雑記-とある呟きの補足-

どうもどうもご無沙汰してます。さる冴です。
先日はきのこ展ありがとうございました。今年はメインジョブの方がバタバタしそうで、昨年よりも亀の歩みな活動ペースになってくかと思いますが、よろしくお願いします。この記事も下書きしてからもう1ヵ月経ちそうだ。

さて、これを読んでる方はお気に入りのものってどうしてます?
私の場合は作品にしても日用品にしてもそうなんですけど、お気に入りのものは宝箱しまっちゃおうって傾向にあって。それでも、そのものに対して良い評価がついてほしいというエゴもある。
布教しないと目に留まらない可能性だってあるのにね。
声を大にしてプレゼンしてこそナンボって時代なのは分かってるのに、なんで出来ないんだろうなって考えてた。
しつこく情報を発信する苦痛を取り払うにはどうしたらいいんだろ?って。

これは自分にとっての課題のうちの1つで。多分、これからも定期的に向き合っていく事柄なんだろうなと思ってる。

自分の価値の定義とは

出オチなんですけど、根本的な原因のうちのメインどころとしては
・自分の趣味嗜好は比較的ニッチだという自負
・他人からの否定を不用意に受け取りたくないという思い。
この2つが混ざった結果なんだろうなと。

自分にとって、大きな声で宣伝するということは反対意見の目に留まる事と同義。反対意見を言う人の中には勿論存在を否定するようなことを言う人もいる訳で。ものすごくぶっちゃけてしまうと、私は過激な否定の言葉で好きなものを踏み躙られることがとても苦手なのね。
私も癇癪持ちで苛烈な一面が出てしまうことがあるので、何かを批判する側に立つ時は本当に気をつけなくてはって思ってるんだけど、それはまた別の話で。
まぁそんな、過激な否定の言葉に出会っても、言われた側がマジョリティならば周りが擁護してくれる事もある。結果必要以上に侵害されることは防げる。ただ、少数側に居るとそうもいかない。1つの過激な否定の言葉を機に無数の心無い言葉をかけられる。そんな時に「突き抜けた何か」があるとものすごく心強い。「何か」は境遇(恵まれてるか否かは問わない)だったり技術やセンスだったりと色々あるんですけど。そういったものが表に出ると、今まで形振り構わず噛み付いていた人がふと我に返る、そんなシーンを何度か見てきた。

そんな何度かの経験のおかげかはわからないけど、「少数派が肯定されるには突き抜けた何かが無ければない」っていうバイアスが私にはありました。どんな評価をも跳ね除けられるだけの強い何かが無ければならないのだと。自分にはどれもこれも無いものだと思ってます。あるのは好奇心ぐらいかなって(笑
でもまぁ、外に目を向けたら別に自分が思ってるほど少数派ではないかもしれないし、突出した何かが無いと思ってるところからスタートしたって人もいる訳です。自分で自分の価値や可能性を決めつけてしまいがちなところがあるけど、それはすごく勿体無い。というか、それで価値が無いって判断するのはいささか飛躍しすぎだよねって。
ほんでこの発言に至る。

自分には特別な何かがなくてもまぁいいや、ぐらいの心持ちがあればある程度は気軽にオススメできるようになるのかなと。なので、繰り返し情報を伝え続ける事に苦手意識感じなくていいんじゃないかなと思う。
加えて今はだいぶ多様性に対して寛容な時代になったように思います。ここ数年は特に。私が昨年色んな方面に踏み出せたのは、その影響も少なからずあるんじゃないかなとも思ってるぐらい。このまま歩みを進められるといいな。

まぁ気軽に宣伝しまくった結果色々言われるってパターンもあるんだけど、その時どうしたらいいの?って部分については割愛。その辺は私が講釈を垂れるよりも、心理学とかメンタルケアについての考察読んだ方が100億倍良いからね!
というか私自身ここではまだそこまでガンガン宣伝できてないし。
これ読んでる人もさ、なんかそういう心に引っかかってるものがある人だと思うんだ。多分。いっしょにがんばろうね。

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