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恋愛小説を越えた、新しい関係性の物語--『流浪の月』

昼間8000字くらいの感想を書いたのに、別タブを開いて消えてしまった…。悔しすぎるので、短くして書き直しました。

以下、ネタバレを含みます---


本屋大賞を受賞した凪良ゆうさんの『流浪の月』。銀英伝のBLを書いていたという経歴に、勝手に親近感を感じ、読んでみた。

恋愛小説という誤読

ネットニュースやレビューから、読み始めるときには、こんな風なあらすじを予想していた。

義父母の家に帰れない9歳の女の子が、19歳の男子大学生に〝誘拐〟された。2人はお互いを想い合い楽しく暮らすが、ある日、無関係の人々の通報により引き離される。そして、世間から〝監禁事件の被害者〟と〝加害者〟として、同情や偏見を押し付けられながら暮らす。しかし、数年後、彼らは再開する。待ち受けていたのは、2人の関係を理解していない人々からの、一方的な糾弾だった。

展開として間違ってはいないけれど、私は大きな誤解をしていた。それは、〝恋愛小説だ〟と思い込んでいたこと。この物語は、小児性愛を純愛として描いたものでは、ない

文についてのミスリード

主人公、更沙(さらさ)を誘拐する大学生、文(ふみ)。彼については、実は一つのひっかけが仕掛けられている。

冒頭から、更沙は文を「ロリコン」として言及している。ニュースではよく見る文字列だけれど、紙の小説のなかで見るとかなりインパクトの強い単語だ。この言葉に引っ張られて、読者は、つい「文は更沙に対して、恋愛感情を持っているのだろう」と思いつつ読んでしまう。(監禁中に、性的な暴行をしなかったのも、恋愛感情ゆえなのか…という理屈で。)

しかし、後半になり文の物語が明らかになると、この認識が間違いだったことがわかる。文は、二次性徴を迎えなかった。

トネリコの木が象徴する不安

文の母親は、教育本通りに子供を管理・訓育しようとする強迫的な人だった。幼い頃、彼の家にはトネリコの木が植えられていたが、「きちんと育たないから」という理由で、母親から捨てられてしまう。(映画「レオン」のオマージュを感じて、ますます著書さんのことが好きになる〜)

文は、身体が発達しない自分も、同じように捨てられてしまうのではないかという不安に取り憑かれる。

中高生になり、同世代の女性が成熟していくのにも恐怖を覚えた彼は、あるとき、自分が小さい女の子をかわいいと思っていることに気が付く。恋愛や性愛の〝普通の〟レールから外れた彼は、自分を〝ロリコン〟という別のレールに追い込むことにしたのだ

文が得た二つの自由

そんな文は、出会うべくして更沙と出会う。自由人の両親に育てられた更沙と、共同生活を送ることで、文は、今までの人生にはなかった自由を手に入れる。一つ目は、夜ご飯にアイスクリームを食べたり、ピザをデリバリーして食べたりする、生活における自由。そしてもう一つは、恋愛とも性愛とも違う精神的な面で、更沙と深く繋がるという、社会的な関係性の自由だ

更沙は、早くに両親をなくし、義父母の家で、義兄から性的な暴行を受けながら生きていた。そして、両親譲りの奔放な生活スタイルは、世間から白い目でみられる。文と出会い、文に自由さを受け入れられたことで、更沙は強い肯定感を覚える。2人はお互いの欠けているものを埋め合う、半身なのだ

小説のなかで描かれる小児性愛

同じく「ロリコン」を描いた作品として、木原音瀬さんの『ラブセメタリー』が印象深い。3つの物語からなる短編集で、『流浪の月』とは違い、性的な欲をともなう小児性愛の話だ。

表題作の『ラブセメタリー』では、主人公、久瀬が、「幼い男の子にだけ強い欲望を持ってしまう」という性癖に葛藤する。「いつか暴行をおこしてしまうのではないか」という不安に耐えきれなくなった久瀬は、自ら精神科に向かい、薬物治療を申し出る。

エピローグでは、そんな久瀬に対し、家族持ちの親戚が「(イケメンで、社会的な地位もあって)うらやましいよ」と悪意なく言う。その様子は、『流浪の月』で、更沙と文が、大勢の人から何の理解もなく責められる様子に似ている。

私たちが、他人の暮らしや生活について、何気なく話すとき、その人が持つ大切な関係性について、無意識に偏見や同情を押し付けてしまうリスクは、常にあるのだ。


『流浪の月』には、更沙にDVを振るう元彼、亮君という人が登場する。亮君は、バイオレンス映画で暴力的なシーンが流れてきてもニコニコしているような人だ。〝恋人と映画を見ている〟という様式さえ整っていれば、物語の内容は気にしないのである。

どうか自分が、亮君のように器ばかりに気を遣うのではなく、物語を大事にできる人間になれますように。

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