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ピンク映画と日活ロマンポルノ3

日活ロマンポルノは私にとって、最高地点であった。野心が強い私は本当に嬉しく、演技の出来不出来に関係なく、心の中ではガッツポーズをしていた。しかし、華々しくロマンポルノ映画デビューしたものの、日活作品ではお呼びがかからず、フリーで活動する私には、ピンク映画出演の話が来るようになった。

1984年。私の撮影メインは「東活」という制作配給会社。表向きは独立会社となっているが、母体は「松竹」であった。社長一代限りという約束でピンク映画を制作していた。当時3、4名の監督で、月6本ほどの新作を回していた。そのため監督たちは別名を持って撮っていた。当時私が知る中では、大八木周平=榛葉大吉、稲尾実=荻西太郎、新田栄=北川純、である。私は、大八木監督と新田監督の常連となったが、1年ほどで大八木監督が撮らなくなったので、新田監督の専属みたいな形となった。

「東活」作品の特徴は、ストーリーより女の裸重視である。カラミシーンも顔アップではなく、部分アップが多い。いわゆる本当のエロ映画だ。なので、当時、役者のバイトとして出演していた男優たちは、東活作品に出演するのを嫌がっていたし、蔑んでいた。これには逸話があり、初期に出演していた女優は、社長のオンナであり、水商売の人だったとか。つまり、演技も何もできないので、仕方なくアップばかりでつないだ、という話が伝わっていた。それでも客入りは良かったのだろう。だからあえて、お金と時間のかかる芝居部分を撮らなくとも役割は果たせている、と思い、それが引き継がれてしまったのだろう。

東活は、マンションの1室をロケ場所として所有していた。なので、どの現場でもそのマンションの部屋が登場していた(これも経費削減のためか)。監督たちは、なんとかして違う部屋に見えるように、撮る角度や置物など変えてみるが、同じ部屋を使っていることはバレバレであった。そんな制約があったものの、監督たちは工夫して映画作品を撮っていた。私は東活作品でストーリーを覚えているものはほとんどない。しかしギャラは万全。きちんともらっていた(お金のかかるようなシーンは作らないから)。

ピンク映画の制作費は300万〜350万円。これは1970年代から変わらない。撮影日数は当時4日間。そして制作必要経費、フィルム現像やアフレコ等に250万程は最低必要だ(上映時間は60分〜70分と決まっている)。つまり現場費は50万ほど。ここから役者のギャラも支払われる。女優は一律、1日3万5千円のギャラ。なので実質的な現場費は無いに等しい。役者の衣装、小道具は自前。食事もほとんどが自前。いくらギャラをもらえるプロの世界とはいえ、本当に皆が手弁当で参加しなければ、成り立たない業界なのである。

そんな中でも監督たちは「映画を作りたい」と情熱を燃やしている人たちが多い。こだわりが強い監督は自分の取り分を減らしても衣装や、小道具を集める。フィルムも思うように使えないので、NGを出さないようにテストが繰り返される。特に長回しをするカラミは、体位を変える時に前貼りが映らないよう、細心の注意が必要となる。本番となりカメラが回っても、監督、カメラマンは、必死に指示を出す。「あー、そっち向くな。そう、そこに手を置いて!いいよー」ちょっと危ないと「あー!!」とスタッフ全員から声が出る。命の次に大切なフィルムなのだ。NGを出そうものならブーイングの嵐。「なんだよー。参ったなー。あーあ、、」大の大人が皆でしょんぼり。OKが出れば「フー、ギリギリ大丈夫だったね。良かった良かった」と皆が胸をなでおろす。このような事情があるので、むしろ同録出なくて良かったのだろう。

さて私。新田栄監督は「新東宝」も撮っていたので、私はようやく東活以外のピンク映画に出演し出す。新田監督はもともと役者だったので(北村淳)ギャラはきちんと支払う。とはいえ、出演本数が増えてくれば同じ服は着れないので、常に買い揃えなければならない。私は高校生役が多かったので、ほとんどセーラー服だった。そのため私服は少なくて済んだ。新東宝作品に出演した事で、他の監督の目に触れることとなり、出演本数はどんどん増えていくのだった。当時の配給会社は「新東宝」「大蔵」「ミリオンフィルム」「東映セントラル」と賑やかであった。

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(1984年公開 新東宝 このタイトルで大入りとなり、タイトルに<ONANIE>とつく作品が増えた。私の芸名はデビュー初期の五月女のまま)






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