治すと治るの違いって?
寺子屋さらんは、「体と心を調える」がテーマです!と、色々なところで繰り返しお伝えしています。皆さんもどこかで目にしてくださっていると思いますし、もう見慣れてしまったという方もいるかもしれません。今日はもう一度、この言葉の真意に立ち帰ってみたいと思います。
治す
寺子屋にお越しくださっている方々の年齢層は40~80代が多く、皆さんそれぞれに体の不調があってご参加さる方が多いです。参加のペースや頻度がそれぞれ異なると同時に、気合の入れ方もそれぞれ。どんな心持ちで取り組むのが、体と心を調えるのに効果的なのでしょうか。
わたし自身もそうでしたが、難病と診断されたその日から「絶対に治すぞ!」と100%の気合いを入れて、良いと思ったものは片っ端から全部試し、「病気を治そう!」とがんばっていました。が、なかなか効果は表れず・・・。難病ですからそう簡単には良くなってはくれません。がんばって治そうとすればするほど、結果が表れない現実がもどかしく、がっかりしました。
そして入院生活中のある日、病室のテレビで仏教の番組が流れてきたのです。それは坐禅のお話でした。自分をコントロールするのをやめて、自然にそのままに、ただ座る、といった内容(だった気がします。)ハッ!としました。自分は自分の体を治す意識で、体をコントロールしようとしていたのではないか!?と。わたしが治す、というなんと傲慢な考えでしょう。長年体に負担をかけてこき使ってきたくせに、良いことをしているつもりで、体をコントロールしようとしていたのです。
治る
坐禅では、心に浮かんだ様々な煩悩や執着を、そのまま流します。消そうとせず、否定せず、反応せず、殊の外肯定することもなく、ただ、感情や思考が自分の中を通過していくのをそのままにさせます。湧いては消え、また湧いては消えていく煩悩を繰り返し通過させているうちに、通過させている側の視点や器が育っていきます。もしや、病もまた同じことなのではないか!?と確信するようになりました。
病が体の中に湧き起こったことは、それにつながる生き方の癖があったこと、それは自然な因果のできごとであることに思い至りました。雨が降るのを止められないように、病もまたコントロールすることはできません。雨雲が通過していくように、病が自分の人生を通過していくのをありのままに受け入れる。それが「治る」ということ。わたしにできることは、病が通過しやすいように手助けをすることだけでした。しっかり食べて、よく寝て、人と良好なコミュニケーションを取り、適度に動く。動けないときは横になって、体の言うことをよく聞いてあげるのが、1番早く通過させるコツなのだと知りました。
因果を理解することの大切さ
また、体が治るのには「心が治る」ことも不可欠です。体と心はセット。体に症状が表れる前に、必ず心になんらかの大きな負担がかかっています。小さな怪我にしてもそうです。
心には表と裏があり、表側は「負けずにめげずに明るくがんばっている」ように見えても、裏側は「もう無理、泣きたい、逃げ出したい、やめたい」と感じていることもあります。裏側の心の声は、いつ誰が聞いてくれるのでしょうか?自分が裏側に目を向け、耳を傾けてやらなくては、いつまでも誰にも見出されないのです。隠せば隠すほど、体が代わりに訴えてきます。それが病の因果です。
心の裏側の声を見ずして、体だけをコントロールしようとしても、効果は表れません。まさに、わたし自身がそうでした。心の状態を作り出しているのは思考。病が体を通過するのを妨げるのは、思考です。これが厄介!無意識にやっていることなので、自分で気づくには訓練が必要だからです。(それを修行と言うのかな。)
体と心を調える
冒頭のテーマに戻りますが、体と心はセットなので、両方を調えることが健康のカギとなります。もちろん、体が調ってくることで心も楽になる、という逆のパターンもあります。治すのではなく、治る。我(ガ)から離れて、自分に起きていることをきちんと受け取る。それが根本から自分を調える、真の健康への第一歩です。
が!一人で受け取るのは勇気とパワーが要るので、ぜひお寺にお越しいただき、各講座の先生や、受講仲間や、わたしや住職といっしょに、みんなでいっしょにがんばりましょう(^-^)気軽にでも気軽じゃなくても、どうぞお寺へお越しください☆
仏教講座のお知らせ
仏教講座では、仏教の視点から自己を見つめる方法の学びや実践、思考からの解放などを、全3回に分けて学びます。毎回、最後にプチ坐禅があり、夜の本堂で5分ほど静かに座ります。体や心に引っかかっているものを上手に通過させる手助けになりますので、気になる方はホームページよりお問い合わせください。