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好きを持った

「好き」と思うことは自由で、
「好き」と口にすることは不自由を意味するのだ。
言ったら最後、突き進むか打ち破れるかのどちらかなのだ、その不可逆性を僕たちは恋と呼んでいるに過ぎない、
なんて言う真面目くさった話がしたいのではない。

とても久々に好きな人が出来た。
好きな人と話した、
好きな人に「好き」と伝えてしまった、
後戻りなど出来なくて、友達でいいはずなどなくて、
やるしかなくて、
返事は意外と「YES」だったりして、
僕はもうほとんど幸せの真っ只中なのだ。
もうほとんど、そうなのだ!

世が世なら、僕達も僕達で、
まだ夜に近所の公園へ行くことしかしてない。
幸い僕たちははじめ、ただの近所だった。

山梨から上京して、その時から知った気がしていた池尻で
僕は多分きっと最後の恋をしているのだ、「どうだ!」と言ってやりたい。いやもうほとんどそう言っている。

恋の素晴らしさについて語る時、
好き勝手に「好き」と言える点について必ず触れる必要がある。

モノについてスキを語ることが良いことであるとみんながそう信じるようになって久しい。
けれども、
ヒトに対して「好き」だなんて言うのは、むしろその逆で、言わない方が痛い目を見ないで済むのだ。

多くの痛い目は、ほんのちょっとボタンをかけ間違えた「好き」から始まってる、でも僕は、
本当に好きな人に、「本当に好き」と言って構わないのだ。

仕事でヘタをしても「好き」と言うだけで、
明日頑張らなければいけない状態を作ることが出来る。
美味しいご飯が美味しいのは、「好き」と伝えて構わない相方が隣にいるからで、眠たいはずの夜に駆け出すこともまた同様なのである。

好きだから好きなのだ。
「どうして」なんて求めてはいけないんだ、ということを僕たちは知っている。
そして、「どうして」を求めることに意味などないからこそ、
僕たちは、「好き」と伝える言葉をそれほど多く知らないのだ。

「好き」と言う言葉以外に「好き」と伝えられたら、
「好き」以上の愛を言葉に出来たら、もっとずっと世界は広がりを見せてくれるのではないか。
僕たちは大人になったけれど、愛するための言葉を未だに知らないままで、伝えられなくて、だから伝わってこなくて、試すことで愛を知ろうとするのだ。

愛情とは1人の時に芽生えるもので、
だから実は、恋というのは1人でにするものなのだ。
たまたまそこに、「好き」と伝えて良い人がいる、
「好き」と僕に言われても困らない相方がいる。

伝えたことが伝わるとは限らないのと同じように、
存外、言外に伝わっていることがあって、
そう思うと、1人の時間、例えばそれが仕事であったとしても、アナタを想うことが出来るのだ。

出来たのならば、それで良いと思う。

僕が思うよりもずっと、相方はボクを想っていたりするのだ。
1人と1人を重ねた先に、
赤の他人の2人が、幸せを歩くのだ。と、思う。

シンプルな話なんだと思う。

これは随筆。

照れを文体で隠した僕がいる。
さながらそれは、近所の公園を相方にバレないよう
ニタニタとさんぽする僕そのものである。

ただ、「好きだ」と言いたいだけの僕がここにいる。

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