遠く
「遠く、遠く、離れていても、君のことが分かるよう」な時代になったから、凄い。
「ほんとに久しぶり感無いねぇ」って、言われるのは、私であるが、それは、
ツイッターや、インスタによく居るからだろう。
みんなの近くに居る私は、
遠くに行きたい衝動が、たまにではあるが、
少なからず2ヶ月に一回くらいある。
なにが良くて、遠くにいくのか。
それは、ひとえに、「当たり前」が違うからだ。
例えばの話、地元かつ近所を、歩くときは
3回くらい「あっこんにちは!」って言う。
けれども、海外なんかに行ってみたら。
「あっこんにちは!」なんて言わないで済む。
アフリカに持って行って、現地の人に見せたら、皆んな逃げるようなものを、
私たちは平気で食べる。
納豆とか。
それを玉子で包んでみたりもする。
納豆オムレツとか。
「私たちは平気で食べる。」の
「私たち」すら、ある種、
当たり前に束縛された主語である。
だからこそ人は、「当たり前を疑え!」なんていうんだろう。
それがいいとか悪いとかではなくて、
私は、「当たり前」の面白さを、
今、知るべきなんだと思う。
日本の頑張りどころ、観光。
それは、「日本」にとどまらず、「日本各地」で頑張りたい産業であろう。
私が住む山梨県は、ぶどうがあって、山があって、東京から近くて、なおかつ田舎で、
住みいい街だ。
山梨の「当たり前」に慣れると、
「山梨は何もないよ」と言うことになる。
ただまぁ、今日のテーマは、「観光」とか、
「山梨」とか、「当たり前」でもなくて、
「遠い」であるから、
話を振らねばならない先に、「光」がある。
山梨は、観光すべき街であると思うのだ。
というのも、夜は暗いのだ。
都会に住むみなさんの夜は、ちゃんと暗いだろうか。
昨日、Re:sの藤本さんが、ぽろっと言ってたが、「光をみる、で、観光なんだよねぇ」とは、そういうことなんだと思う。
その土地の特有の、光をみるんだろ、と。
山梨の朝日は、バックに富士山がいて、
夜空は綺麗に見えて、
日差しの差し込む山と空は、なんとも
心を穏やかにする。
東京には、東京の、
京都には、京都の、
台湾や、イタリア、アフリカにも、
それぞれの光がある。
そして、それをみにいく。
当たり前に私たちを照らす、その光は、
同じなようで、多分、少しずつ違っているんだろう。
私はたまにではあるが、2ヶ月に一回くらい、
遠くに行きたくなる。
違う光、遠くにある光を、観にいきたくなる。
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