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中学受験の、可哀想な、こども

パァン、と、こめかみの辺りで何かが爆ぜる乾いた音がした。頂点に達したジェットコースターが急降下する時のように、一瞬、時が止まった感覚に陥る。こういうのを、人は臨死体験というらしい。実際に死んでないことを確認するため、咄嗟に瞑った目を薄く開けると、沢山の白いプリント用紙が顔の前を舞って床へ落ちていった。少しずつ視界を広げていく。向こう側に誰かが立っていた。やけに背が高く、全身黒ずくめ、髪の色だけがくるくるとカールした茶髪の男だった。服装とのミスマッチさに着ているものがスーツだと気が付いた途端、塾の空き教室でクラス担任と二人きりの個人面談中だったということを、小学六年生の牡丹はようやく理解した。

紙吹雪の壁がなくなって、目の前に仁王立ちする彼の存在がはっきりと輪郭を成す。顔は茹でダコのように真っ赤になっていた。先日、母の作った酢蛸の炊き込みご飯が思い出される。真っ赤に染まった毒々しい色に食欲を失ったが、日曜の食卓には母と妹だけでなく父も座っていたので、一粒も残すことなく綺麗に麦茶で流し込んだ。口の中に残る酸っぱさになんでこんなものをと抗議したくなったが、それを頼んだのは妹だったらしい。けれど、彼女が食べたかったのはテレビで見た沖縄料理の「タコライス」だったらしく、「蛸ライス」が出てきたことにたいそうご立腹だった。手を付けることさえしない膨れっ面の妹を少しだけ可哀想に思いつつ、「お洒落なカフェのGをジャイアントって言っちゃうお母さんにタコライスなんて分かるワケないじゃない」と姉らしく宥めた。向かいの父は何も言わず黙々と蛸ライスを口へ運んでいた。

「こら、山田!」

 頭上から怒号が振ってくる。緩みかけた頬を慌てて引き締め直した。はい。努めて暗いトーンで返事をした。彼に怒られていることを再び自覚した。

「いいか、俺はお前のために言っているんだぞ。山田は真面目だし、十二月に入って成績もグッと伸びてきている。良くやってるよ。この調子で行けば、上位校でだって十分戦えると思うんだ。だから、堅実校だけじゃなく、もう少し偏差値の高い学校にもチャレンジすべきじゃないか?」

 背の高い彼を見上げるのは、随分と首が痛い。はあ。紙束を投げる前も聞いた一字一句同じ台詞に牡丹は小さく頷いた。ゆっくりと唇を舐める。

「でも、父が決めたことなので」

 自分もまた同じ言葉を返した。「父、父って。お前の意見はないのか!」と繰り返されるかと思ったが、彼は「ハァ?」と言いたげに目をぎょろつかせ、肺に入っている空気を全て入れ替えたいというように大きく息を吐いただけだった。苦く煙たい匂いが顔に掛けられ、不快な気持ちになる。これがカレイシュウではなく煙草と珈琲のオトナの香りだということを、牡丹はつい最近になって知った。クラスで一番仲の良い亮子ちゃんの年の離れたお兄さん(どうやら今年で二十歳らしい)の口からも同じ匂いがしたからだ。

「とにかく、ご家族の方にも言っておくから、山田自身もちゃんと考えておくんだぞ」

 彼は、ダン、と力任せに教壇を殴った。長机と長椅子だけの殺風景な空間に鈍く響く。心臓が縮み上がりながら、牡丹はくるりと踵を返した。教室を出る。扉を閉めると、腹の底に溜まっていたものが一気に湧いてくるのを感じた。口から漏れないよう唇を引き結ぶ。ぽろり、と目から水滴が零れた。

 成績が下がっているとか、授業態度が悪いとか、そういうことで怒られるのなら、分かる。だけど、成績も良くてマジメな自分が、どうして怒鳴られ、紙束まで投げられないといけないのか。先生とかいうちょっと勉強が出来るだけのオトナのくせに。どうせ、頭の良い学校に生徒を沢山排出させて、塾の名声を上げて、ボーナスをいっぱい貰いたいだけなんだろ、バーカ。幼い頃から器用な生き方を選択してきた牡丹にとって、男性教師の押しつけがましい叱責は自分をただ否定されただけのような気がして、クツジョクでしかなかった。悔しい。悔しい。悔しい。バカだのシネだの心の中で呟きながら、のろのろと廊下を歩き出した。ガラス張りになった自習室の前を通ると、机に向かう亮子ちゃんの後ろ姿があった。クリスマスと、大晦日と、お正月が開けたらジュケンももうすぐ、本当に本番だ。良い中学に入るため、皆は必死で勉強している。いつもの牡丹ももちろん向こう側の人間であったが、泣き顔を見られるのが嫌だったので、俯いたままその場を後にした。

 出入り口の自動ドアが牡丹に反応して開く。露出した肌を切り裂くような夜風がひゅうっと頬を撫で、厚手のマフラーに首を窄めた。横幅の広い石階段を降りて行く。踊り場に右足を置くと、歩道の柵に寄りかかって本を読んでいる黒いコートを羽織った男の姿が見て取れた。父だ。仕事帰りのついでに、牡丹を塾へ迎えに来るのは父の役目だった。教材で膨らんだ亀の甲羅のような重いリュックを背負い直す。やや小走りで、残り半分を駆け下りた。お父さん。牡丹が呼びかけると、父は少しだけこちらに視線をやった。手元の文庫本がパタンと閉じた。

「今日は早いんだな」

 唇を殆ど動かさず、淡々とした低い声で父は言った。何の感情も籠っていない平常運転さに、また泣きそうになった。でも、父の前でそうすることは恥だと思ったので、奥歯をぎゅっと噛みしめた。うん、と喉奥を震わせることで精一杯だった。

 父の少し後ろに付いて牡丹は黙って歩いていく。普段からこれと言った会話はなく、動く歩道を歩くような音のないスイスイとした父の早足を追うことだけに全神経を集中させた。そういえば、いつだったか、妹が父と歩いている時にドンドンおいて行かれて道にへたり込んで泣いてしまったことがあった。確かあれは、妹が七歳の誕生日を迎えた日だった。小学校に上がった妹は、急にマセガキになって、牡丹に「牡丹って、呼んでいい?」と訊いてきたのだ。そのニュアンスは、事後連絡に近く、念のための軽い確認というようなものだった。言いわけ、ねぇだろ。口角の上品な笑みを絶やさず、牡丹は凄んだ。妹に呼び捨てにされるのは、プライドが許さなかった。ただ先に生まれただけだが、その事実は覆ることのない上下関係である、と、牡丹は幼いながら感じていた。そして先に生まれた者は生来の権威に頼ることなく、その責任を果たさなければならない、とも思っていた。つまり、姉は妹よりいつでも優れた存在でなければならない、ということだ。もちろんそれは、両親から見ても、である。それが家族の中の一番上に生まれた子供としての性、今の牡丹にとってそれがジュケンという一大イベントであることは言うまでもない。

「ねえ、お父さん」

横断歩道の赤信号で立ち止まると、牡丹は話しかけた。白い息が空と建物の境界線の薄くなった闇夜に広がっては溶けていく。良い生地の滑らかな衣擦れを肩で感じた。冷たい空気を小さく吸った。

「先生がね、志望校のレベルをもう少し上げた方が言っていたんだけどね、お父さんは、どう、思う?」

 登校時は車が連なって並んでいる交差点も、この時間はぽつらぽつらしかなく、駅へ向かうタクシーだけがヘッドライトをぎらつかせて走り去っていく。それを眺めている間、父は何も言わなかった。信号が青になる。コツン、と先の尖った革靴が白いボーダー線の上に乗った時、ようやく「必要ないだろ」と少し振り返って答えた。良かった。牡丹は胸を撫で下ろした。「そうだよねぇ」と父の後頭部を見ながら相槌を打つ。その「そうだよねぇ」があまりに気の抜けた返事だったので、少しわざとらしく響いたが、寒さのせいだと自分に言い聞かせた。妹のため、家族のため、父のため、自分は頑張っている。そう。これで良いのだ。バカボンのパパのようなことを謳いながら、牡丹は首を反らした。父の頭上のはるか遠くで。青白い大粒の星が瞬いている。それをじっと見つめて、明日は自習室で勉強をして帰ろう、と心に誓った。

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