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嫌々な気持ちで料理をしてはいけないのだろうか?

休園・休校が続いて、世の保護者の方々は日々、疲労とストレスを溜めて溜めて溜めまくっていることだろう。ツイッターを見ていても、悲鳴や愚痴が聞こえてくる。

そんな悲鳴と愚痴の中でよく見かけるのが「とにかく平日も休日も休まず三食作るのがしんどい」という声だ。つい先日も「お母さんが作ったご飯飽きた」と言われ「お母さんもとっくに飽きてます」と返したツイートがたくさんの共感を呼んでいた。

そんな食事づくりのつらさを吐露したツイートへのリアクションとして、時々見かけるのが「そんなこと思われて子どもが可哀想」「子への愛はないのか」というものだ。

別の方のツイートでは、子に向けた発言の中に「本当は嫌だけど義務感で食事を作っている」と読み取れる箇所があり、それを非難するリアクションをいくつか見かけた。さらに炎上させるのも申し訳なく、あえてツイートを引用はしないのだが、こういうリアクションがツイッターでは日常茶飯事であることを一部のツイッターユーザーはよくご存知だと思う。

食事作りだってただの家事だ

しかし、やりたくないけど仕方なく食事を作ることは悪いことなのだろうか? 義務感で食事を作られることは可哀想なことなのだろうか?

家事が趣味だったり息抜きだったりする人も世の中にはいるだろうが、多くの人にとって家事は「やらねばならぬからやるもの」である。やらねば家庭が回らないので、家によって主ふが一人で担っていたり、家族で分担して取り組んでいたりするものだろう。

「(清潔な服がないと自分や家族が困るので)仕方なく洗濯している」「(家が汚いと不衛生なので)面倒くさいけど掃除している」と言ってもそこまで大きな反発はされない気がするのだが、「(家族がお腹を空かせたり適切な栄養が摂れないと困るから)仕方なくご飯を作っている」というと何故だかひどい親であるかのようなリアクションが発生するのはなぜだろうか。食事作りだってただの家事のひとつだというのに。

少し前に「母親は(もしくは女性は)好きで料理をしているのだと思っていたが、どうやら違うらしいことを最近知った」と言う旨(だった気がする)のツイートを見かけたが、親が仕方なく料理をすることをタブー視することは、結果的にこういう誤った偏見を育ててしまうことに繋がるのではないだろうか。

「料理」は「愛情の証」か?

どうも「料理」は「愛情」と結びつけられやすい。親の愛の証として手作り弁当が強要されたり、夕飯の支度にお惣菜や冷凍食品を多用すれば「可哀想」と言われたり。

しかし、本来、家事としての料理の目的はあくまで「家族の健康を維持すること」である。そこにそれ以上の意味を持たせるかどうかは各々の勝手だ。

もちろん、料理に愛を込めるのは自由だし、凝った料理を作ったり、手作りにこだわったりするのも良いと思う。愛情表現の一つとして料理が使われることもあるだろう。そういえば私も若い頃、彼氏の誕生日に好物を作ってあげたことがあった。だがそれは、様々ある愛情表現の選択肢のあくまで一つではないだろうか。会話やスキンシップによって愛情を示す人もいるし、労いや見守りも愛情だ。

余談だが、私がまだ新婚ホヤホヤだった頃、職業柄もあり「旦那さんに愛情たっぷりの料理を作ってあげるんでしょう?」「愛のこもったおいしい料理を毎日食べられて旦那さんは幸せですね」などとよく言われた。

で、実際に彼が家で食べている食事はというと、私がせっせと彼のために作った愛情料理などではなく、私自身が作りたくて、または食べたくて作ったものか、私と夫の胃袋を満たすために仕方なく作られたものか(料理研究家だってご飯を作るのが面倒なことはある)、だいたいどちらかである。しかし、私は自分の作りたいものが作れて満足だし、夫は帰宅すればうまい飯が食べられて満足だし、ここに私から夫への愛情が介在しなくても、何も問題はなく我が家はハッピーである。

夫への愛ゆえに毎日手作りを何品も用意する、なんてことはしないので、しんどければ肉とナムルとキムチを買ってきて「今日は焼肉!」と済ませることもあるし、仕事が忙しければ大鍋いっぱいにカレーを作って三晩カレーでしのぐこともある。夫の「帰宅します」LINEに「すまんが途中でお惣菜買ってきてくれ」と返す日もある。

私にとって料理は、あくまで自分が楽しむための実益を兼ねた趣味であり、仕事の一部であり、分担された家事であり、愛情表現のツールではない。私は私なりに、別の形で愛情表現をしているつもりである(伝わっているかは不明だ)。

毎日用意しているだけでも愛じゃない?

そもそも、家族の健康のためにやりたくもない料理を毎日続けているのだとしたら、それも十分に家族への愛と言って良いのではないだろうか。手作りでなくても何らかの用意をしているだけでも、それは十分に家族のことを考えているのではないだろうか。

嫌々食事を作られる子が可哀想だとすると、それはきっと「可哀想」という大人のせいだろう。「家族のためになら苦もなく毎日料理を作れること」が(母)親の愛であり、嫌々料理をする親は愛がない、などと言う大人がいれば、嫌々料理を作る親の子は可哀想だということになる。

親だって人間だ。「家族のためになら苦もなく毎日料理を作れること」が親の愛だと言うのは親というものを理想視し過ぎている(特にこの理想視は男親ではなく女親に向けられることが多いようにも思う)。そして、親とはそういう生き物であるという思い込みは、いつか本人が親になったとき、そうなれない自分への呪いとなってその人自身を苦しめるかもしれない。

日々の食事づくりはまずは健康維持のためのものであり、そのついでにコミュニケーションツールになったり、季節や文化を楽しむもになったりするものであり、必ずしもそこに愛情が込められている必要はない。義務感で構わないし、適度に手を抜いたっていい。家計が許すならテイクアウトやお惣菜も活用すればいい。

食事作りに親の愛だとかなんだとかを絡めるから、食事作りがつらくなるのかもしれない。毎日三食用意するのなんて、料理が好きで仕事にしている私だってしんどい。しんどいのにしんどいとは言ってはいけない、表に出してはいけないと思うから余計にしんどくなるのではないだろうか。他の家事と同様に、家族の健康と生活のために、分担された役割として「食事づくり」を位置付けて考えた方が、ずっと健全であるように私は思う。

家庭料理というものを、愛を推し量るための物差しとして、しんどさやつらさをひた隠して、心を殺して作らせるものにしてほしくはない。料理を作ること、料理に手間暇をかけることを「愛の証」であるとする風潮も、親、特に母親の愛は無尽蔵であるという考え方も、そろそろ過去のものになってもらいたい。

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