第二八話 短い旅の終わりに(前編)
七月下旬。
大抵の高校が、夏休みに入った後の、よく晴れた夕暮れ。
「うっわ~、見て夕! 目の前海~!」
「しかも海に沈む太陽! めっちゃ絶景じゃん!」
ホテル(健全なやつね)の部屋の、カーテンと窓を開け放つと、真正面にビーチが広がっていた。
それどころか、沈みゆく太陽すら真正面。
うん、宣伝文句通り、これは完璧なオーシャンビュー。
大枚はたいただけのことはあった。
「でも本当なの? こんないいホテルなのに一泊五千円って」
「もちろん。だってウチに転がってた優待券使ったからね~」
うん、もちろん嘘。一人あたり五万超えてた。
ま、でも今のあたしに、金を気にする必要はないんだよね。
…………
…………
夏休みに入って早々、約束通りあたしたちは、こうして二人きりで海へ来た。
計画立てて、ホテル取って、特急券取って、毎日電話でその話をしてワクワクして、あとは夕が夏休みに入るのをひたすら待ちわびて。
「それにしても、ほんっといい景色だよね……」
「って、な~んで今ごろはしゃいでんだろうね、あたしたち。ホントなら昼間にビーチで堪能してりゃよかったのに」
「……ヤミ先輩が部屋から出たがらなかったからだろ」
そして待望の海に着いたら、すぐにアーリーチェックインして、荷物を置いて海で泳ぐ……はずが、なぜか部屋で“謎の数時間”を過ごして今に至る、ってワケ。
「だって暑いのも日焼けも嫌だし」
「ほんっと、ヤミ先輩らしいっていうかさ」
「こういうの夢だったんだよね……こうして海に沈む夕陽を見ながらイチャイチャとか最高じゃん?」
「さっきまでもしてたけどね。海も太陽もまったく見ないで」
うん、お察しの通り、シたよ。
チェックインして、荷物を置いたら、すぐに夕に覆いかぶさった。
他の海水浴客たちが海から引き上げる時間まで、部屋に“夢中で”引きこもった。
ごめんね、健全な高級ホテルさん。
結局、不健全な使い方しちゃってさ。
「あ~もう、帰りたくない~」
「来たばっかじゃんヤミ先輩」
窓の側に置かれたベッドに二人並んで座り、水平線に沈んでいく夕陽を眺める。
夕暮れのビーチには、もう誰もいなくて、波の音だけが行き交う。
でも夜になったら、花火を持ったパリピが集合してまた賑わうんだろうな。
「けど明後日には帰っちゃうんだよね……本当なら、一週間くらい遊び惚けたかった」
「ごめん。親に学校の勉強合宿って嘘ついてきちゃったから、そんな長期間は……」
「そういえば、初めて一緒に泊まった時も夕、親に嘘ついてたよね~」
「あの時のことは思い出させないでよ……」
「……あたしとこうなったこと、後悔してる?」
「違うよ、後悔してるのは、受験に落ちたこと」
ベッドの上の夕の手に、触れる。
そしたら夕は、男のコらしく、しっかりと握り返してくれる。
ほんのちょっとだけ揺らいでしまったあたしの心を、その優しくて力強い手で引き戻してくれる。
「でもよかったよ。ヤミ先輩、楽しそうでさ」
「そりゃそうなるって……先月から、ずっと楽しみにしてたんだから」
「うん、先月とかさ、ちょっと心配してたんだ」
夕は、握った手を動かし、ちょっとたどたどしく、指を絡めてくる。
「ほら、あの頃のヤミ先輩ってさ、なんか俺を遠ざけてるみたいだったし。それに、なんか追いつめられてたみたいだし」
「え~、そうだっけ? それって会えなかった夕が溜まってただけなんじゃないの?」
「冗談じゃなくてさ……家のことで、何かあったんじゃないかって……」
その感触が、くすぐったくて、安らいで、嬉しくて、切ない。
「あ~、大丈夫、そういうの全部、なんとかなったから」
「本当に? 俺には嘘、つかないでよ?」
だから、そうやって指絡めながら、そゆこと言うなよ。
また、雰囲気ぶち壊してでも、シたくなるじゃん。
せっかくいい雰囲気なのに、溶けあいたくなっちゃうじゃん……
「……夕に、嘘なんかついたことないよ」
「嘘ばっか」
「まぁね~」
でも、今度ばかりは、嘘じゃないよ、夕。
本当に、なんとなかったんだ。
父親と母親の離婚は、成立した。
あいつは、本当にあっさりウチを出て行った。
実家も、結構な預金も、たくさんの資産も置いていった。
多分、そうまでしても、母さんから……
ううん、あたしから、離れたかったんだろうね。
だから、何もかも、元通り。
そう、完全に元通りになるんだ。
母さんと『二人きりで』幸せに暮らす日常に……
「…………」
「……ヤミ先輩?」
「いや~、心が穏やか過ぎてぼ~っとしちゃうわ~」
「さっきまで激しく暴れてたくせに」
「夕だってさ~、ふふ」
絡まった夕の指を、ちょっといやらしく撫でる。
そしたらコイツは、すぐにビビって、びくんって反応する。
「でもホント、こういうのいいよね……お喋りしたいときに喋って、シたいときにシて、寝たいときに寝て。で、起きたら、さっきシた相手が隣にいてさ~」
「いちいち生々しいんだもんなぁ、ヤミ先輩の言い方……」
「それくらい、こういうのに憧れてたってこと」
でも、絶対に逃がさない。
指ぜんぶを使って、意地悪なくらいに絡みつき、もうどの指がどっちのかわからないくらい、一生懸命繋がる。
だって、今日くらいは、明日くらいは、明後日くらいは。
ずっと、溶けあっていたいんだよ。
「別に旅行じゃなくっても……帰っても、そういうこと、できるよ」
「できる、かな?」
「特に今は夏休みだからさ、その気になれば毎日でも会えるよ」
「補習あるくせに」
「ま、まぁそれはそうだけど……会えなくても、毎日電話してさ」
「それだけじゃ、やだな……」
「わかったよ。じゃあ、何とか都合つけるから……」
今日くらいは、明日くらいは、明後日くらいは。
……なんて、本当は、そんなんじゃ、嫌。
「ね、夕」
「うん?」
明後日の、帰り道を、別れ道を、想像するのさえ、嫌。
「一緒に、暮らさない?」
「……は?」
一秒、二秒……
夕の、ぽかんとした顔が……
どういうふうにも、変わっていかなくて。
驚いたとか、はっとしたとか、そういう真剣さを感じるものじゃなくて。
ただ、ポカンと、呆然と、何の想定もなく、そして何の可能性もなくて。
「だからさ~、あたしが夕をヒモにしてやるから一緒に楽しく暮らそうよ~。あははっ」
「あ~っ! また嘘ついた!」
だからあたしは、すぐに“方向転換”する。
「ま、そりゃヒモなんてピンとこないよね~夕は。何しろ青春まっさかりだもんね~」
「ヤミ先輩だってそうでしょうがよ」
繋いでいた指を離し、夕の鼻先を愉快そうにつつき。
からかいがいのある年下の男のコを弄る、陽気で怠惰なビッチを演じる。
これでいい……
ううん、最初から、そうするって決めてたじゃん。
なにひよってたんだ、あたし。
「ところでさ、晩飯どうするヤミ先輩?」
「いいじゃん別に、一晩くらい飲まず食わずで抱き合っててもさ」
「せめてルームサービスくらい頼もうよ……」
「え~、めんどい~」
「どんだけ物臭なんだよ……」
違うよ、夕。
もうあたし、食事をする時間も惜しいんだ。
夕陽から、夕闇へ……
ヒカリから、ヤミの時間へ……
今だけは、お前を独占させてもらうよ、夕。
松下絢深、ううん、数日前から須藤絢深。
タイムリミットまで、あと、何時間、かな。