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2009年11月24日(火)

まだ夜は明けない。ミルクの、籠を噛む音が部屋に響いている。私はその音を聞きながら、朝の支度を始める。今日はいつもの支度以外にもしなければならないことがある。展示替えの日だ。作品とテープと作品集と。昨日のうちに鞄に入れたけれども、それを再度確かめる。これらがなくては何も始まらない。
ベランダで髪を梳かしながら薔薇を見つめる。昨日のうちに病葉は一通り摘んだ。また増えていないか、それが気懸かりでひたすら葉を目で辿ってゆく。あやしいものは全て摘む。もしかしたらただ汚れているだけかもしれない葉でも、白い斑点に見えたら全て摘む。でないと病気は広がってしまうから。一方、数少ないながらもついた蕾は順調だ。少しずつ少しずつ膨らんできている。唯一、マリリン・モンローの蕾が開こうとしない。これだけ膨らんでいるのにどうしたというのだろう。やはり天気のせいなのだろうか。立ち枯れたなんてことはないだろうか。それだけが不安。

ふと思い出す。先日出掛けた折、林の中で栗鼠たちを見つけた。二匹じゃれて遊んでいるのかと思って眺めていると、いや違う、喧嘩の真っ最中なのだということが伝わってきた。二匹、お互いに全く譲ろうとしない。全身の毛を逆立て、きぃっと甲高い声を上げながら追いかけ追いかけられしている。もう終わるのかと思っても一向に終わる気配が無い。私はしゃがみこみ、じっと彼らを見つめている。でももはや、人の気配など感じる余裕はないのかもしれない。それほどに彼らは荒れ狂って、相手をやり込めることだけを考えているようだった。結局十分、十五分しても止むことはなかった。栗鼠というのがこんなにも執念深い動物だったとは知らなかった。私は立ち上がり、彼らにちょこっと手を振る。彼らはやっぱり気づかない。きぃっ、ふぅっ、手前の木に駆け上ったと思ったら相手は隣の木、それを見つけると再び追いかけてゆく。どこまでもどこまでも。
そんな栗鼠たちを、木々たちは黙ってしんしんと、見守っている。

洋菓子よりも和菓子に目が行く。今回も、懐かしい代物を見つけ、土産にした。栗羊羹だ。父に渡すと、目を細め、懐かしそうな顔を少しだけした。そうして帰っていった父。帰宅して、母と一緒に食べるだろうか。それともしばらく取っておくんだろうか。
その昔、まだ私も弟も幼かった頃、父母はその栗羊羹や栗金団を買ってきては、私や弟の手の届かないところにしまいこんだ。それを私はいつでも見つけ出し、真夜中こっそり味見する。ばれたときはとんでもなく怒られたが、でも、私はその誘惑にいつも負けた。それほど私にとってはおいしい代物だった。
あの頃のことを覚えていますか、そんな気持ちで、私は栗羊羹を買って来た。父母は気づいているだろうか。二人だけになったとき、そんなこともあったねと話しているだろうか。できるなら、思い出していてほしいと思う。できることなら。
栗金団は母が、栗羊羹は父が、好んで食べていた。私は両方好きだ。だからいつも、両方をちょこっとずつ食んだ。本当にちょこっとずつ、こっそり戴いた。でもいつだって、じきにばれた。烈火のごとく怒る父の前で小さくなって、拳骨をもらい、それでも謝ることができずに私はいつも俯いていた。それさえも今は懐かしい。

娘を連れて映画館へ。娘が観たい観たいと言っていた映画はすでに二回分とも満席でどうしようもない。結局手近な映画を観ることにする。
映画館での娘の集中力には、いつも驚かされる。正直、子供というと、映画館でちょこまか動いたり喋ったり眠ったりと忙しいイメージがあった。しかし、映画館に初めて連れて来たときから、娘はどうも違う。大きなスクリーンを一心に見つめ、じっと映画を観察している。私が退屈でうとうとしてしまっているときでも、娘はじっとスクリーンを見つめている。そして、それがどんな大人向きな映画であっても、映画が終わって感想を聞くと、彼女なりの感想をこちらに伝えてくる。しっかり観てるのだ、彼女には伝わっているのだと、私は少々舌を巻く。
今回も、どうだったと聞くと、今回は女優に対しての感想が出てきた。自分はあの女優さんが一番よかった。どうしてと聞くと、あんまり目立たないんだけどなんかこう溢れてくるものがあって、それがよかったよとしっかり返事が返ってくる。だから、ママはこっちの女優さんが一番好きなんだよねと言うと、娘は、ママ、この人は怖かったよ、本当に狂っちゃうのかと思って怖かった、と言う。ママはそこがいいと思うんだけど、と言うと、娘は、私はそこが怖いんだけど、と笑う。
子供だからといって侮ってはいけないのだ。つくづく思う。

洗濯機を二回まわす。その大半が娘の洋服だ。そしてその殆どが友人のお嬢さんからのお下がりだ。これらの服に私はどれほど助けてもらったろう。
外に買い物に出ることが難しい。買い物に行っても行った先でどうしていいか分からなくなる。そんな私にとって、彼女から届くそのお古着は、大切な大切な代物だった。娘はそのお嬢さんよりちょいと太めで、だからジーンズなどは太ももが危ういものもあったりする。そうすると、ママ、私って太っちょなの?と娘が尋ねてくる。うーん、まぁママも太っちょだったからそうなのかも。今ママ太っちょじゃないじゃん。いや、あなたくらいの頃は太っちょだったよ。っていうか、あなたと同じ、健康優良児そのものだった。太もももぱーんとしてて、お尻もぱーんとしてて、ずいぶん恥ずかしかった。私もそうなんだよねぇ、だってクラスには20キロしかない子もいるんだよ、私より10キロ以上少ないよ。いやになっちゃう。ははは。今の子供はみんながりがりだからなぁ。でもいいじゃない、多少ぷりんとしてる方がかわいいってもんだよ。なんか全然慰めになってないんだけど、ママ。そう? そんな会話も、彼女から送られてくる服があってこそ、だった。本当に、いくら感謝しても足りない。
干し終わった洗濯物が、ベランダでひらひらと風に揺れる。

朝の仕事がうまくいかずへこんでいると、娘が言う、そういう時はさっさと出掛けちゃえばいいんだよ、16分にバスがあるよ。え? そうなの? なんで知ってるの? この前時刻表見て覚えた。ほら、上着着ちゃいなよ。
そうして娘に背中を押され、私は家を出る。玄関でココアを掌に乗せた娘が、いってらっしゃーい、がんばってねーと笑顔を見せる。今日に限っては何となく照れくさくて、私はうん、いってくる、とだけ言い、ココアをくしゃくしゃ撫でて玄関を出る。
何だろう、やっぱり落ち着かない。うまくいくだろうか。ちゃんと展示できるんだろうか。いや、できなきゃ困るわけなんだけれども。だからどうやってもしっかりやり終えるわけなんだけれども。それでもやっぱり落ち着かない。
混み合う電車、長い長い距離、それが余計に私を押し潰す。気持ちがもう、ぺしゃんこになりそうになる。だから私は敢えて、深呼吸をする。そうしてひとり、またひとり、親しい人の顔を思い浮かべる。
大丈夫、やれる。
駅を降り空を見上げると、曇天。のったりとした灰色の雲がゆっくりと流れてゆくのが分かる。行き交う人はみな、コートの襟を立てて歩いてゆく。空気がぴりりと冷たい。色の変わり始めた桜の樹の葉が、ぷるぷると震えている。
でもきっと、この雲の向こうには水色の空が広がっている。青々とした空が。僅かに雲の割れ目から降りてくる光を信じて、私は一歩、また一歩歩く。

耳元ではシークレットガーデンのRaise your voiceが流れ始める。
もう大丈夫。ちゃんとやれる。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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