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2009年09月11日(金)

目が覚める四時半。痛いなぁと思いながら横を見ると、娘が90度回転して、私の腰の辺りに頭突きしている。あぁこれのせいか、と納得し、私は寝床から立ち上がる。ふらりとして慌てて壁に手をつき身体を支える。最近このふらりが多い。今は朝だからというのもあるだろう。でもバスの中で、電車の中で、やたらにふらりと来るのは困る。栄養のあるものを食べていないのかしらなどと、最近のメニューを追ってみる。昨日は娘のリクエストで冷やし中華だった。私の冷やし中華はやたらに野菜が多くなる。昨日は、胡瓜とトマトの他に山芋とわかめも加わった。「ねぇ、ママ、具が多すぎるよ」と娘は文句を言いながら食べたんだっけ。苦笑しつつ私はベランダで髪の毛を梳かす。
薔薇のプランターたちを見やりながら、近々ここにもう一つ二つプランターが加わるんだと思い出す。さて、何処にどう置こうか。ベランダの半分はもうプランターで埋まっている。冬の球根の分もとっておかなければならない。さてさて、困った。もう一方のベランダにもプランターを運ぼうか、どうしようか。土も作っておかなければ。やらなければならないことが結構ある。

昨日の撮影は太陽光の変化にさんざん悩まされた。風がふいっと吹いただけで光の加減が変わる。モノクロならそれくらいごまかせるが、カラーになるとそうはいかない。だからカラーは苦手なんだと悪態をつきながら、私はカメラをあれこれ構え直す。それでも出来上がった代物は、撮り初めと撮り終わりの頃と微妙に背景の温度が変わっていて、調整が必要になる。あぁ自由に撮りたい、とつくづく思った。いまどき、仕事でモノクロなど殆どない。いや、全くないに等しい。カラーの、しかもデジタルになる。アナログ志向の私には撮影の仕事は合わないんだよ、などとぶつぶつ口の中で文句を言いながら、仕事を続ける。しかもここには時間も加わる。どれだけの時間内にやってのけられるかも。ひたすらじっと仕事をしていたら、なんだか体が痛痒くなってきた。錯覚だと分かっていても苛々してくる。あぁいやだ。カラーなんて嫌いだ。
モノクロ写真を焼いていると、私はほっとする。自由を感じる。ここで何をしてもいいよと励まされている気さえする。私の目は確かに色を映すけれども、私の頭はどうもモノクロでできていて、色味より輪郭に陰影に先に目が行く。もうこれは個人の習慣というか癖のようなものなのかもしれないが。

父母に電話がようやくつながる。電話口に出た父に、何も告げず一体何処で何をしていたのかとわざと問うてみる。わけの分からない、そうかそうかという言葉だけ残し、父がそそくさと母に電話を渡す。あの父がうろたえているさまが目に浮かび、思わず笑ってしまう。父にそうした仕草は似合わない。電話口に出た母が、ぶつぶつ文句を言いながら、私にちょっと出掛けてただけよと言い放つ。そうそう、こちらが心配しようが何しようが、文句言ってしかと背を伸ばして立っていて下さいよ、あなたたちは。そんなことを思う。どんな陰口を誰に叩かれようとびくともしない姿を貫いてください、それが私の父母です。陰でどんなに泣いていようと、そんな素振りちらとも見せず、その隙の無さに相手が苛々するほどの立ち姿で。
そんな、私が心配してかけた電話のはずなのに、孫のことばかり話す母。「一体夏休みどういう勉強をしていたの?」「何もできていないじゃない」「間違ったところを直すことだけしていたんでしょう、それじゃぁ勉強にならないのよ」「音読もこれでもかというほどひどくいい加減になってるの、あなた気がついてる?!」。小言は延々と続く。はいはい、ごめんなさい、分かりました、気をつけます、私は電話に向かって頭を下げる。
それでも。
居てくれるのだから、私の親はまだこうして生きていてくれているのだから、これほどありがたいものはないと思う。まだ生きていてくれている、それだけで、ありがたい。過去にどんなことがあったとしても。今は今。そう、今は今。過去は過去。

朝の一仕事を終えてふと籠を見ると、ミルクが一生懸命柵によじのぼっている。あなた、何やってるの、と声をかけて気づいた。軍手だ。籠のすぐそばに置いてある軍手に何とかして手を伸ばそうとしているのだ。それに気づいて、娘を呼ぶ。すると娘が、ねぇママ、ミルク、口に紐くっつけてる、と言う。どれ、と見ると、確かに、軍手にかぶりついたのだろう、軍手の解けた糸のはしきれがたらりと口から垂れている。娘にミルクを抱かせ、何とかその紐を引っ張り出そうとする。ミルクが何するんだといった顔で逃げ回る。私はしつこくこちらを向かせ、ようやく糸を引っ張り出す。五センチほどの長さの紐だった。こうやって軍手第一号は指が解けたわけか、とようやく納得する。ミルクはというと、あぁすっきり、といった様子で顔を洗っている。まったくもって、世話の焼けるヤツだ。その隣で、ココアは、ひょうひょうと、何食わぬ顔でひまわりの種を齧っている。

こんな朝は。何もかもがすんなり運ぶ気がしてくる。笑いながら、怒りながら、時々立ち止まりながらも、それでも一日がすんなり過ぎていきそうな気がする。

一瞬、割れた雲間からさぁっと朝日が降り注がれる。ちょうど玄関を出たところで、私たちは立ち止まる。アメリカン・ブルーの緑がきらきらと揺れる。向こうのビル群のガラス窓が、光を反射させ輝いている。少しずつ少しずつ、半袖では寒くなってきているなと思い振り返れば、娘はまだ、袖なしの、まさしく夏の格好でランドセルをしょっている。半袖同盟は今年も続くのだろうか。私は小さく笑いながらその後姿を眺める。

ハグしてキスして。手を振り合って。植木おじさんの朝顔も、もう残り一輪になった。その脇を娘は歩いて、私は自転車にまたがって通り過ぎる。さぁ、私たちの一日がまた、始まろうとしている。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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