見出し画像

「『遊』『芸』『稼』『人』」日記|小野寺

大阪などの各地で不定期に開催されている「爆笑!ドラゴンボール亭」というお笑いライブがある。

私が足を運んだのはもう何年も前で、誰が出演するのかも分からなかったが、チケットの宣伝をされていた村橋ステムさんとPOØPY藤原さんが観たくて大阪行きの夜行バスに乗った。梅雨の湿気で髪がうねって鬱陶しかった。どこかの喫茶店で仕事をして時間を潰し、会場である日本橋UPsに向かった。入口でスタッフの方から配られた香盤表は、光っていた。今でも、その年の日記帳に大切に挟んである。
私はその夜はじめて、ママタルトや帝国チーズグラタンを直に目にすることとなった。

UPsは舞台の背景が真っ黒で、華やかでポップなお笑いの印象とはかけ離れていたが、そこが良かった。舞う塵も芸人の肌の凹凸も目視できるこじんまりとした会場に、私のようなお客さんが詰め込まれていた。テレビでは到底流せないアングラなネタに、私たちは弾かれたように声をあげ、反射的に手を叩き、腹をひくつかせて目尻の涙を拭う。


江戸時代、今でいうお笑い芸人は芸を披露することで、関所を手形なしで通ることができる特別な立場に置かれていた。明治に入って制度が変わり、「遊芸稼人」と呼称されるようになった。そして明治10年には「国家に益無き遊芸」というなんとも悲しい政府の見解が出たことで、芸人は非常に肩身の狭い日陰者の扱いを受けることとなったのである。昭和になると娯楽としての芸の需要が高まり、ごく一時期ではあったが芸人の収入増加の機会が訪れた。テレビの普及とともに昭和・平成には芸人をテレビで見ない日はなくなり、それは現在まで続いている。時代に翻弄され、立場を変えながらも、今日に至るまで「芸人」という職業は残り続けてきた。


肩の下まで伸びる長い髪がトレードマークの友保さんと坊主の小林さんのコンビ・金属バットも、先述したドラゴンボール亭の香盤表に名を連ねていた。明治に「遊芸稼人」がどんなニュアンスで使われたのかは判りかねる。しかし字面だけ見たとき、「遊」「芸」「稼」「人」という漢字は、ツレのニイちゃんたちがたら〜っとふざけて喋っているかのような芸風の金属バットにぴったりだと感じた。

あの夜に見た「左利きって天才っぽい」のネタは強烈だった。その夜たしか長居公園付近のホテルに泊まった私は、ベッドの上でいつまでも香盤表を見つめて、舞台の上の光を反芻していた。金属バットの友保さんが結婚したとのニュースを拝見した。本当に、おめでとうございます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?