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『「エッセイストになりたい」ボーイ』

エッセイとして書いたnoteのリンクをTwitterに貼る。そうすると、たまに会う友達に、
「日記的なの、あれなに?」と、よく言われる。「エッセイストになりたいボーイ」からしたら、実に由々しき事態。

「エッセイ」を「日記的なの」って、言われちゃう様な私が、これからも「エッセイ書きながらさー」なんて、言うの恥ずかしいなぁと、思う。

というか、
なかなかやりおる「エッセイストになりたいガール」が、ネット上の身近にいて、「優香」というのだが、そろそろ、私も、ふざけてる暇はないなと、見事に私も狂わされそうだ。

なんで、「エッセイ」を書いてるのか、
真剣に考えよう、そう思った。

ただ、これは完全に、独り言になる。
それも、長くて、声が大きいタイプの。

だけども、やはり、読んでくれたら、
嬉しいなぁ…おこがましいんだけどね。

**

さて、なんで、「エッセイ」を書き始めたか、
それは、完全に、星野源にアテられたからに他ならない。

『そして生活はつづく』を読んで、
変なスケベ心が芽生えたね。

「こんなに自分自分した話、
初めて読んだ!アリなんだ!」ってね。

文学は嫌いだったし、エッセイは手に取るのも初めてで、
「万城目学と、池井戸潤しか読んだことないボーイ」だった私にとって、
『そして生活はつづく』は、カッコよかった。

だから、入口は、ただの憧れ。
それも「エッセイストになりたい!」じゃなくて、「星野源になりたい!」だった。

そう、で、髪の毛も、笑い方も星野源に少し寄せてた。

エッセイを書いてるうちに、気づいたのは、
「星野源になりたい」んじゃなくて、
「文を書くのが、好きなんだな」ってことなのね。

星野源は好きだけど、
「星野源になる必要がなくなったボーイ」は、
宮沢章夫のエッセイと、
松尾スズキのエッセイ、
オードリーの若林を読みながら、
「これからも、書くことで生きたいなぁ」って
思う様になったんだよね。

これが、大事なことで、
「書くことも仕事にしたいって」っていう、
心の機微が、私にたくさんの言い訳を用意しちゃってるし、私を苦しめてもいる。

「書くこと」って、応用が効きすぎるのだ。

私は、おそらくこのまんま「パン屋」になる。
そりゃ、70数年も続く家業を、
「じゃー辞めまーす」なんて、言えない。
けど、少しかっこいいイケてる事もしたい。
(今は、イケてない。)

だから、「書くこと」を同時進行で、
「パン屋」を拠点とした、「場」を作りたい。
そんなことを思い始めて、
なお一層、苦しくなってる。

なにせ、
「エッセイストと、パン屋」っていう、2つのパーソナリティが、カッコ良すぎるから。
そして、「パン屋」をやる以上、
「書くこと」で、諦めちゃいけないことも、
直感で理解している。

ある意味で、それは、
「エッセイストになりたい」って言うのが、
手段なんだよね。

私のメインは、「パン屋」になること。
その戦略と、「書きたい欲求」の狭間に、
「エッセイスト」がある。

そうなってくると、
美味しいものを、美味しい。って言うだけの
エッセイを書きたいんじゃないんだよね。

いかに、自分っていう、ローカルメディアに興味を持ってもらえるか、さらに、
それと同時に、エッセイの中でモノをレコメンドできるか。

未来の自分の為を思うと、
そういうエッセイを書くべきだなって。

「エッセイ」は、
書きたいから書いてるから、
具体的な目標なんか、無くて、
あるのは、「人を惹きつけたい。」って事だけなんだよね。

それだけなら、「エッセイストじゃなくてもいいやん!」って思うかも知んないけど、
これこそが、
「エッセイストになりたい」って言うポイントなんだよね。

星野源の『そして生活はつづく』に感じた、
「自分自分した話」感。
それに、これからの久保田真司がやろうとしていることと、それを言語化していくなかで、
「エッセイ」の親和性が高いのだ。

元来、自分大好きマンだから、
「エッセイ」も、多分向いてるハズなんだよね。

そして、何より、エッセイは
ノンフィクションなのであるよ。

さっきも言った様に、
「美味しいものを美味しいって言うだけ」では足りないんだけど、
「美味しいものは美味しい」ワケで。

そうなると、
エッセイは、デザインなんだよ、多分。

自分が、見て、感じて、考えたことが、
アタマと、ココロをぐるぐると巡る。
それを、「誰かにシェアしたい!」
ってなると、言語化が必要で、
そこで、デザインが必要なんだよね。
つまり、「エッセイ」。

ありのままを、
伝わる書き方で、書き切る様な。

心の機微を、最後に、他者に見せたり、
伝えたりする仕上げは、デザインであって、
それは、エッセイでもあるんだよね。

ノンフィクションをデザインするっていうのは、なんていうか、やはり、「エッセイ」の醍醐味だと思う。

どう生きるかではなくて、どう物語るか

いちばん大切なのは、そこなのだ。
エッセイの魅力もそれに尽きると思う。

これは、例の「優香」が言ってたけど、
概ねその通りで、「どう物語るか」。
私が言う、デザインは、
優香の言う、「どう物語るか」。

私に関して言えば、
「生き方も大切なので、生きる手段として、
どう物語るか。」

そんで、
ノンフィクションなエッセイっていうのは、「脱フィクショナルデザイン」だなって思う。

まぁ、今作った久保田語なんだけど、
自分の、売りたいパンがあったり、
共有したい場がある私は、
やはり、エッセイとして、現実を描ききる必要があって、それも、
「人を惹きつける」為のものなんだよね。

確かに、エッセイストになりたいけど、
とても背徳的な、エッセイストだと思う。

あざといね。

虚構であって、現実なエッセイ。
自分であって、自分でない自分。

なんか、もう、モラトリアムの真っ只中。

私は、これから何回、
人の文章に嫉妬しながら、
「それでも、エッセイストになりたい!」って言うんだろう。

手段としての、「エッセイスト」なんだけど、
元を辿れば、やっぱり、それも憧れで。

怖いくらい稚拙な言語能力だし、
見たものを見たまんましか書けない私で、
インプットの枠を越えれないんだけど、
それでも、
かっこいい「エッセイスト」に、
イケてる「エッセイスト」に、
人を惹きつける「エッセイスト」に、
ならなきゃなぁ、って思うんだ。

気持ちだけは、
もうもはや「エッセイスト」なんだけど、
んー。

書いてないと、不安になるし、
noteで、エッセイを書いてる間は、
「エッセイストになりたい!」が、許される気がするんだ。

だから、今日も、明日も、私は
エッセイを書くのだ。

**

もし、私の独り言を読み切ってくれたなら。
あなたは、絶対に、ステキな人だ。

そう思う。

で、本当は、『ソトコト』で連載したいです。


#エッセイ

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