩織さんはふるふると首をふった。

やり場のない手が宙をさまよう。やっぱり迷惑だったか。まぁ、今日一日やったことといえばささやかなエスコートくらいで、あとは人並みに雰囲気を楽しんだり、静かにページを繰る彼女に見とれているだけだった僕だ。当然だろう。

「ああ、ちょうどいいものがありました」

華やいだ声で我にかえる。鞄の中に手をやっていた詩織さんは、その手を、僕へ差しだした。

「二枚ありますので、よろしければ、古木さんもどうぞ」

手わたされたのは、僕が差しだしたのとまったく同じ、あの遊園地の入園券だ。だけど印字されている日付が今日のものではない。十二月某日。これはーー。

「遊園地という場所は、私のような本の虫にとっても存外に楽しいところなのですね」

未来の日付が記された入園券を手にして、詩織さんは微笑んでいる。

「それとも、それは古木さんのエスコートのおかげでしょうか。ともかく、あっというまのひとときでした。敷地が広大で、今日中には見ることが叶わなかったエリアやアトラクションがまだまだあります。次はぜひ、そうしたスポットを見てみたいのです。……古木さんへのお誕生日プレゼントを口実にしてしまって申し訳ありませんが、古木さんにとってかけがえのないひとときになるよう私も私なりに尽力いたしますので、どうか、またエスコートをお願いできませんか?」

「もちろん」自分でも驚くほど早く答えが口を飛びだした。

「よかった。日々の楽しみが一つ増えました」

「あの、でも、これいったいいつ取ったんですか?」

「内緒です」

指をはさんでいた本を開き、詩織さんはたった今交わした約束をそこにはさんだ。本を閉じて大切そうに胸に抱きしめている。その姿を微笑ましく思いながら、僕の脳裏にはふと、遊園地でのワンシーンが鮮明にフラッシュバックした。

メリーゴーランドの列に並んでいるときのこと。僕は本に目を落とす詩織さんに「今はなんの本を読んでいるんですか?」と訊ねた。そのとき彼女はほんのり耳を赤くして、こう答えたはずだ。

『最近ようやく、恋愛小説を楽しめるようになってきて』

視線に気づいた現実の詩織さんが、髪を、そっと耳にかけた。

「こう見えて私は、結構、したたかな女なんですよ」

黒髪からのぞいた小ぶりな耳が、あのときと同じように、ほんのり赤くなっている。

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