見出し画像

僕は一度それについてエッセイを書いたことがある。

僕は今日のこのエッセイを「自分のもろさを知っている人」「それでも自分の世界でやっていきたい人」に読んで欲しい。
普段何かを書く時、誰に読んで欲しいかなんて考えたりはしないし、ゴール設定もしないけれど今日は普段と違う作り方をするんだ。結果、何も変わらなかったとしても。


僕は大学2年から3年にかけて毎日エッセイを書いていた。
当時付き合っていたカノジョがテーマを1つ設定してくれて、それがどんなに僕の生活に縁遠いもの、興味も関心もないこと、なんだそれと言いたくなるものでも無理やり振り絞って書いていた。500回くらい積み重ねたワンテーマの中でも記憶にある一番困ったものは電車の側面に書いてある「キハ」がテーマの時だった。

初めはテーマやそもそも文章を書き続ける行為に翻弄されていたのだが、星野源や松尾スズキ、椎名誠、宮沢章夫、伊丹十三のエッセイを読み漁って文体を真似したり抽出したりしてなんとかして形にしていった。

文章を捻出することは難しいことで、でもある時、スルッと方向性が決まるような体感を得たことがある。強度に問題はあったが、それは1つの型と呼んでしまっても差し支えないものだったと思う。
型のようなものが出来てからの僕は、エッセイストになれるのではないか、POPEYEの後ろ側で小さな連載が始まるのではないか、と錯覚するほどに書くことが好きだった。

僕がこの世界と少し仲良くなったのは、毎日仕事のように必死になって稚拙なエッセイを書き、累積するテーマが340を超える頃だった。
「僕はこれについて、一度エッセイを書いたことがある。」という体験が、そう思わせた。
友達が言う「就活メンドくさい」の「面倒くさい」について僕はエッセイを書いたことがある。その分人より知見がある。そんな気がした。
歯磨き粉にも一度付き合ったことのある女の子のような心の機微があって、
長靴についても何か人より多くを知っている様な気がしていた。


当時の自分が書いたエッセイを読み直すような行為を「元カノを思い出すだけだから。」と敬遠するようになってから、もう2年くらい経つのだと思う。

忘れたくても忘れられないものもあって、でも忘れなければ前には進めない。
そう思うほどに、思い出を脱ぎ捨てていくということが、嫌が応にも自身の変化を強制することで、それがあたかも朝の陽が持つ、まだ眠っていたい僕を叩き起こすどうしようもない傲慢さと同じように感じられた。変化することを僕はそこまで望んでいないという自覚をその時覚えた。

エッセイを書くという行為で僕は少し世界と繋がって、今度はパンを作ることを通じて、まだ知らない世界を知ろうとしている。カノジョが元カノになって、大学生だった僕も社会人となった。社会人2年目の冬、山梨から東京へ修行にきた。

これまでの僕が通用する世界など東京にはないとすぐに分かった。

山梨で働いていた時とは違って、職場に知り合いの知り合いや、同じ高校出身の人がいるはずもなくって、それまでのやり方では足りない精度が求められて、それが当然のことでいよいよ今までの僕が大切にしてきたような自分自身であったり、
思い出でコーティングした見栄えだけ良い内面的な弱さ、もろさなどは早々に捨ててしまわねばならなかった。

半年が経っても僕は何も捨てられなかった。
東京で誰かと過ごす時間は僕に安心など与えてはくれない。
懐かしい景色と食べ慣れた料理と、見知った友達を思い出して、自分という殻をより強固なものとしてもう1人で内側から破るにはあまりにも頑丈に塞いでしまっていた。

衝動的に山梨へ帰ろうと思った。山手通りを歩きながら山梨でお酒を飲む最適な友達にアポを取った。東京から出てしまったらもう戻っては来れないとそう思っていたけど、安心を求める僕は足早だったと思う。

馴染みのマスターがいる馴染みの店で、ほとんど恋い焦がれた友達と、よく知ったワイナリーの見たことあるクレジットが並ぶ中から、2人で最初の一杯はやっぱり一番馴染みのあるワイナリーの白にしよう、と飲んだワイン。その白ワインは僕を圧倒的に肯定する味がした。


僕たちがワインを2、3杯飲み終わる頃、迎えを頼んでおいた妹2人が到着した。
時計は26時を回ろうとしていた。
ラーメンが1番美味い時間帯を僕たち兄妹は熟知している、実家までの道のりで24時間空いているとんこつが売りのラーメン屋さんで餃子とチャーハンとラーメンを各々頬張った。友達とワインを飲んだお店のフードは終わっていたし、職場から大急ぎで帰った僕のその日最初の食事だった。

黙って帰ったからほとんどサプライズになってしまった久々の「おはよう」を済ませて、両親と少し話した。僕の両親は、自営で僕と同じ職業をしている。「実家が山梨のパン屋で、」は、僕のアイデンティティーの最も大きな部分だと思っている。

本当は、今の職場で何もうまくいっていなくて、たまに死に方を考えたり、朝が怖くて寝ることが出来ない話をしてみたかったけど、父と母にそういう話をする気になれなかった。
東京へ出てきて、僕をはじめ妹2人も大学へ出して、ひいおじいひいおばぁの頃から続く実家のパン屋を守っている両親を本当の意味で理解し始めている。
僕は、尊敬もあって、情けないと思われたくなくって、それを言ったら父と母は戻って来てもいいと言ってくれるだろうし、甘えたい自分を十分すぎるほどに自覚していた。
この時踏みとどまったから僕は今一応、東京にいる。

友達と会って、行きたいお店に顔を出して、東京へ向かう電車を待っていた。
ホームのベンチに腰掛けていたその時、停車していた電車の側面の「キハ」から始まる記号が目に止まったのは、偶然ではないと思う。
もしかしたら自分でそれを探していたのかもしれない。

最後に寄った馴染みのお店は、女性が1人で切り盛りするお店で、仲良くしてくれていて、元カノとの思い出もある僕のもう1つの実家のようなもので、だから僕はお店を切り盛りする「りっちゃん」に仕事がうまくいっていないことと、それに伴ってどうしても元カノをずっと引きずっている話をした。

山梨から池尻に帰る途中、職場に寄ることにした。
もう前から辞めたい話はしていたし、その帰りに寄って上司とした話の中で、僕は僕というものになんの関心もなくなって、どうでもよくなって、これまでそれでやって来た自分という型を強制するなら、いつか継ぐ実家のパン屋にとっては遠回りになても他の仕事をしよう、生活が脅かされないような仕事をしようと思った。

次の日僕は生まれて初めて無断で休んだ。
言い訳も嘘もつかずにただ休むのは、人生でもこれが初めてだった。
嘘もつかなくなるということが最も悪質であることは後で知った。

あの手この手で職場の上司は僕の電話番号を探したらしい。
普段連絡を取っていたLINEは僕がブロックした。

電話越しの上司は怒るわけではなくて、最終的に任せるとだけ僕に伝えた。

仕事が嫌で、勝手に休んでそれでもいいとすることは、実は簡単なことで、
行かないという選択肢しかないフリをすれば、こじつけるのは容易だった。

僕は僕の生活が仕事に脅かされている今が嫌だった。
父のように働きたいとも思っている。
僕は僕の世界が好きで、読み慣れた本を何度も読み返したくて、聴き飽きた音楽が好きで、食べなくても味の分かるあのお店のあのアテが好きだったりするのだ。
殻を脱いで、ぎこちない新しい型にはまって集中力を保ち続けること、自分を晒け出すことが怖かった。
思い出をいつでも振り返りたいし、誰のことも忘れたくないのだ。
だから言葉を用いてきた。
忘れるために書き換えることをして、
思い返すために書き残して、あたかも自分がそういう人であるかのようにプロフィールを書いた。

2017年の冬に僕が書いた「キハ」のエッセイで、
「キハ」は、車掌さんたちが居酒屋で「あのキハがなあ」と話すための記号なのではないか、「自分たちの世界」を楽しむ記号。私というのは、誰か、何かがいてやっと私になるのではないか。キハは記号で、記号は人と人の間を繋ぐもので、その間は関係性と呼べるもので、その関係性に人は住んでいるのではないか、
自分の人生と関係なさそうな「キハ」さえも噛み砕いてみれば、色んな想像ができて、でもそんなことで、人と人との間を生きていけるのではないか、とそう言うのだ。

思い返す能力と忘れる能力その両方で僕たちは生きていて、その繋ぎとめておく力と切り離す力で自分の世界を作っていく。作った世界は言葉になって、言葉という記号で少しずつ一般化され、自分たちの世界になっていく。

この世界を咀嚼しきることは叶わなくても、言葉にして、噛み砕くというプロセスを経て、世界を何かちょっとだけ知った気になれる。
知らないより知っている方がいいし、分からないより分かる方が良くて、手に取らないで取り零すより、手に取った方がいいんだ。
狭い世界に1人でいることと広い世界に1人でいることの、どっちがいいかなんて本当は、僕たちは分かっている。



この記事が参加している募集

振り返りnote

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?