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ナプキン

そろそろかな、と思ったときにはもう遅かった。筋肉がなくなって弛んだ太ももの間の暗い部分を見つめながら大きく息を吐いて、それと同じ量の息を吸った。こびりつくようなラベンダーの臭気が酷く神経に障る。おっと。イライラしちゃ駄目よ、智恵里。真横に取りつけられている鏡へ向かって普段通りの笑みを作ってみせる。口角に厚化粧でも誤魔化しきれない小皺が浮かんだ。無表情に戻っていく自分と目を合わせたまま、股に突っ込んでいた手をようやく引き抜いた。

 クレーム・ダンジュ。

 いつか航平と出かけた時のことを思い出す。全面ガラス張りになった窓から堂々と聳え立つスカイツリーを真正面から捉えることのできるお洒落なフレンチ・レストランだった。田舎者の自分にはあまりに場違いすぎて、聞いたことのない名前の料理が運ばれてくるたびに緊張してしまった。

「由木さんはこういうところ来たことある?」

 慣れないテーブルマナーに一生懸命でほとんど話してなかったせいだろうか。彼の言葉に大きく首を振った。

「だよね。予約したの俺だけどさ」

 苦笑しながら白い布で口元を拭う。スーツではない姿を見るのは初めてだった。シンプルなグレーのシャツを着て、ごつごつした大きな黒い腕時計をしていた。男の人の服なんてどれも同じに思えるが、航平が身に着けているものは、なんだか特別な気がした。テーブルに置かれたデザートに再度視線を向ける。ピンクや黄色の食用花で鮮やかに装飾された平皿の真ん中に、ガーゼでくるまれた逆さまのてるてる坊主のようなものが乗せられていた。細い指先で彼が外側を摘まんだのを確認して、私もチューリップの花弁を開くように一枚一枚剥がした。現れた白い固形はまだ誰も踏んでいない新雪のようで、全く凹凸がなかった。少しだけ躊躇して、柄の長いスプーンをそっと差し込む。雪は滑らかにシルバーを覆った。クリームチーズのほのかな香りが鼻孔を擽る。胃の中は既に満たされているはずだったが、食後のスイーツというものはやはり別だ。手元を持ち上げ、口元へ運んだ。中に入っていたラズベリーソースがどろりと滲み出た。

美味しい――そんなセリフを、当時の私は可愛く言えただろうか。
下腹部の痛みがやっと和らいできた。懐古スイッチを切る。また芳香剤の匂いが漂ってきて、ぎゅっと眉根を寄せた。文句を言っていても始まらないことは分かっていた。次の波が来る前に現状と向き合うことにした。

今、私はトイレの個室にいる。Apple watchによると時刻は十四時三十七分。早めに来ておいて良かったなあ、と呑気なことを考えていた十分ほど前の私を殴りたい。ブライダルプランナーの方との約束の時間は十五時。航平は仕事で遅れると連絡が来ていたから、きっとギリギリに来るはずだ。すなわち、あと二十分弱で何とかしないといけないというわけである。座ったままの姿勢で、鏡の下で力なく垂れさがったトイレットペーパーホルダーの上蓋をぼんやりと眺める。「女の子の日で困ったらおスタッフにお声掛けくださいね」というピンクのハートマークのラベルが貼られているが、さすがにパンツを下ろしているあられもない恰好でどうやって呼べば良いのだ。しかも、見回す限りでは備え付けのトイレットペーパーも置かれていない。廊下やロビーに飾られたかわいらしいオーナメントよりも、こういうところをしっかりして欲しい。また溜め息を吐いて腕時計を確認する。あと、二十一分。便器の中に少量の鮮血の滴る音がした。

生理中、使い捨ての専用ナプキンを女性が持ち歩くことは普通のことだ。月に一度と周期も決まっているためいつ来るのかも概ね予測できる。しかし、何らかの関係でずれてしまい、予定よりも早く来てしまうことが稀にある。私のように常備していないズボラな人間は、そういった緊急時への応急処置としてぐるぐるに巻いたトイレットペーパーをパンツの上に敷く。そうやって難を凌ぐ女性は少なくないはずだ。そう思いたい。つまり、トイレットペーパーがない今、非常にまずいことは一目瞭然なのだ。ティッシュか何か持っていないのかと突っ込まれそうだが、持っていたならとっくに使っている。そして、近くのコンビニないしはドラッグストアに駆け込んでいる。私の持ち物はロビーで出迎えてくれた方に預けてしまい、持っているのは正方形のApple watchだけだった。一昨年の誕生日に航平がくれたものだ。ああ、そういえば。いつかの話だと思っていたけれど、あのフレンチを食べたのはその直前だ。ということは、付き合ってまだ四年経っていないということか。なんだかもう随分昔のことのように感じる。

航平――新妻航平は私より二つ年が下の後輩なのだが、職場では先輩だった。なんでも、大学二年からアルバイトでいてそのまま正社員になったらしい。営業でも編集でもなく男性事務の彼は少し稀有な存在であったが、持ち前の器用さで日々の仕事を一つのミスもなくこなしていた。顔が整っているのも好感度が高く、女性社員たちからは大人気であった。私も当初からかなり気になっていた存在であることは間違いない。ただ、中途で入って半年の新参者であったため、彼女たちに遠慮をして積極的に彼にアプローチすることは殆どなかった。その代わり、私には特別な日課があった。

うちの出版社は三フロアに分かれていて、一階がアニメ制作部、二階がコミック・ライトノベル編集部、三階がその他の編集部と営業事務になっている。女性向け実用書を担当している私は三階の人間だ。出入り口から向かって右側が編集部、左側が事務と営業部という分かりやすい配置になっていて、席は奥の窓際だった。パソコンで帯とPOPを作成しながら、日没した窓に少しだけ目をやる。外の景色を気にしているわけではなかった。見ていたのは黒くなったガラスに反射したオフィス内、正確には彼の行動だった。奥の広い机で書店への発送物の用意をしていた彼が立ち上がり、営業部のブロックに移動する。副編集長に何かを話しかけた。作業が終わったことの報告であろう。副編集長は二度三度と頭を下げた。彼もお辞儀をして再び席に着いた。座っていても姿勢の良い背を見ると、適当に仕事をしている自分が恥ずかしくなってしまう。窓から視線を外し、作業に戻った。今日はトイレに一回、外に四回、他の人のデスクに八回。キーボードを叩きながら、彼の今日一日の行動を振り返る。月末の入稿日前だからであろうか、オフィス間の行き来が多い気がする。珍しくピンク色の細いストライプの入ったワイシャツを着ているが、退勤後に誰かと飲みにでも行くのだろうか。それとも、連日の雨でいつもの水色のワイシャツが乾かなかったのであろうか。手を動かしながら、様々なことを夢想する。思考をすぐ別のところに飛ばしてしまう癖がついたのはこれのせいだろう。人には決して話すことのできない私の日課は、職場での密かな楽しみであった。パソコン画面の上がまた揺らいだ気がした。視線を上げる。椅子から立った彼はくるりとこちらを向いた。いけない。そう思いつつも、目が離せなかった。ゆっくりとこちらへ歩みよって、私の右脇へ置いてある大型コピー機の前で止まった。心臓が大きく高鳴る。数メートルにも満たない距離まで来ると、このことが彼にバレているのではないかと少々不安な気持ちになった。手汗でキーが湿っていく。パソコンの画面を中心に視野を広げる。細長い手足が少しだけ見えた。印刷を終え、紙の束を抱えた彼は颯爽と席へ帰る。小さく息を吐いた。懲りずに窓を確認する。映った彼は何故か微笑んでいるような気がした。

思考がまた反れてしまった。黒いセンサーに手を触れる。便器の中で水が勢いよく流れていった。残り十五分。そろそろ何とかしなければならない。私は再びApple watchを見た。先ほどからApple watch、Apple watch、とスタイリッシュな英単語を並べているが、決して自慢話がしたいわけではない。確かにこれは航平にもらったものだが、その動機はナラクという女である。ナラク――南良来瞳は中学から大学までの同級生で、良く言えば幼馴染み、悪く言えば腐れ縁だ。私と違ってすらりとした身体を持ち、容姿にも恵まれた彼女は異性からよくモテる。特に、ぼーっとしているか、すましているか、何かに集中しているか……そんな表情の時は同じ人間とは思えないほど目を惹くものがあった。艶のある黒髪やシミ一つない肌は衰えを感じさせず、むしろ年を重ねるごとに若返っていくようであった。こっちはなかなか治らない大人ニキビや不規則な生活のせいで荒れた皮膚を隠すのに必死なのに。本当、嫌味な魔女である。そんな彼女がある日、真新しい電子時計をやけに見せびらかしてきたことがあった。

「でねぇ、最初は何これって思ってたんだけどぉ、使ってみたらすっごく便利だったのよぉ」

 べったりと間延びした話し方はいつものことである。そうなんだ。適当に相槌を打ちながらビールを呷った。仕事で疲れ切った身体にアルコールが染みわたっていく。酒も摘みも安い割にはまあまあ美味しいものを提供してくれるここは大学時代から行きつけの居酒屋だった。

「例えばさーあ、仕事中だけど暇な時ってあるじゃなーい? でも、そういう時にTwitterとかインスタも見れちゃうし、朝の満員電車でスマホ取り出せない時にはこっちで操作すれば音楽変えられるし、自分のicカードにクレカから直接お金まで入れられるのよぉ。まじ画期的じゃない? あたし、これ使い始めてから財布って持ち歩かなくなったもん」

 一応説明しておくが、彼女は大型家電量販店でパートをしている。あくまでパートだ。正社員ではない。東京で一番の某国立大学院を卒業した後、ふらっと行った街コンで一回り年上の医者を捕まえて二年前に結婚をした。働く機会がなかったと言えばそれまでなのだが、社会人経験が皆無なせいでパートを仕事と言い、舐めた態度を取っていることは否定できない。そこら辺の社会人に聞かされたら(勇気があるかどうかは別として)激昂されてしまいそうだ。まあ、彼女に悲しい顔をされでもしたなら、怒りの炎は瞬時に燃え尽き、慰めに回ってしまうことであろうが。ビールジョッキを静かにテーブルへ置きながら、ぼんやりとナラクを眺めた。

「ねぇ、ちゃんと話聞いてた?」

「え? あー……うん。でも、それ高いじゃん」

 近場にあった唐揚げを頬張る。肉と衣の油が口の中に広がった。奥の口内炎を刺激しないよう、ゆっくりと咀嚼する。小さな鼻が膨らんだ。

「まぁねえ。でも、五万だよぉ? いいじゃん、航平くんに買ってもらえば」

「いや、ナラクじゃないんだから」

「それ酷くなぁい? 指輪よりは全然安いんだからぁ。ね?」

 今思えば、ナラクのマイブームに乗せられただけだ。適当に話を合わせてはぐらかすこともできただろう。だが、当時の私は航平と付き合ったばかりで浮かれていた。なにしろ職場人気ナンバーワンの男と恋仲になったのだ。告白された理由は「由木という苗字がカッコいいから好き」ということと「一緒にいたら楽しそう』ということだけだったが、告白された側の私を見る職場の目は以前とは打って変わっていた。イチ編集者としてだけではなく、新妻航平の女として明らかに注目されていた。もちろん好奇や嫉妬から皮肉を言われることも何度かあったが、航平がすかさずフォローを入れてくれた。それがさらに好感度を上げることに繋がり、数日後には公認となっていた。大事にならず良かったとほっとした反面、数段グレードの高い男と付き合ってしまったという責任感にも似た重圧も感じていた。どうしたら彼と釣り合う女になれるのか。そのことばかりが頭の中を逡巡していたような気がする。実際、ナラクと買い物に行ってデパートにしか売っていないようなコスメや洋服を選んでもらったり、デートスポットや雰囲気の良いレストランなんかをいくつか見繕ってもらったりしたこともあった。ほとんど同じ環境で育ちながら、なぜこうもフィールドが違うのだろう。デパートでウィンドウショッピングをしながら、高級ブランドの良し悪しを一つ一つ語るナラクを横目にそんなことを思ったが、彼女のおかげであの日にも着て行った真っ白な品のあるワンピースを手に入れられたのだから頭が上がらない。余所行きの服というのは持っていると重宝するものだと社会人になって実感した。今日もそれを身に纏っている。まあ、こんなことになるとは思っていなかったが。

話を元に戻そう。喜びと危機感という二つの感情が渦巻いていた私はかなり混乱していた。もっと言えば、彼にがっかりされて早々に捨てられるのを恐れもしていた。それだけに愛されている証拠が欲しかった。元から物欲の薄い私は欲しいものなんて何もないのに、何かが欲しかったのだ。そこで、ダメもとでApple watchを誕生日にお願いしてみたというわけである。本当、心底面倒くさい女だ。

 

 縄文時代の人たちは生理の時、一体どうしていたんだろう。ナプキンなんてなかったはずだ。垂れ流し状態だったのか、それとも普通の布を当てていたのか、終わるまで家に籠っていたのか……最後の可能性だったら嫌だな。一週間もここに閉じ込められていることを想像し、背筋がすうっと寒くなった。残り十二分。やはりこの方法しかなさそうだ。Apple watchを指でタップし、メッセージを開いた。連絡相手はナラクだ。というのも、このサロンは彼女自身も利用していた場所で、結婚の話題を出すなりすぐに紹介してくれたのだった。彼女の家からここまで徒歩十分。緊急事態なことを伝えれば、後に笑いのネタにされることはまず間違いないが、自転車かタクシーを使って急いで来てくれるだろう。トークを選んでキーボードを開いた。普段使っているスマートフォンの画面よりも格段に小さいため、アルファベットが人差し指だとなかなか反応してくれない。仕方なく一つ一つの文字を小指一本で押すことにしたが、慣れていないせいで酷く時間がかかる。焦れば焦るほど、汗が滲んで手が滑った。イライラしながら半分ほど文章を打った時、扉に貼ってあったブライダルのポスターが突然剥がれた。チャペルも何もない草原で幸せそうに両手を広げているウェディングドレス姿の女性の笑顔が歪んだ。

「結婚ってさーあ、全然良いもんじゃないわよねぇ」

 ふいに、ナラクの声が蘇ってくる。ああ、そんなことをしている場合じゃないのに。今現れて欲しいのは記憶じゃなくて実物なのに。一生懸命に頭から追い出そうとしたが、ノンアルで何故か顔を赤くした彼女は構わず話しかけてくる。

「そうよーお。結婚する前はこんな住居に住んで、こんな家具揃えて、記念日はあれこれやって……なんて思ってたけど、今ではただ面倒くさいだけだからねぇ。それに世の中は男女平等って言ったって、三百六十五日も一緒に住んでいれば百パーセント平等でいるなんて無理じゃなーい。ちゃんと仕事したかったけど、どうせ両立できないだろうしねぇ」

 シンデレラと共にさんまの刺身を放り込んだ。自慢の綺麗な歯並びが覗く。そういえば、ナラクって荒木だからナラクじゃないんだよな。今更なことをふと思った。

「女ってさぁ、結局一人じゃ生きていけないのよねぇ」

とろんとした瞳で呟いて、だらしなくテーブルに両肘を付く。脈絡のない話題に「どうして?」と尋ねた。何か嫌なことでもあったのだろうか。

「だってさぁ、高いピンヒールも、可愛いワンピースも、色っぽいメイクも、朝時間がないのに綺麗にセットする髪型も、清楚なネイルも、自分のためって肯定しているけど、結局は誰かに見て褒めてもらうためなのよねぇ。大学生の時にバイトしていた中小企業の社長がさ、女性はちょっとしたことで感情的になったり生理になると体調を崩したりして精神的にも身体的にも男に比べれば弱いっていう話をしていたのよね。その時はふーんって相槌打ってちゃんと聞いていなかったけど、今になるとすごく頷ける。結局男には勝てないのよね。だから、あたしは女っていう武器を生が終わるまで振るい続けなきゃいけないんだなって思うのよ」

 正直、何を言っているのか理解できなかった。きっとナラクも共感してもらおうなんてこれっぽっちも思っていなかっただろう。だって、それらは所詮限られた女性にしか使うことのできない諸刃の剣なのだから。

「ユキチは航平くんと結婚するのぉ?」

 前の話題などなかったかのように通常のテンションに戻って聞いてくる。「どうなんだろ」と適当に返しながら、茶色い燻製チーズを箸で摘まんだ。

「付き合って一年も経ってないし、まだ分かんないなあ」

「はあ? 分かんないってあんた、今年二十八じゃないの。航平くん、超いい男なんだし、この辺りで結婚しておくのがいいんじゃない?」

「うーん、でも、航平が私と結婚したいと思っているかどうか分かんないからさ」

「そんなの、確かめればいいじゃない」

 大袈裟に天を仰いだ。確かにと思うものの、素直に頷きたくはなかった。気の抜けたビールを少しずつ飲み下す。黙ってしまった私をまじまじと見つめ、何かを閃いたというようににやりと笑みを浮かべた。

「じゃあ、イイコト教えてあげようか」

「イイコト?」

「そうそう。恋愛のおまじない」

 チーズを飲み込んでからジョッキを置く。聞き返すほどじゃなかったな。ナラクの思いつきの言動で得をしたことなんて一度もない。いいよ、いいよ。やる気なく手を振った。

「そっかぁ。あのね、これは美容院に行った時に読んだ雑誌に書いてあったんだけどね」

「ええ、話すの?」

「え? もちろんよぉ」

 私の突っ込みに小首を傾げた。滑ったみたいでなんだか釈然としない。特段話したい内容も見つからなかったので、ナラクの話題に乗ることにした。

「それはね、付き合っている恋人と今後もすっと一緒にいられるようになるおまじないなんだってぇ」

「なんか、胡散臭いね」

「そんなことないよぉ」

 先ほどまで眠そうにしていた彼女がぐいと身を乗り出す。どこかのアイドルのようにキラキラした大きな瞳と目が合った。

「大丈夫。とっても簡単なおまじないだからぁ。その方法は――」

 顔を上げた。汗の冷えた手がとても冷たくなっているのが分かる。ああ、そうだ。そういえばそうだった。どうして、忘れていたのだろう。身体の力が徐々に抜けていくのを感じて、背もたれに寄りかかった。目の前で垂れ下がるポスターをぼんやりと視界にいれながら、太ももに置いていた右手をワンピースに付いたサイドポケットにゆっくりと押し入れる。シルクとごわごわした生地の感触がした。ドクン。心臓が大きく脈打った。

ナラクが言っていたおまじないを百パーセント信じていたわけじゃない。正直、馬鹿馬鹿しいとさえ思う。いつかニュースになっていた、バレンタインで意中の相手に手作りチョコを渡すときに自分の髪や爪を入れたり、いつかの映画で観た生理の血を食べ物に混ぜたりする行為と同等だ。何かの弾みで知られたら、気持ち悪がられることは間違いない。最悪の場合、別れを切り出される可能性もある。

「いやいやぁ、ありえないでしょぉ」

 口調を真似しながら、盛大に笑い飛ばした。ナラクは不服そうにまだ何かを言っていたが、相手にしなかった。残りのビールを飲み干す。炭酸は殆ど抜けてしまっていた。記憶力の悪い私は他人と交わした日常会話の約九割を忘れてしまう。その日の出来事もたわいない話だとすぐに忘れてしまうだろう。そう思っていたのだが、翌日の朝になっても後頭部の奥の方で沸いた泡のような考えは消えなかった。むしろ、日が経つに連れて徐々に大きくなっていった気がする。事実、航平に見合う女になりたいと思案していた時期でもあった。

裏地ではない方をそうっと摘まむ。昔の記憶が断片的に蘇り、走馬灯のように頭の中を駆け巡った。初めてスカイツリーの展望台に登って高所恐怖症の航平が大きな身体を縮めて子供みたいに座り込んでしまったこと、慣れないフレンチのコースを食べた時、苦手な生魚をこっそり彼が食べてくれたこと、天蓋のかかったキングサイズのふかふかなベッドがあるホテルに泊まったこと、Apple watchをくれたこと。そして、あの日――航平と私の誕生日に食事をしてApple watchをもらった日、私は彼が食事中に使っていた白いナプキンを、トイレに行っている間にこっそりとバレないようにポケットの中にしまったこと。

私はそれをじっと見つめた。ワンピースと共に何度か洗濯されてしわくちゃになっていた。取り出すこと自体を忘れていたのか、ナラクから聞いた「好きな人の体液が付いたものを持っていると成就する」という意味の分からないおまじないを信じたことが恥ずかしくなってあえてしまっておいたのか、お店のものを盗んだことに嫌気が差して忘れたことにしていたのか。真相は定かではなかったが、どちらにしても自分にはほとほと呆れてしまう。

心臓はまだ大きく脈打っていた。正直、自分でもどうかと思う。けれど、今はこれしか方法がない。大きく息を吐いた。ナプキンを八つ折りにする。三センチくらいの厚さになってしまったが、布なのでこれくらいが十分だろう。降ろしたパンツにそれを乗せて、強く引き上げる。股間に普段のものとは違う感触がしてなんだか気持ち悪かった。まあ、それでも今はありがたい。再びセンサーに触れる。血まみれの便器は何事もなかったかのように白さを取り戻した。開錠して扉を空ける。生臭い個室から出ると、清々しい空気が身体を包んだ。

「遅くなってごめん!」

 自動ドアの向こうから、航平が駆けて来た。よほど急いだのだろうか、スーツはよれて額とワイシャツの襟首には汗が滲んでいる。全然待ってないよ。悠々と手を振った。本当に、待ってはいなかった。黒いソファからふわりと立ち上がって出迎える。ハイヒールを履いていても高身長の彼との差は一向に縮まりそうになくて顎を上げた。

「何かいいことでもあった?」

 不思議そうな表情で彼は尋ねた。「どうして?」と聞き返しながら、大きく目を開いて微笑んでみせる。背筋を伸ばし、胸を張って、ぎゅっとお腹を引っ込めたら綺麗に見えるだろうか。彼と釣り合っているかどうかなんて分からないけれど、少なくとも彼の前では可愛い女でいたい。

「いや何となく。あとその服久しぶりに見たかも」

 血色の悪い唇が軽く吊り上がる。照れくさい台詞に下腹部がじんわりと熱くなった。向かいから担当の女性が資料を持ってやってくる。トイレットペーパーのことは後でこっそり教えてあげよう。私は航平と少しだけ距離を縮め、赤く染まっていくナプキンのことを頭の中で何となく想像した。

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