第二六話 なんにもない一日、いろいろあった二人
五月初旬。
ゴールデンウイークど真ん中の、よく晴れた日の午後。
「ね~夕、これって五巻から先、もう出てる?」
「え~と、確か先月八巻が出てたような」
「そっか、じゃあ取ってきて」
「取ってきてほしいならどいてよヤミ先輩……」
「え~、めんどい~」
よく晴れた、って言ってるにもかかわらず、あたしたちのいる場所は、陽の光から完全に遮られた、とあるネカフェのカップルシート。
シートは二つあるけれど、片方のシートに座った夕をあたしは椅子替わりにしてるから、個室内のスペースがちょっとばかり勿体ないことになってる。
「でも、そろそろ足しびれてきた……重いよヤミ先輩」
「……それどっちの意味? 答え次第ではわかってんだろうね?」
「え~、何するつもりなの?」
「泣く」
「重っ!」
そう、アレから三か月。
あたしと夕は、一応、まだ続いてた。
「そいえばさ、ガッコどう? 夕」
「毎日ついてくの大変。補習もあるし。思ったより厳しいよ」
「へ~、ウチにはそんなの全然ないけどね~」
「そりゃ、そっちは自主性を重んじる自由な校風だし。みんな何も言わなくても勝手に努力するって話だし」
「ま、あたしみたいなのもいるけどね~」
「またそういうこと言う~」
あのあと、夕はなんとか都立にすべり込み、電車と徒歩で一時間近くの道のりを、毎日休まず通ってるらしい。
マジメか。いやマジ真面目なんだよねこいつ。
おかげでこうして、休みの日にくらいしか会えないじゃんか。
……ホント、むかつく。
「ヤミ先輩の方はさ……学校、戻らないの?」
「……さあね」
「もったいないな~、俺なんか逆立ちしても入れないトコなのに」
そしてあたしは相変わらず、学校にも行かず、平日もずっと暇してた。
退学届は、結局出してない。
ついでに、家にちょっとだけ帰ったときに見つけたんだけど、リビングのテーブルの上に、領収済みの授業料納付通知書なんてのが置いてあった。
どうやら、勝手に親のどっちかが手続きを済ませてたらしい。
“愛する”娘の将来を案じてか、金が余ってたか、良心の呵責か……どんな理由かは、わからないけどね。
「そんなに入りたかった? ウチの高校」
「だから受けたんじゃん。一応、必死に勉強してさ」
でも、そんな微妙な家庭の事情なんか、今のあたしには大して気にならない。
だって、あたし、今、浮かれてる。
これまでの……って言ったって、まぁまだ短い人生の中ではあるけど、それでも一番、浮かれてるんだ。
「そんなに、あのコと一緒に通いたかった?」
だから、勢いあまって、こんな地雷までも踏みぬいてしまう。
「…………受かってたら、ヤミ先輩とも同級生になれたしね」
「…………そ、っか」
夕は……
少し時間を使ったけれど、慎重に、言葉を選んで、あたしが踏んでしまった地雷を撤去してくれた。
けれど、その優しさが、余計にあたしの心をざわつかせてしまう。
夕は、気づいているのかな?
あたしが復学しない、たくさんの理由のうちの、とある一つ。
知りたくも、見たくもない人が、そこにいるからって、こと。
『もう今はそうじゃない』とも『どうでもいい』とも答えられない。
未だに夕が、ほのかな未練を感じさせる、会ったこともない人が……
最初のうちは、からかうために、根掘り葉掘り聞いてた。
けれど今は、めっきり彼女の、そして彼女にまつわる夕のことを聞かなくなった。
彼女の名前も、二人が通ってた中学も、だいたいの住所すら。
「ね、ねぇ、ヤミ先輩? 今日、この後どうする? どっか行く?」
「夕、どっか行きたいの?」
「いや、ヤミ先輩がさ……せっかくのデートなのに、こんなふうに引きこもってばっかりでいいのかなって」
「……引きこもりの何が悪いの?」
「いや悪いでしょ健康的な観点で」
わかってない。
夕ってほんと、なんにもわかってないなぁ。
あたしの求めているものが。
自分の与えているものが。
その、かけがえのなさが。
なに一つ嫌なことがなくて。心も疲れなくて。それどころか楽しくて。
好きなヤツと、ただ一緒にいて、体温を感じて、匂いも独占して、さ。
「こういうのでいいの。こういうので!」
「ちょっ、だから重いって!」
ぐいぐいと背中とお尻を押しつけると、夕は、迷惑そうというよりは、照れたような、戸惑ったような、可愛げのある反応を見せてくれる。
あたしを優しく座り抱っこしてくれてる夕の、その膝の上は、ちょっと“色んなもの”がゴツゴツしてるけど、温かい。
今のあたしには、この場所があればいい。
……この場所だけが、あればいい。
「んっ」
「ちょっ、ヤミ先輩、ここネカフェ……」
顔だけ夕の方に向けて、甘えるように唇を突き出す。
「個室じゃん、ん~っ!」
「……ん」
すると夕は、最初こそは戸惑うものの、まだ、あたしのおねだりを躱せるくらいの余裕は持ち合わせてなくて。
「ん~っ♪」
「んぐ……っ」
夕の、恐る恐る入ってくる舌が、流れ込む唾液の味が、あたしの脳を蕩けさせる。
ほんっと、何かキメてんじゃないのってくらいに、ビリビリに感じてしまう。
こんなに、心地いいところ、この先、見つけられるのかな?
……また失ったら、どうなっちゃうのかな?
「んむ……んく、んくぅ」
「はぁ、ぁ……ひぅっ」
だからあたしは、この場所を、守るんだ。
ずっと、奪われないようにするんだ。
だったら今、気にするべきは、夕の、憧れの彼女のことじゃない。
そんな、自分にはどうしようもできないことじゃない。
あたしが何とかすべきなのは、あたしのことだ。
「夕、夕……ん、んっ」
「ちょっ、あんま声……隣に聞こえっ」
学校、どうするんだ?
家のこと、最低な父親のこと、何もしてくれない母親のこと、どうケリつける?
そこをちゃんとしないと、せっかく手に入れた大事なものを、また失ってしまう。
するりと、逃してしまう。
「いい、じゃん……聞こえても、さっ」
「いやそりゃ……恥ずか……ぁぁっ」
そろそろ、ケリつけないと。
あたしの今の、この境遇を、守らないと。
ううん、守るだけじゃない。
戻さないと。
中学時代までのあたしの、まともな、そして幸せな日常に。
「んく……あ、はぁ、あむ」
「っ……あ、やば……」
ちゃんと毎日、家に帰って。
学校に通……は、まぁ、未定だけど。
朝起きて、夜に寝て。
こうして、定常的に、彼に会って。
できれば、友達だって、もう一度……
「夕、夕……ん、ふぅっ」
「ちょっ、あ……そこっ」
優等生で、真面目なあたしにまで、戻らなくてもいい。
けど、普通のコには、戻りたい。
夕の隣にいても問題ないくらいの、普通の女の子に、戻りたい。
「ヤ、ヤミ先輩っ、ここじゃ、これ以上……っ」
「……やっぱ、行こっか? ホテル」
「それって結局、引きこもりじゃん……」
「あははっ」
松下絢深、今んとこ、二度目の一年生。
今から、人生のリベンジ、始めようって、誓った。